今日はマニアックにいきたいが

プロとして

わかりやすくも表現したい。




日本人的豊かさの中に


目の前にある自然と自分(人)とを

同一視する

というのがあります。



コントロールできない自然

今見えている景色に

自分の気持ちを重ねる

ということ。



花生けのように

切り取られた自然の景色に

フォーカスし


そこに心情を託して

語らせる。



主観ではなく

自他を同じに見ている

日本人らしい感性の源



「自分がない」「任せる」というのは

必ずしも悪いことではない。



古今和歌集「仮名序」

やまと歌は人の心を種として
よろづの言の葉とぞなれりける



やまと歌の起点となる

「人の心」という表現



西洋において人の心とは

主観のことで

「私」の内側に見いだされるもの



主観(私)とは

西洋からきてる概念です。

 

日本には元々

主観(私)という概念がなかった

わけなんです。



日本人が「人の心」と言う時の

人とは

私(西洋的な主観)ではなく

感性の共同体のようなもの



「心」も同様で

私の心ではなく


私を超越した

日本(人)の心

を指している。



そして

詠み手(日本人)にとっては

それが事実そのものだった。



昔の日本には

西洋で言うところの主観も客観もなく


あるのは種や育った葉といった

「自然」のみ。

「生もの」のみ。


ゆえに日本には

言語の理(ことわり)もなく

あるのは「言の葉」の移ろい

のみ。


主観のない客観美


心を託す先が

自然という事実の世界

というセンス。


葉はいずれ落ち葉となり

枯れ葉となり

託したはずの心は

自然という事実世界に溶けてしまう


というノリなんです☺️



自然現象は

固定点(これはこういう意味だ)をつくらず


意味も言葉も「変化するもの」

というのを

直感的に知っていたのかもね。



今自分が思ったことが主観

だとしても


悠久の自然時間の中でそれは

一瞬の幻のようなもので



禅に近づく心を

自然の移り変わりが育んでくれる



日本人ってそのノリを

なんとなくわかってて

今でも体に残ってるんだと思う。



英語の「word」と

日本語の「言 葉」との違いも

そこにある。


古池や 蛙飛びこむ水の音


さて、俺も俳句作るか。


これは、種田山頭火ね。