作品ダンサーの仕事は

舞台俳優と同じなので



そのイベント

その作品

演出家によって


振付や表現や衣装や小道具を変えます。


踊るというより



その都度

自分ではない別人になる

誰かの世界観になる

ってことです。



このことは作品ダンサーとしては

当たり前なんですが



踊りの先生の中には

「大前さんの表現が」

良くなった、悪くなった


みたいな見方をする人もいるんです。



舞台芸術の世界に長くいる人ならば


作品や演出によって

「別の何か」になることは

わかってても

よさそうなんだが



ちゃんとわかってない人もいるから

会話をしてても


「はあ、そうなんですねー」

って私が話を合わせるだけ

みたいなこともある。



だからぁ〜

俺の表現は作品によるし

演出によるんだって!



って心で思いながらも

腹が立つこともある。



あなたが

「大前さんの踊り」

だと思っているそれは



半分は合ってるが

半分間違っていますよ。



自分ではない役

自分の主観ではない

誰かの世界観を

表現するわけなので



自分が今やりたいことや

自分の主観では

表現はしない。



作品ダンサーは

「自己表現では、ないんです」



なるべく自分から離して


この作品が、伝えたいことは何か

どう伝えるか?


それを演出と

探りながら作っていく



ロバート秋山のクリエーターズファイル

みたいなことをやっているわけ😆



作品内では

自分(大前光市)は

表現してないことがほとんど。



自分から離れることに

チャレンジするジャンル



自分(私の主観、意味)から

離れて


誰かの主観、誰かの意味を

表現することが仕事。




とくに身体表現は

人物ですらなかったり

抽象的なのも表現するから



シュルレアリスムとも

相性が良かったりする。



ただ、年がら年中

様々な作品に出演しても


作ったものがあまり残らないのは

虚しく感じるけど。



夏草や
つわものどもが
夢のあと



変化して
過ぎること
はなれること


そこに残る機微のみ

抽象的に
たのしにたい。



しかしまぁ


こうやって書くと


俺はすごい自分自分してて



評価される実感がほしくて


守りたいのだな


と思う



人生かけて主観から離して


客観に近づけていく練習をしていく



何者でもない


ただの客観感覚とは



自分ではない、感覚に


ちゃんと、行き来することで


そのようになれる