今日は


博多にいたのですが


移動時間で




松尾芭蕉の風景(俳句)を見ながら


世界の見え方(日本語の組み合わせ、機微)


について


考えておりました。













この世界の実感は


原子の組み合わせの


量(濃淡)の違いと



それどうしの影響


があるだけです。




文字の組み合わせの違いが


言葉や意味(のようなもの)


を作っていて




それを構成している大元は


同じです。




禅や美を理解し


意味や概念の世界(形而下)を


少しづつ崩すには



新しいものの見方で


目の前にあるものの見方を


捉え直したい。




そのための新しい考え方とは




自分も、他人も、物も


脳(記憶)も



人と人のその間にある空気ですら



「細かくすれば


皆ただの原子」




その原子の


グラデーションで


すべてつながっていて


影響をあたえあう




という発想で世界をみるのがいい


と思っています。




映画「マトリックス」の


最初にでてくる



0と1の組み合わせ(プログラム)



あの世界のイメージが一番近いのですが



コンピュータ言語は


0と1の組み合わせで


意味になる



わけなんですが




禅の世界では


分別(違い)という概念はなく



1(無分別の実存)のみの


世界がそこにあります。




すべては


1


(一如)




元々ある原子の


組み合わせ、量


濃淡による違い


があるだけで



それぞれが


違う別のものではなく



すべては同じもの


という考え方です。




一般的な世界では



それぞれに言葉(意味)をつけ


違い(分別)をつけ




それぞれが別のものだと分けることで


その違いから世界を理解しています。




禅の世界や


ある種の現代アートの世界では



そもそも


そういうロジックではないんです。




宇宙人と話すと


会話が噛み合わない



みたいなことが


おこるのと同じで



禅の世界の人と会話をすると


禅問答(禅ロジック)で返されるので




元々の世界の捉え方が


噛み合ってないんです😆




私たちが当たり前に教育されてきた


意味世界の共通認識で


会話することが


難しいんです。




最近の私が


しきりに語っている禅が


そもそもどういうノリなのか



それの一番的確な言葉が


今回の内容




「世界を原子のみで捉える」


「すべては原子でつながる世界」



そうやって世界を見る


それが禅の世界観に


かなり近い考え方


だと思います。




そうやって私は


意味で捉えながらも



実存、実感というのが


どういう状態なのか



つかんでいく。




この学びが後々


自他に差別のない


無分別の世界視と




実感(フロー)のみがある


幸せにつながっていくと


信じている。