今日は


スーパーマニアックな内容。



だけど、自分のために


言語化する。




美、禅について。




我思う

ゆえに

我あり




自分自身のことを考える


だから、私というものがあるのだ



というデカルトの言葉。





人は長い歴史の中で


相対的に物事を考えることで


様々な意味を決めてきました。




その


人間にしかできない


言葉での意味付けは



判断する

説明する


という意味で



よりスムーズなものを


作り上げてきた




価値や意味付けを


スムーズに理解できるようになった分




恐れや限界をも作り出し


本来の姿を


捉えられなくしている




それが


人が今を精一杯生きることから


遠ざけてしまっている


としたら?




自身の体感覚と


言葉とを一致させ




生物として


本来の生き方ができるようにする


必要がある




では


本来の(形而上の)美とは


どのようなものか?


(を言葉で説明してみる😆)





本来の美は


「禅」である。




動物や虫のように


意味を考えずに


今を捉えて生きている


その状態のこと。




作られ、考えた上での


意味や価値ではなく




そこにいて


そこに感じられるものだけ


の状態にすること。




本来の美を捉えるためには


日本人的に



「自然を自己感覚と同一視」


して捉える感性


は必要なんです。




その昔


俳句を、ただの言葉遊びから


美を現すものに


昇華させた人物がいました




松尾芭蕉(まつおばしょう)




古池や

蛙飛び込む

水の音


など




景色の言葉のみで


一つの情景をつくり



読む側の想像力にゆだねる


俳句。




言葉に


直接的な人の気持ち


は表現しない。




そもそも確定された意味や


確定された人の気持ちなどは


自然(人間含)には無く




言の葉として


自然と同じように


移ろい変わるもの




「我、など無い」


というスタンスが


日本人的なのです。




あるのは


自然(事実)のみ。




そこにある事実(自然)の描写と


自己とを


同一させる。




主語はなく名詞をメインにして


最低限の動詞と形容詞で



景色の言葉とする。




自然という「静寂の実存」の中に


生物として我々が元々持つ


記憶(気持ち)を委ねる。




その自然描写から


奥底に眠る


美を呼び起こさせるのが



松尾芭蕉の俳句。





言葉から景色が浮かび



感覚イメージが呼び起こされ


音や匂いまで感じとり



言葉には表せない「存在」を感じる




知識、経験からくる言葉ではなく


いま目の前にある自然を


動物として、生物として


捉えることができたとき




普遍的な美を


感じるに


近づいていく。




その感覚を


ギリギリ言葉で捉えてるのが


天才。




閑(しず)かさや

岩にしみ入る

蝉の声



やがて死ぬ 

気色(けしき)も見えず 

蝉の声



これも松尾芭蕉の句。




蝉というものは


何も惜しまず


力を半分だけ出すなんてこともなく



小さな体全部で声を出し


そしてやがて死ぬ。




だが、今日死のうが明日死のうが


そういうことに


蝉は執着して生きていない。




過去も未来も考えず


今しかないから



死ぬことも知らず、恐れず


ただただ思いっきり鳴く


がある。




芭蕉の俳句の中にある


蝉とは


禅のことで



「今そこにある生」



その自然描写に


生を感じる。





主語(私)


未来や過去


死など



人間の考える


意味


というのを無くさせ




本来の(生物としての)美(生)


を感じさせる。




蝉のように


「生のみの状態」の獲得が


悟りである。





大義、使命、祈りも


我が介入する余地


をなくすことで



「生」のみの状態に


自分を導くことにある




それが悟りへとつながる道



「◯道」と名前がつくものは全て



手段の違いはあれど


ここの追求をしている。



禅とは


西洋的なロジック世界とも


東洋的な仏教世界とも


別発想のもの。




つづく。