今日は

私の備忘録。


わかる人だけ

超わかるやつを

書いて残します。



なので、置いてきぼり感

ハンパないと思います😆




周りからの影響は

「動き、流れ」による

振動の活性からおこる。



音、水、人などの

振動するものの影響で



自分の中にある

同じ部分を振動させ

活性される。


という勉強をしています。



でもそこで

一番大切になってくるのは

自分の中で生み出している

振動パターン。


自分が

何を感じとっているのか?
何を感じとろうとしているのか?


自分次第で

共鳴するものは変わる

という最重要なスキル

があるんです。


「自分が意識しているもの」

その影響が

世界で一番強い

自分自身への影響力です。



おそらく

神と言われているのは

自分のことだと思います。



自分が意識しているもの

それが

カオスな世界の中で

同じ質のものを意識させる



で、繋がる(共鳴)とか

形になっていく

がおこるんだな。



その、繋がるもの

を変えたい場合



まずは

いま自分が偏って意識しすぎているものを

フラットに感じさせる

必要がある。



まずは感覚だけの世界にする。



朝、起きたときのような


そこにまだ意味がついていない


周りを感じてるだけ〜

みたいな


瞑想状態
まどろみ
変性意識状態


赤ちゃんの時みたいに

目の前にある景色を


意味ではなく

ただ純粋に


「響き」「感覚」「快や不快」

で感じている状態


その感覚のみで

周り(世界)を捉えているの状態が


本来の

美しさ(形而上の美学)である。



子どもの時は、右脳が優位で

可能性に溢れている

なんて言われるけど


大人になると

(私みたいに)

左脳ばかり使うため😆



左脳の論理的な思考で

右脳的な「感覚を理解」する

ということは


発想自体が違うので

難しい。



でも

顕在意識を説得するのには

顕在意識での理由が必要

なんです私は。



子どもの脳(感覚)になるために

なんで?

という理解(安心)をしてからでないと

そうできないんです。




なぜその状態に任せた方が良いのか?


その道しるべがあれば

心強い。


そこに飛び込んだ方がOKな「理由」が

後押し(裏付け)をしてくれる。



でないと

混沌とした沼地に飛び込んでいく

ようなもので


論理的な確信や

実感のないものは

また元に戻りやすくなるから。



感覚の世界は

意味や答えではない世界


「まとまっていない世界」
これ大事よね


そこに

良いも悪いも、レベルも

ない


あるのは感覚(味)の違いや

快や不快のみ



赤ちゃんの時や

朝、夢から覚めたての時



そこには

何色とか、文字も言葉もなく

意味では捉えられない

質だけがある世界がある。



大人になるとそれを

「まだ頭(思考)が働いていないボケた状態」

という

解釈で終わる。



体を動かしたり、覚えたり

形になった仕事はしておらず

そこに価値を見出せていないから

その状態をスルーしてしまう。


でも

本来の自分はその

「感覚の状態」なんですよ。



頭が硬いとは

言い換えれば


「物事の捉え方が

ワンパターンで

執着が強い」

という状態。



捉え方、ジャッジが

強すぎるがゆえに


そうではない自分は不安になるから


感覚で、自分のやってみたいこと

新しいものが生み出されにくい



例えば、よくあるのが


閃いても、


潜在的に思い込んでいる

「これが正しい」
「これが良い」

が出てきて


「これがしてみたい」
「こうしてみたい」

という感覚を

上書きして


これが自分がしてみたかったことなのだと

むりやり言い聞かせて

混同しているやつ😆



動物的、赤ちゃん的な捉え方は

「なんとなくそう感じてみたい」

それだけで


打算的な解釈
意味
責任

は無いんですよ。



ジャッジ(依存)や

答えを出すことへの執着が強いと

自分に都合の良い打算的解釈が


結局、安心できる形で

落ち着かせてしまう。



間違っている
合っている
こうするべき

という

「覚えただけの世界」からは

外れにくくなる。



結局、新しい感覚や発想は

採用されずに


自分が安心できる

「今まで通りの形」

に説得されてしまう。



「現実問題を考えて

結局、既存の形に落ち着く」

を選んでしまうほどに


自分の感覚(天才、美)からは遠ざかる。



感覚の世界は

意味、解釈が取っ払われ

自由度が高いんです。



私が

思考で、感覚を理解するのは


ジャッジしている自分を

論理的に説得し

意味を外させる


「感覚を信じる後ろ盾」

がほしいから。


気持ちよく

混沌とした感覚に委ねてみたいから。



自分のジャッジ、捉え方は

どのようなものなのか

どのような状態なのか


思考で説明、説得できてると


ジャッジ、捉え方世界から

感覚世界に任せて


その時間が長くなっても

不安を感じにくくなるし

一喜一憂しなくなる。



これが由緒ある美しいものでー

こうでなければ健康ではないー

とか


レベルが低い(悪い)

とかなってる人や


私のしている

「答えを出すや、まとめる」

を見ていて

感じること。



「あんたそれ

ちゃんと勉強してないでしょ!?」

って思う。


(いま、またジャッジまで行きそうになったね私😆)



だから思考の後ろ盾がないと私は

安心したい既存の美(ジャッジ)に

やっぱり飲まれてしまうから

そうしたい。


でも

「図で残すように、理解していきたい」

というのが私の

時間のかかる

感覚理解のプロセスなんだな。


自分の感覚を信じること

その感覚を信じて行動することが

「自分を信じている」

という状態。


それが自然にできてる時は

無理に頑張ったり

勇気出して!とかしなくても


赤ちゃんのように

好奇心で勝手にやっていく中での

エネルギーの流れ、理解


そこに本来の美しさや

愛(理解していくプロセス)がある。



言葉での理解も

本来は

言葉ではない理解(感覚)にいき


新たな感覚言葉(多様な景色を含んだ造語)を

自分で紡ぐためにある。



身体感覚(認知)からのアプローチと

哲学(世界の捉え方)と

多様な景色を含ませる日本語からのアプローチを

しばし続ける。