宗教的使命感を持って | シンジのブログ

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私は数学者小澤登高さんの大ファンである。

 

先日ネットを見ていたら同氏が「宗教的使命感」(うろ覚え。宗教的情熱、だったかもしれないが)をもって数学の研究に当たっている、と書いてあった。

 

私は5流数学者だが、同じ建物(東大数理)にいて日々小澤氏を遠くから眺めて生きていた。どころか同氏は何かの私のTAだったぞ。「代数と幾何」だったかな。

 

私もやはり宗教的な使命感を持って、数学の研究、教育に当たっている。

 

世界中が数学者になれば、世の中は良くなる、と本気で信じている。

 

東京大学法学部でなく、数学の博士たちが、世の中の中枢を占めるようになれば、数学者はやさしさと頭の良さを兼ね備えているので、世の中は絶対に良くなる。

 

私は数学の普及は、布教活動であり政治活動である気がしてきた。

 

多くの人は数学者にあったことはないであろう。だから、数学者が(頭の良さはともかく)優しい人だ、ということがぴんと来ない人も多いかもしれない。

 

高校までの「数学教師」のイメージと、数学者は恐らく真逆だ。

 

数学者は服装がラフなのが普通だ。私も大学で講義する際もジーンズにTシャツだ。

 

「諸君、私は偉いのだ。」とかの対極で、私の年度初めの講義はたいてい次のように始まる。

 

「ええ、皆さんこんにちは。入学おめでとうございます。私のことを、先生って呼ばないでね。河野さん、とか、しんじさん、とか、おじさんって言ってね。できればため語で話してね。計算間違えまくるから、気づいた人は直してね。」

 

そういえば、世界的な幾何学者坪井俊さんの「幾何学I(多様体論)」の講義を思い出す。

 

「ええ、多様体論というものを講義します。多様体の定義というものを与えなければならないのでしょうが、

 

忘れました。」爆  笑

 

これはかなり衝撃だった。

 

高校までに数学者に会える人は非常に少ない。とても運がいいと、高校教師が数学者であることがある。(博士課程中退者が高校教師であることはある。私の友人のW氏のように。W氏のことは次の記事で書こう。)

 

大学教育を受けた人は、一般教養の数学科目で、教師が数学者である可能性は半分くらいだ。

 

「今現在」において「研究」少なくとも新しいことを学びたいと思っていない人は、博士号があっても数学者ではない。

 

それに、残念なことに、工学や物理の人が数学を教えていることがある。私に言わせれば、これはだめだ。

 

医学部医学科をでていない人が医者をやってはだめなように、数学者でない人が数学教育を行ってはダメなのだ。

 

例えば「1+1=1」は全数学者が即答で「正解!!」というだろう。(数学科3年で習うが零環という。)

 

「1+1=3」と言われても「そうか、君は通常と異なる定義を採用するんだね。いいよ。」というだろう。(皆さん、分かるだろうか。)

 

また、分数は局所化という手続きで、かなり難しいことをやっているのだ。まじめな数学者なら「簡単だよ!」とは即答できないであろう。(小学校の先生は局所化を分かっていない人がしてはならない!!)

 

というわけで、「散田教室」は数学者が全科目を教えている珍しい私塾です。私に会いに来てください。

 

https://www.school-sanda.com

 

生まれながらの頭の良さなどはない。教員の能力の問題です。

 

人を選別するのではなく、全員に見につけさせるのが教育です。

 

英会話ができない人が中学校を卒業してはいけないのです。