今日は

意味で、ものを見ていた


だから

ただ感覚で感じとる

その集中力を鍛えよう

という話。




人間社会に生きていると


生きていることを

意味で捉え

考えてしまいがち。



言葉で説明できるもの

を求め、求められる。



これの名前

あなた


これは何か

どういう意味か


どちらの方が良いか

どんな価値があるか

など




狭い人間社会の中でしか通用しない

意味で、この世界を理解して


安心したいと思っている


その捉えかた自体が

自分の世界を

狭くしていて


それが

様々なものをフラットに

感じとれなくさせている



意味理解の

ジャッジ
コントロール


生きづらさになる。



プライドが高い人ほど

生きづらさを感じやすいのは😆



意味のわかる

美しさ、カッコ良さ、賢さ


歴史、型などの

昔の誰かの概念に

執着してしまいやすいから



みんながわかる評価で

自他を認識し

そこで安心しようとするから

そうなる。



もちろん私も漏れなく


そのジャッジの中に

巻き込まれてきて



言葉で理解できる

物の見方を

信じてきたわけよ。



だが、本来は

そういうことじゃない



ということが

勉強してわかってきた🤣

わけなのだけど。




「感覚」を通したもので

世界を感じとることが


本来の満足(自己満足)

自己肯定感の

感覚。



体を上手く働かすためには

ストレッチが必要なのと同じく



本来の

頭の柔らかい状態にすることも

必要



人間社会に生きていると

意味が固定されやすくなるから



そのルールや意味(解釈)が

すべて世界の事実なんだと

思い込んでしまうのよね



これはこういう意味だ

と理解できるものでしか

実感ができない

ってことになってしまう



例えば、極端にいうと


一万円札には価値があるが

一円玉には価値がないから


「それは意識を向けるに値しないもの」



目の前にある現実を

意味変換をしすぎると

感覚、感触の思い出が少ない世界

になってくるんだよね



発想も

構築型ワンパターンになる。



すごく勉強して

「そこに詳しくなるほどに」


人間社会ジャッジに巻き込まれる。



その知識に詳しくなればなるほど

「感覚はバカ」になる。



感覚、感触で捉える世界では

すべてはフラット



あるのは

意識するか、しないか

それだけの世界がある。



原始の地球にいるような

良いも悪いも

名前も意味も

まだない


そういう世界の認知がある
(有るとか無いとか、その概念すらない)


そんな発想で世界を

臨場感のみで捉えるのが

アーティスト



元々その感覚で

世界を感じとれる人もいれば


私みたいに勉強して

リハビリして

少しづつわかる人もいる



動物的な世界には

意味や言葉での分別はないし



動物たちは

「私は生きている」

とさえ

思っていないだろう



私、私たちは

人間から見た意味で

世界を捉えすぎてきた





これからは


そこを崩せる

抽象度を高くした「感覚」と


そうなれる手段としての

日本語シュルレアリズム的アートを

大切にしていこうと思う