今年に入ってから

勉強していることの中で

目から鱗が落ちた発想を

シェア。




「問いは

問い自体がなくなれば

問いではなくなる」


という発想。



問い、問題は

どこから生まれるのか?



問いは

何かに意味(言葉)をつけた瞬間に

生まれてくる



その意味を基準にした

答え

になるからだ。



でも

その問題を

世界が生まれた時から存在しているものだと

思いがちなんだが


そこは違う。



例えば、今日は


みのお新駅開業の日なんですが

あいにくの

雨☔

なんです。



晴れた青空の下で

親子連れやお年寄りなど

そこに集まり

新たな路線をガヤガヤ祝う


という日ではなくなる

わけなんですが


なぜ、晴れてくれないのか?


という問い(願望、価値観、発想)は


人間がそこに意味づけすることで

生まれている

ということ。


自然からすると

意味は、ない

ただそこに事実のみがある。



なので

人がそこに意味を付けてしまう

そこを

疑わないといけない。




人間社会で感じる

いろんな葛藤もすべて


そもそもその出来事から

意味を見出してしまうことから

はじまっている。



問題を問題としているのは

人(自分自身)なんです



解決や答え

というのは

「人間(自分都合)の答え」であり



それはあくまで

人間社会でしか通用しない

意味であって



世界の答えではない。



それを

嬉しい、悲しいをこえて



正しいとか間違っているとか

豊かになったとか

貧しくなったとか

思い込んでしまうのは


人が

意味付けをし合って

暮らしているから。



「環境破壊は良くない」

という問い

その答えも



「人が、住み良い環境で永続的に暮らす」


という世界の

意味付けからきている

問いと答えになる。



その世界では


人が暮らし続けるために


環境破壊が進んだら

暮らしにくくなる


という問題が生まれたわけで


それでは良くないので

じゃあその問いを解決するには

どうすればいいのか?

という答えが生まれてくる。



問いのほとんどは

人間社会、人間都合の

問い。



人のみが理解できる

問い。



意味付けされたものの中で


良いとか悪いとか

問題とか

生まれているんです。


環境破壊という言葉の

環境は、事実だが

破壊は、意味。




事実と意味付けは

本来は

別のもの。



で、それは

人間社会のどんなものにも言えて



これが美しいとか

成功したとか失敗したとか


ほとんどの問題、答え

良し悪しは


人間どうしの間でしか通用しない

「概念」です。


それを

意味ではなく


本当にそうなんだと思ってしまい


執着して生きてしまうところが


人間至上主義で

人間社会あるあるの

勘違いなんです



「世界は人間が作った」

のであれば

わかるんですが


違うからねぇ😆



だから問い自体が

「人間都合で生まれたもの」

だというのを

どこかでわかっておかないと



そのやりとりで

「感じとる意味」に

執着しすぎた時


ストレスになりすぎる。



人間社会のルールについてくる

意味は

事実ではないから


「意味で捉えてしまう自分」を

どこかでわかってないといけない。



極端な話、


一万円札も、ウンコも

価値は同じで


違うのは質のみ

ということ。


すべてこの世界にあるものに

優劣はない。



自分、他人も、ウンコも


世界にとっては同じ

「ただの何か」

でしかない。



あるのはただ

自分の体が感じている

実感の、違い

だけなんですよ。



本当はすべて

意味も価値も

自分次第で変わる。



実感にも優劣はなく

人も物も、喜びも怒りも

等価



人間社会に生きているから

比べることで

意味になり

問いになり


一番良い答えが

どこかにあるのだと


青鳥を求めようとしまう、だけ。



それはただの

ゲームで



その意味付けからくる

不安

その問いからくる挑戦、勉強は

成長ともなるんだが



どこかで

じつはその問い自体が
(意味や発想自体が)

そもそも生まれて無ければ


不安も生まれず

解決しちゃうことも

わかっておかないと


人生苦しくなる。



でも、誤解してはいけないのは


意味はない

ということが


「まだそこに意味付けがされていない」

というだけで


そこには何もない

という事ではないということ。



むしろ

質のみを実感する世界が

ある

ということ。



偏った発想で

世界を狭く規定しすぎてなければ


沢山の景色があることに気がつく。



だから、大人なら

ちゃんとそこも教養として

論理的に理解しとかないと



人間社会のジャッジに

巻き込まれすぎる(執着しすぎる)


おれが😆



実感する自分次第で

味わいの景色としたい。


「柳は緑、花は紅」

という禅語のように。



味付け

意味付け

ではない


実感のみをとらえる世界

がある。



「問いは

問い自体が無ければ

問いではなくなる」


も禅の発想。



世界には元々意味などなく

良い悪いもなく

あるのは実感のみ。



事実の実感に

美しさがあるのよね。



意味付け、味付けを偏らせずに

今を

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