半年くらい学んできた哲学についての結論

をアウトプットしております。


非常に自己満な内容なので

興味ない人は読まなくていいです😆



前の記事のつづき。



自分に見えている世界は

物事(意味)の集まりである。


意味は言葉の集まりである。


そして言葉一つ一つには

対象がある。



だから世界は

言葉による対象の集まり

と言える。



対象とは

猫とか
犬とか

流れるとか
美しいとか



人が言葉で意味をつけてきたもの



これらの対象は

言葉に写し取って

(文章を作り)

はじめて


意味として認識できます。



私たちは

そこに元々ある意味に対して

言葉や文章を当てている

と思っているが


じつは逆で



ただそこにある物事に

「言葉を当てたことで」

(それを文章にしたことで)


その意味にしてきた

というのが先。



言葉がないものは

意味としては認識できない。



言葉の世界で生きる私たち。



私たちの物事の理解は

言葉の範囲なんです。



そして言葉、文章は

「かつ」
「または」
「でない」
「ならば」


などの接続語を用いることで

いま目の前にある物事だけではなく


「想像の世界」にも

意味の範囲を広げることができている。



いま目の前には無いもののことを

想像で話せるのは


言葉があるおかげ。



私たちは

色々な言葉、文章

(意味の認識)を

経験によって獲得してきました。


でも

「言語で捉えられる限界が

(私の)世界の限界」

となっていることは


あまり認識されていない



世界は私の言語の範囲内にしか存在しない


「語りえぬもの」については沈黙せねばならない


哲学者ウィトゲンシュタインの

最も有名な言葉。



言葉で表しうる範囲が

理解できる世界。


私たちはその範囲の中でしか

世界を認識できない


その外側にある

形而上の世界の美については

語る言葉を持ち合わせていないため

沈黙するしかない。



真理や善悪、神についての議論は

言葉(意味)で真偽を判断できないため


問いそのものが間違い

だということ。



そこにあるものを

ただ、そこにあるものとして


意味で認識することは

人間にはできないのだと。


それは

言葉を使わない踊りのようなものでも同じで


我々は

形にしたり

言葉にしたり



言葉(意味としてのキャッチ)で

美しさを

理解しているにすぎない。



言葉(意味)にして

捉えられるものでは

本当の美は感じとれない



しかしウィトゲンシュタインは

言葉を超えた世界は

無い

と否定したわけではなくて



もちろん言い表しえぬものは存在する

それは示される

それは神秘である



むしろ

言葉で語れる

人間世界の限界、範囲を

明らかにしたことによって



その外の世界があると

逆説的に表現しているんです。



限界が「ある」ということは

逆説的に

限界の「ない」世界は

ある




そこから

自然、流れに語らせる俳句の美に

つながっていくわけよ。


つづく。