友人の弟の死 | 竹原慎二 オフィシャルブログ

友人の弟の死




2015年間4月23日
僕の地元の同級生 おおちゃんの弟が40歳で亡くなった


彼は2011年春 肺がんが発覚した わかった時には最終段階で手術は不可能だとfacebookで報告していた

癌宣告から2週間後追い打ちをかけるように東日本大震災が起きた 
千葉に住んでいた彼の家は液状化の大被害を受けた


それでもいつも前向きな姿を見せていた


それからしばらくして僕も癌になった


2014年の3月末 おおちゃんから用事で東京に来ているんだが会えないか❔と連絡があった


僕は家にいたのだが入院を数日後に控えていた頃で誰とも会う気になれなかった


なんか適当な理由をつけて会うのを断った
病気のことはまだ言えなかった


おおちゃんは残念がっていたがそのまま広島へ帰って行った


僕の兄貴に「慎二が冷たいよ〜東京へ行っても会えんかった」と言っていたらしい



手術を終えて僕がお盆に帰省した時、広島で会った



おおちゃんの弟は千葉にいたが僕となんとも共通点が多かった


例えば彼はスポーツマンでスキー種目でオリンピック出場を目指していた 


ゴルフは下手なくせに大好きなようだった


引退後は飲食店を開いていた


カープの熱狂的ファンだった


そして癌になった 



僕らはたまにメールをしたりしてお互いに励ましあっていた



ゴルフに行こうと約束していた


僕の方はもういつでもオッケーだから
キツければハーフだけでもいいし
もし調子が良くなったらいつでも声かけて 


そう言っていたのだが
結局約束は果たせなかった


最後は新しい治験に参加していたようだ 
彼はその治療を自分で選択したのだろう
だがそれが合わず途中で断念した 


どの治療を受けるかはある意味賭けだ
この治療を選んだことでもしかしたら死期を早めてしまったのかもしれない 詳しい事情はわからないがそれでも彼は最期まで自分らしく戦ったと思う


2015年3月頃からおおちゃんは頻繁に上京し弟の元へ訪れていた


何度かうちに泊まって弟の病院へ見舞いに行っていた 

僕もおおちゃんと一緒に見舞いに行った 


彼はフルーツを食べて元気そうだった


だがそれから10日後 亡くなった



それから僕は女房と葬儀に行った



彼の奥さんとお母さんが最期の様子を教えてくれた

僕が会った後、容態は急変しそれからはけっこう苦しんだそうだ
奥さんに医者にあとどれくらいか聞いてきて欲しいと頼んだという 奥さんは医者から聞いたあと1週間と言われたことを本人に正直に告げたという 

すると彼は「ホッとした そうか、あと1週間で楽になれる」と言ったそうだ


僕はそれを聞いて切なかった


僕はどこかで彼に自分を重ね合わせていた


お経が終わると参列者がお棺にお花を入れてお別れをした
彼はカープのユニフォーム姿で眠っていた

それから家族だけが残り最後のお別れの言葉をかけていた
そして蓋が閉じられた


その直後 喪主である奥さんの挨拶があった


こんなにすぐ大勢の前で話さなきゃならないの❔と思った

挨拶の中で前日は息をするのも苦しい中、どこにそんな力が残っていたのだろうという大きな声で子供達に「頑張れ、父さんは見てるからな」と言い残したと話していた



葬儀が終わって帰り道、女房と色々話した


奥さん立派だったね 私あんな風にできないよと言っていた

女房は女房で彼の奥さんに自分を重ね合わせていたのかもしれない 


彼の生き様は深く深く考えさせられた


充芳君
4年間の闘病生活お疲れ様 
僕は色んなこと教えてもらったよ
ありがとう



あっそうそう

今年はカープ優勝したんだぞ


 見てるか❔







つづく





じゃあの。