智恵とは、

 

武士が持つ日本刀のようなもの

かもしれません。

 

 

刀は使いようによって

宝にも人を殺す道具にもなります。

 

そして、

 

日頃はさやに入れておいて

いざという時だけに抜き放って

その切れ味を見せるべきもの。

 

 

智恵も同じように、

 

使いようによって

多くの人の命を救うこともありますし、

大量破壊兵器の製造に使われることも

あります。

 

そして、

 

日頃はひけらかすこと無く、

「能ある鷹は爪を隠す」

の言葉の通り、

慎み深くいたいもの。

 

「才子(さいし)才に倒れる」

(優れた才能を持っている人は、

その才能を過信しすぎて、

かえって失敗することがある)

 

のようには、

なりたくないですよね。

 

//////////

智恵の一種と言っていいのでしょう。

「頓知」

という言葉があります。

 

「機に応じて即座に(=頓)働く智恵。機知」

のことです。

 

「とんち」

 

と読むこの言葉を聞いて、

皆さんが真っ先に思い浮かべるのは、

 

一休さん

 

かもしれませんね。

 

 

一休さんのとんち話に

こんなものがあります。

 

 

毎晩、

和尚さんのところにやってきて

夜遅くまで碁を打っていく

檀家のご隠居。

 

この人のおかげで、

小僧さんたちは睡眠不足に

悩んでいました。

 

このご隠居がもうお寺に

来られないようにと

一計を案じた一休さんは、

 

お寺の門に

 

「獣の皮をまとった者が

お寺に入るとバチが当たります」

 

そう張り紙をしました。

 

このご隠居は毎日立派な

袖なしの毛皮の羽織を

着ていたのです。

 

 

ところがこのご隠居、

一休さんの張り紙を見ても

知らん顔でお寺に入ってきました。

 

一休さんがそれをとがめると

ご隠居はこう言いました。

 

「何を言っている。

この寺にある立派な太鼓には

獣の皮がはってあるではないか。

だったら私も寺に入れるだろ」

 

と得意顔です。

 

 

さて一休さん、どうする?

 

【一休が6歳で入門したと伝わる京都府の安国寺】

 

/////////

「この世にて

慈悲も悪事もせぬ人は

さぞや閻魔も困りたまはん」

(一休宗純)

 

 

さてここからは、

室町時代に実在した

臨済宗大徳寺派の僧、

 

一休宗純のお話です。

 

 

決まり切った概念にとらわれる

ことがなかったといわれる一休は、

 

木刀を朱鞘に入れたものを

腰に差すなどの

 

風変わりな格好をして

街を歩きまわったという

逸話が残っています。

 

 

これは

 

「鞘に納めていればそれらしく

勇ましく立派に見えるが、

抜いてみればただの木刀でしかない」

 

ということで、

 

外面を飾ることにしか

興味のない当時(15世紀中頃)

の世相を風刺したものと言われ

 


戒律や形式に囚われることのない

彼の人間臭い生き方は、

当時の民衆の共感を呼んだそうです。

 

 

上で紹介した言葉も

 

いいことをしようと思ってするのもよし。

失敗して悪事になってしまったとしても

何もしないでいるよりいい。

 

という人間味のあるメッセージに

受け止められますよね。

 

////////

「世の中に

我れぞ悟ると自慢して

名利求むる人の多さよ」

 

悟りを開いたと

世の人に語る人間というのは、

結局、自分が利益を得るために

やっているに過ぎないことだ・・・。

 

 

これも当時の仏教界に対する

強烈な皮肉だったのでしょう。

 

「世のため人のため」

 

という者ほど、

自分のために行動している。

 

 

何かをするなら、

 

「それは自分のためのこと。

誰かに恩に着せるような

ことでは無い」

 

と考えて行うべきであり、

 

 

逆に

本当に誰かのためと思うのなら、

それは黙って行うべきである。

 

 

現在の私たちも

気をつけておかなければならない

ことかもしれませんね。

 

/////////

「門松は

冥土の旅の一里塚、

めでたくもあり、

めでたくもなし」

 

 

一休は正月に

杖の頭にドクロをしつらえ、

「ご用心、ご用心」

と叫びながら練り歩いたと

言われています。

 

 

現在の「満年齢」による

年の数え方と違い、

 

以前の日本で採用されていた

「数え年」

というのは、

 

生まれた年を一歳として、

あとは新年のたびに

一歳を加えていく

年齢の数え方でした。

 

つまり正月が来るたびに

人は皆、一歳年をとったという

ことになるのです。

 

 

「めでたい」と思っている正月は

自分の寿命がまた1年減ったと

考えることもできる。

 

正月を迎えたという事実、

 

それは

 

めでたいものでもあり

縁起の悪いものでもあるのだ。

 

 

新年で浮かれている人々に対して、

一休はそのように説いてまわったのです。

 

 

世の中における事実はただ一つ。

 

その事実に対して

 

浮かれること無く、気を引き締めろ。

落胆すること無く、気楽にいろ。

 

人生はいいも悪いもとらえ方次第。

 

 

そう理解できる

これも現代を生きる私たちにも

取り入れていかれる真理ですね。

 

////////

 

「人のための行動のようで

自分のための行動にすぎない。

 

めでたいようでいて

めでたくはない。

 

 

世の中一般のものの見方、

他人が決めたしきたりや解釈の仕方に

 

とらわれて生きることは

愚かなことであり、
 

自分で考え、自分で感じたことを

大切にして生きていくことが大切だよ」

 

 

そんな

一休の言葉を受け止めながら、

 

 

私たちも自分自身の考え方、

価値観、信念を大切にして

生きていきたいですね。

 

【一休が開いた酬恩庵(一休寺)】

 

///////////

【こちらの記事も是非どうぞ】

自分の心を知ること / 空海の世界 III

 

【その他の名言記事へのアクセスは】

ここからアクセス!/過去の名言集記事 (# 181~# 190)

 

//////////

 

「何を言っている。

この寺にある立派な太鼓には

獣の皮がはってあるではないか。

だったら私も寺に入れるだろ」

 

ご隠居に言われた一休さんは

いいました。

 

「そうですよね。

だからお寺の太鼓は毎日

バチでたたかれているのです」

 

そう言ってにやりと笑いました。

 

「つまりご隠居も

バチでたたかれてもいいと

いうことですね」

 

そう言って手に持った

太鼓のバチを振り上げた

一休さんに、

 

さすがのご隠居も

 

「わっ、わかった! わしの負けじゃ!」

 

と負けを認めて

家に逃げ帰ったそうです。

 

【面白かった?じゃーね~】