今日は

私が勉強している

「禅」「美」が

どういうものなのか?



備忘録として

自分のために

書いてみます。



禅とは

超カンタンに言うと

「現実感覚」主義

のこと。



人間が定義し

覚えてきた意味で

世界を捉えるのではなく



赤ちゃんのように

感覚で感じとる世界に

いかに近づけるか



それを

悟りの境地

としているんです。



意味ではなく

そこにあるものを

ただ感じとる

感覚のみの世界


それが

本来の美

でもあると思う。



臨場感たっぷりに感じとれている

現実の実感を



詳細な感覚記憶として

留めておきやすくするものが

日本語。






現実世界の感覚を


こういう言葉にして


「写しとってきた人」って


すごいと思う。





語彙を覚えることが


現実の感覚を実感するための


道しるべとなる。




ただ単語の意味を


暗記するだけなら



覚えた意味の数がいくら多くても



意味で世界を捉える


という域をでないため


臨場感は出てこない。




目の前にある現実の風景を


日本語の語彙を道しるべに



「感覚を写しとるように見る」



そのための言葉


にしていく。




意味を、受けとるわけではなく


感覚を、写しとる。




環境(自然の実感)を


言葉の力を使って


感覚で覚える


ということ。




その臨場感をもって

現実を感じさせてくれるもの


それを

美と呼ぶ。



人間社会でよく目にする美とは

ファンタジーのことです。



ファンタジーの美と

禅の美との違い

についても書いておくと



ファンタジーの美は

人間が意味により


頭の中で形作った


デザインやストーリーのこと。




臨場感のある現実の美は


感覚による「実感のみ」のこと。




そこに違いがある。




宗教、物語も

美化された意味の世界

ファンタジーである。



高尚さ、美しさ、神秘さも

元からある絶対的なものだと

思いがちだけど



古いだけで

人間の(意味による)歴史が

作ってきた意味世界の

ジャッジが入ってくる。



赤ちゃんや動物は

意味(思考)で

世界をみていないから

意味として理解してない


あるのは実感のみ。


どんな時代に生まれても

私たち人間は


現実の世界を

意味を当てはめて見ていることが

ほとんどで



本来の質のみを

感じとる能力が

退化しています。



それは何か?

これはどういう意味か?

というふうに



「知っている言葉のどれに当てはまるのか」

をハッキリさせて

理解したい


という「ものの見方」が

無意識にクセになっているんです。



そこにあるものに

意味をつけ


「これはこういうものだ」

という区別をして

頭で、見てしまう。



自分にとって


意味のわかるもの

言葉で説明できるもの

ジャッジできるもの

にして


そこにあるものを

把握した気になっているのです。



そのものをちゃんと見て

ドリップな状態のまま感じとる世界に

戻してくれるもの



それを人は


と呼ぶのかもしれない。



人間が作った意味で

世界をつくれば

ファンタジーの美



感覚で世界をつくれば

現実(感覚)の美



禅が目指すのは

現実の美

の方。



言葉や知識は

禅の世界では

実感のための

手段(虚言)でしかない。



私は

感覚に「臨場感」を感じさせてくれる

ありのままを感じとれるもの

に惹かれる。




動物として「ムカついた」感覚のみなら

実感世界


「悪いやつだ」と

決めつけたなら

意味世界



実感世界の感覚を基本にして

生きたい。



今日書いたことを理解できたなら

現代アートの見方も

理解できます。
 

花道家、上野雄次さんのパフォーマンス

今そこにあるのは

名前がない
意味ではない


臨場感のある実体。



同じ空間にそれらを

シュールレアリスム(同時存在)させて

超現実(新しい臨場感)をつくりだす。



その場の一瞬に集中して
感じとるクオリア



意味で捉える人は

こういうものを見たとき


具体的なストーリーや意味を

考えても

見えてこないため


「意味わかんない」

ってなりますが😆



意味で捉えるクセを

感覚のみで捉える状態に

シフトさせたい


それが

現代アート


◯道と名前がつくもの



狙いでもあるんです。



ただ
ここにある
ここにいる
そう感じる


そこを目指すのが禅であり

美であり

生を感じとる

原点。