今日は


人生の通貨は

感覚

という話。




舞台も、日常も

人間社会も

感覚がベースとなり


欲となり、意思となり、思考となり


意味や言葉のやりとりとして

行われています



ちなみに感情とは

つよい感覚のことなんだが



感情と書くと

その人の記憶の中の意味と

強固に結びついてるので



客観的にするために

感情も感覚

としてます。



表現もそうなんですが



説明的になってしまう人

というのは



自分が捉えられる意味や形に

こだわりすぎるところがあります。



私もそうなりやすい😆


意味の筋が通るもの

にしたがる。



人って結局は

得られた意味や形を


既存の自分が

わかりやすい感覚で

納得したいわけです。



だから最初から

感覚の方にフォーカスする


そして

そこでのやりとりが

できるようになればいい。



まずは

感覚に、価値がある。



強い感覚や

味わったことのない感覚なら


自分も他者も

引き込んだり

満たせます。



意味も言葉も思考も

元は感覚なので



意味と意味



感覚と感覚


の組み合わせで



実際にはない感覚も


作れるものなんです



例えば


意味(名前)をつけるとしたら

たぬきさくらもち



現実にはない

意味であり、感覚です



でも人間がよくやってしまうのは

理解されるような

既にある意味や形に当てはめて

そこを求めてしまう



その人間社会で通用する

確実に捉えられる

既にある


意味


結果



そこにこだわってしまう



その根本にある

感覚自体は


抽象的で

捉えにくいもんだから



その価値には

まだ気がついてなかったりする



まず

感覚で味わおう

感覚で遊ぼう

とはなりにくい。


どういう意味なんですか?

から理解しようとするから


頭の使い方、順番を間違える。



感覚が、言葉になって

感覚が、物になって



意味や形になったものを

人間どうしで

交換しているのだが


感覚をベースにして

そこから何でも考えたほうが

じつはスムーズなんです



意味として

合っているか

間違っているか


基準、健全、不健全など


そうやって区別しないと


社会は成り立たないから



意味や形の方を

まず求めてしまう



分別の賢さは

本質の感覚から遠ざかる



「意味と分別の差別」

に苦しむ



そこが

人間社会の沼

だなぁと思う。



勉強するか

山にいくか


それとも海か