悪魔が昨日、し忘れたこと。@アメブロ -55ページ目

球界と文壇

球界問題がテーマの『朝まで生テレビ』を観ていたら「文化を守ることとと商売として成功させることとは別次元の話だ」というような話が何度も出てきて、文壇に似ているなあと感じました。


そういう意味においても高橋源一郎の第1回三島由紀夫賞受賞作『優雅で感傷的な日本野球』は名作なのだろうと思うのですが、今回の騒動に関する高橋源一郎のコメントはないものでしょうか?


ちなみに今回の件がきっかけでライブドア堀江社長共同通信編集委員がネット上で喧嘩状態になっているらしいですね。ネット上の人間関係のトラブルはさして珍しくもないことですが、名のある人同士ということになるとなかなかどうして面白そうです。


堀江社長といえば『社長日記』を殆ど毎日更新し続けることで社長自ら自社Blogサービスの広告塔となっているということでも有名ですが、2ちゃんねるの管理人・西村博之氏のBlogは『元祖・社長日記』なんですけれど、これってやはり堀江社長を意識してのことなんでしょうか。 

舞城王太郎がついに芥川賞候補に!

阿修羅ガール』で三島賞を受賞したメフィスト出身作家・舞城王太郎が、おととい発表された芥川賞候補に入っているとのことで、それに関して2ちゃんねる文学板に色々と書いたので、コピペしておきます。
以下、2ちゃんに書いたものです。


舞城は三島賞受賞前に発表されていた『鼻クソご飯』(単行本未収録)を読んで以来ずっと注目しているので、芥川賞もGETしちゃってほしいです。舞城の文体が気に入らなくて読めないという人は、とりあえずということで現在発売中の『IKKI』綴じ込み付録の『ピコーン』漫画版を読んでみては如何でしょうか?
ちなみに『ピコーン』は表題作が三島賞候補になった単行本『熊の場所』所収の書き下ろし作品です。


覆面作家といえば『日本人とユダヤ人』のイザヤ・ベンダサンがいますよね。正体は宗教歴史学者山本七平で、『家畜人ヤプー』の解説なども書いています。沼正三もこの人だったりはしないのでしょうか?


あとポストモダンの旗手・トマス・ピンチョンは人前に姿を現したことがなく、外部の人間との接触はエージェントを通して行うそうです。ネットで調べてみると顔写真がありましたが、本物なんでしょうか?
とにかく経歴に関しては生年月日と出身地のみ明かされているところが、舞城と共通しています。しかもピンチョンは1937年生で、舞城は1973年生。デビュー作がアメリカを舞台にしていたことや翻訳をこなすところからも察するに、舞城が姿を隠しているのはピンチョンの影響ではないかと思われます。


舞城は女性だという説もあるようです。

当たり前のようでいて忘れていること

■俗に「現実は小説より奇なり」と云いますが、考えてみれば之は当然の理です。何故なら「小説」は常に「現実」の範疇に帰属するものであり「現実」が「小説」の外側にある状態は起こり得ないからです。そもそも「小説」と云うものは「現実の作者」に拠って書かれ「現実の読者」に拠って読まれるという「現実」がなければ存在しないものなのです。慥かに「作者の頭の中だけに存在する小説」や「作者以外の人目に晒されていない小説」という類は当然ありますが、前者は小説になりうる想像という程度のものでしかなく、後者は人目に触れるまでは存在しないも同然ということです。そして其れが実際に書かれ或いは読まれる段に至れば忽ち其れはやはり例外なく「現実の一部としての小説」になるだけなのです。若し本当に「現実より奇なる小説」があるとすれば其れは「永遠に書かれざる永遠に読まれえぬ小説」だけ、ということになるでしょう。


■小説や文学について、或いはまた音楽や絵画やスポーツや仕事や政治や殺人事件について語ることは、夫々が別の世界の別の次元の話というわけではなく全く同じ性質のものであり、同時にそれは人生や社会について語っているのと特に変わらない同一のものなのではないでしょうか? これは冷静に考えてみると至極当たり前の常識的意見ともいえそうなものですが、そうはいっても普段はついうっかりと忘れがちな姿勢に思えるのです。たとえばミステリ小説を読んでいて、「事件」という部分を「文学」や「人生」、「音楽」、「政治」というように置き換えてみても意味が通じるのです。文化や生活様式への取り組み方や考え方はおしなべて皆、人生全般に適用可能なのです。


京極夏彦作品における宗教や哲学に関する薀蓄解釈応用の件には、どうにも文学のことを云っているようにも思える節が感じられます。そしてまた同時にそれは人生の話でもあるのでしょう。やはり優れた文学作品は物語性と批評性を内包しているものなのです。


■1998年・山本英夫『殺し屋1』→2000年・高橋源一郎『鬼畜』→2003年・金原ひとみ蛇にピアス』……スプリット・タンが出てくる作品の発表順です。


■犯罪の低年齢化を憂える声を良く耳にしますが、本来なら教育の行き届いていない未成熟な子供が悪いことをするのは不思議でもなんでもなく、むしろ義務教育を終えて分別を弁えているはずの成人による犯罪が当たり前になっている社会の方がどうかしていると考えるべきではないでしょうか?


■インターネットや携帯電話といったコミュニケーションツールは使い方さえ間違えなければ大変便利なものですが、四六時中メールや掲示板の返信に追われていたりしてしまっているのでは逆に不便極まりない事態にもなりかねません。それではまるで道具に人間が使われてしまっているようなものです。IT革命の恩恵を存分に享受するためには道具の進化だけに留まらず人間自身が進化しなくてはならないのでしょう。

イベント終了

MCを務めさせて頂いた古本すうさい堂リニューアルオープン1周年記念イベント『世界の中心で、生き恥をかく』は、大盛況のうちに終えることができました。
出演者及びご来場の皆様、お疲れ様でした。
今後とも『古本すうさい堂』並びに『工藤伸一に関する諸問題』を宜しくお願い申し上げます。

すうさい堂と京極堂(どっちも古本屋)

■今日、夜から「すうさい堂」のイベントがあります。


 僕は司会を務めさせて頂きます。
 主なプログラムは音楽演奏ですが、
 バンド、弾き語り、DJとバラエティに富む内容となっております。
 入場無料、ドリンク代だけですので、興味がある方は是非、
 お気軽にご来場くださいませ。


 古本すうさい堂リニューアルオープン1周年記念
『世界の中心で、生き恥をかく』

 ・LIVE:岩崎恵一(音響派)/口石アキラ(昆虫派)
/Aki(ボサノヴァ姫様)/魔ゼルな規犬(from名古屋・アンビエントお馬)
  /近廣直也&泪橋ミュージックホール
/世界中の銃口にウンコを詰める行動部隊
 ・DJ:KOMAYASHI/SUICIDE/YAMA-CHAN/NON-CHAN/EBISUYA
 ・MC:ナイスガイ工藤伸一

23:00start/チャージ無料+ドリンクオーダー
UPLINK FACTORY(03-5489-0750)


 【古本すうさい堂電脳部門】  【UPLINK FACTRY】


京極夏彦京極堂シリーズがついに映画化。


 第1弾『姑獲鳥の夏』は来年夏公開予定とのこと。
 映像化が難しそうな内容だけに、どう仕上がるのか気になります。
 配役は以下の通り。 
 ・中禅寺秋彦/堤真一
 ・関口巽/永瀬正敏
 ・榎木津礼二郎/阿部寛
 ・木場修太郎/宮迫博之
 全国30万人の京極堂シリーズファンの方にはどう映るでしょうか?
 ちなみに僕は今、4冊目の『鉄鼠の檻』を読んでいるところで、
 今日明日中には読み終える予定です。


 【京極夏彦が所属する大沢オフィスHP・大極宮】  【nikkansports.com】


 ■三島賞作家・中原昌也暴力温泉芸者)がspaceshowerTVに出演。
 
  昨日の夜、偶然観ていたんですけど、よく出ているんでしょうか?
  何かZIMAを10本以上飲んでヘベレケになりつつ
  映画評コラム等でお馴染みの毒舌吐いてて面白かったです。
  そういえば以前、小説の原稿料より『SPA!』の映画評の原稿料の方が
  高いというようなことを書いていて驚いたのを覚えています。

月9芥川賞Vシネマ特撮ヒーロー小学館漫画文学

来週から始まるフジの月9ドラマ『東京湾景』が気になっています。


原作が芥川賞作家の吉田修一というのも珍しいことですが、主演の和田聡宏の大抜擢もすごいと思います。この人、僕も顔を見て初めて気づいたのですが、「アイフル」のCMに出ていた人だそうです。といってもチワワを飼っている人ではなく、その前のシリーズです。お金がなくてチャリに乗ってツーリングに参加したり、海パン一丁でスキューバダイビングに来たりして友達から見離されてしまうというやつですね。どことなく浅野忠信似で存在感があるなと思っていたら、デビューは塚本晋也監督の映画『BULLET BALLET』ということで、やはり只者ではなかったようです。


あと、友情出演ということでVシネ界のアニキこと哀川翔が出るのも見所です。もともとアニキの存在は知っていたものの別段気に留めていなかったのですが、偶然観ていた『木更津キャッツアイ』に本人役で登場していて度肝を抜かれ、『ゼブラーマン』がツボにハマってからというものかなり気になる人物なのです。宮藤官宮郎の手の内に嵌められた、ということなんでしょうかね。


クドカン作品はその後、彼女の薦めで『マンハッタンラブストーリー』も全部観て凄さを思い知らされたという感じで、初の監督作品『弥次喜多 in DEEP』も楽しみにしています。しりあがり寿の漫画が原作なのですが、先日の「キューティーハニー前夜祭」で観た庵野秀明監督作品『流星課長』もしりあがり寿の漫画が原作で、かなり面白かったのです。


だけど考えてみたら月曜日の9時は仕事中だったりします。しかもビデオデッキが壊れていたりするもので、観るのはビデオ化されてからになるかもしれません。


あと、前回書いた小学館の文芸路線ですが、漫画の分野にもかなり影響が窺えます。月刊誌『IKKI』最新号には三島賞作家・舞城王太郎の『ピコーン!』の漫画版が付録本としてついていたり、『スピリッツ』には直木賞作家・石田衣良原作の『4TEEN』が連載され、『スペリオール』次号からは漱石の『こころ』が始まるそうです。漫画版を手がけるのは『センチメントの季節』などの官能的かつ感傷的な作風で知られる榎本ナリコということで、どういった仕上がりになるのか楽しみです。

メモ

■とりあえずメモ。後でまた詳しく書く予定です。


・学校で教わらない犯罪教育と性教育の必要性。

・加害者が被害者に言葉で謝罪することへの違和感。謝罪法を説いたハンムラビ法典

・アパートの白骨と狂骨。事件性はないか?

・牛糞からパルプができる。繊維質と便意の相関性。

社会保険制度とネズミ講の違いはあるのだろうか?

阿部和重ニッポニアニッポン』と獄本野ばら『下妻物語』〜田舎と現代風俗

小学館『スピリッツ』と『スぺリオール』両方で闇金漫画が大人気。
 『大門寺さくら子』の突然の連載終了と『ホムンクルス』再開の因果関係は?

・獄本野ばらと片山恭一と立て続けにベストセラーを刊行してきた小学館
 満を持して文芸誌『きらら』を創刊。純文学市場に殴りこみか?

・『メフィスト賞』の仕掛け人・太田克史氏。新雑誌『ファウスト』も大当たり。
  映画やテレビドラマのように文学作品もプロデューサー(編集者)で選ぶ時代? 

佐世保の事件と魍魎の匣

佐世保の事件が報道された頃、ちょうど京極夏彦の2作目『魍魎の匣』の終盤、12歳の少女2人の屈折した関係が暴露される辺りを読んでいたもので、驚きました。実はこの小説、冒頭で鉄道事故の場面があるのですが、そこを電車の中で読んでいたら本当に人身事故で電車が止ってしまうという偶然も起きていたもので、それもあっての印象でした。それでちょっと気になってこの作品に関する何らかのいわくでもないものかと調べてみたところ、作中に登場する相模湖の取材予定日に、作中同様にバラバラ死体が発見されてしまい、それで取材を取りやめたんだそうです。全て偶然の産物かもしれませんが、そうと言い切れる保証もなく、何だか薄ら寒さを感じてしまった次第です。しかしながらちょうどこういった共時性シンクロニシティ)の問題解明についての話が今読んでいる3作目の『狂骨の夢』に出てくるようなので、どういう解釈がなされているのか楽しみにしているところです。

漱石デビュー100周年、京極デビュー10周年

というわけで最近していなかった文学関連の話を久々にしてみようかと思います。


今年は漱石が『猫』を発表して100周年目に当たるそうです。暦の都合などで正確にいうとどうなのかわかりませんが、とりあえず1905年1月に第1回の連載が開始されたので大体当たっていますよね? 言文一致の文体を導入することによって幕が開けられた近代文学の黎明期は、誰あらぬ漱石の登場によって不動の地位を獲得したわけで、日本文学史における漱石の貢献度は言うまでもないことですが、何よりも新しかったのは、高尚さを保ちながらも娯楽的側面を兼ね備えたジャンル不明の流れを切り開いたところにこそあるといえましょう。もちろんそれ以前にも二葉亭四迷らの努力があったわけですが、『猫』に到ってその成果が結実したといえるのではないでしょうか。何より漱石の門下生には芥川がいますし、その芥川をこよなく愛読したのが太宰でしたから、漱石から連なるべストセラー作家の系譜は現在にまで脈々と受け継がれてきているのです。


それにも関わらずどういうわけか国語教科書からも千円札からも追いやられてしまうのは、もはや100年経てば古典だからということなのでしょうか。そういえば芥川賞の若手女流作家2人によるW受賞というは、もしかすると夭折の女流作家・樋口一葉が5千円札のモティーフとして人口に膾炙するという流れを汲んでのはなむけというような意味合いがあったりするのかもしれませんね。


同時に今年は京極夏彦のデビュー10周年にも当たります。そういう節目の年に直木賞を受賞できたのは、さぞ嬉しかったことでしょうね。それにしてもこの10年間、ずっと人気作家の地位をキープしてきたわけですから、本来「将来の人気作家候補」に授けられるというような意味合いを持ってきた直木賞を今更になって受賞したのは妙な話ともいえますが、後付でそれを認められたと考えればいいのでしょうか。


今年の前期は芥川賞ともどもセンセーショナルでしたから、もしかすると今後もそういう路線が考えられるのかもしれません。そうするとたとえば、芥川賞の登竜門とも言われる『文學界新人賞』出身者でありながら賞とは無縁の不遇の日々を長く過ごした末にベストセラーを生み出した片山恭一あたりが今度はノミネートされるかもしれません。ちなみに僕はアメリカのSF作品そのまんまの題名といういわくつきということへの拒否反応もあって今のところ読んでないのですが、何にせよ売れるモノを作れるのはいいことです。文化だ芸術だと声高に叫ぶだけで腹は膨れませんし、それだけ大勢の関係者を養っているということですから、無下には批判できません。


ちなみにその題名の元ネタはアメリカSF界の2大文学賞ヒューゴー賞ネビュラ賞両方を受賞しているSF作家ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』ですが、これは原題『The Beast That Shouted Love At the Heart of the World』の忠実な翻訳ですから、エリスンのセンスだったというわけです。訳者は映画『ブレ−ドランナー』の原作として名高いフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も手がけている浅倉久志。これまた原題『Do Androids Dream of Electric Sheep』そのままということで原作者のセンスということになりますが、ジェイムズ・ティプトリーJr.の『たったひとつの冴えたやり方』の原題は『Starry Lift』ですから、浅倉氏のセンス自体が優れていたといえるでしょう(※日記公開後に「no1livesforever」さんよりご指摘がありましたので追記しておきます。作品集『Starry Rift』の収録作品『たったひとつの冴えたやり方』は原題「The Only Neat Things to Do」のほぼ直訳だそうです。ですから作品集のタイトルを収録作のタイトルに変えた点のみが浅倉氏のオリジナルということだったわけですね。ご指摘ありがとうございました)。


それにしても英語の原題のほぼ直訳の邦題が日本人の読者の琴線にも触れるというのは、どことなく不思議な現象のようにも思えます。従来なら日本人の感性に合うように意訳するのが翻訳の基本だったようにも思うのですが、生活の隅々にまで舶来文化の行き渡った現代の日本に住む日本人の感性はもはやグローバル化によってすっかり変質しているということなのかもしれません。


それはさておき、文学史上類を見ないほどの希代のベストセラー作家・村上春樹と文学の未来を変えたとまでいわれるポストモダンの旗手・高橋源一郎芥川賞作家でないことがどうにも理解できないので、そこら辺も何とかしてもらえないものかと思っています。


あと、今まで知らなかったんですが京極夏彦って僕の出身高校の先輩だったんですね。ネットで調べ物をしていて、ついさっき偶然に知りました。そうすると出身高から直木賞作家が出たということで、地元では大騒ぎだったりしているのかもしれません。でもあまり知られていないかもしれないので、どうなのかは定かではないのですが。京極氏は僕の10歳上ですから、同じ先生に学んでいたりもしたのかもれません。帰省する折には郷里の友人にでも訊いてみたいと考えています。


10歳年上でデビュー10周年ということは、現在の僕と同じ年齢であの質実剛健博覧強記抱腹絶倒の名作『姑獲鳥の夏』を書き上げていたということですから、空っぽの我が身の体たらくを振り返ってみて情けないばかりです。ちなみに倶知安高校出身の有名人は他に漫画家のゆうきまさみ等もいますが、そんなに規模の大きな高校というわけでもないのに、すごいことだなあと思った次第です。まあ高校がすごかったところで僕自身がどうだというわけでもないですが、一流の人物と同じ環境に身を置けたという意味で誇らしさを多少なりとも感じてみた次第であります。

長崎の事件について

人権が守られるべきなのは加害者ではなく被害者ですから、被害者名も被害者の顔写真も報道されるべきではありません。被害者の人権を侵害しているマスコミが加害者の人権を擁護するような発言をしているのは笑止なことです。


加害者が愛読していたというバトロワは、憎み憎まれ殺し殺されることの悲しみの心情を描いた作品ではありませんか? そのためにリアルで痛みを感じさせる表現を用いたのです。いわば戦争批判小説ともいうべき代物です。ですからバトロワファン=残酷な人格障害者というわけではなく、作品のテーマを理解できず細部の残酷描写のみに感化されるというその時点ですでに人格障害は始まっているのでしょう。


それにバトロワはあくまでも想像の世界を描いたフィクションですが、むしろ現実社会において行われているノンフィクションの戦争報道、こちらのほうが現実に人を殺すことへの罪の意識をマヒさせている、そういう可能性を考えてみてもいいのではないでしょうか? 自らの自分勝手な正義を貫くために安易にイラク人を殺しまくるアメリカ。そのアメリカを支援する日本政府。そこで義務教育を受けている子供が、自らの自分勝手な正義を貫くために安易に人を殺す。全く自然な流れです。


バトロワの残酷描写には海外の戦争小説や国内外の事件などから引用されたと思しき部分が結構あるように思います。実際に人を殺したわけではないのですから、想像を膨らませて書くしかなかったのは当然のことです。そうはいってもバトロワの著者がサディスティックな性質の持ち主であっただろう点だけは否定できません。もともと新聞記者だったわけですし、その頃から猟奇事件の取材に好奇な視点を持って接していただろう可能性もあります。えてして報道関係者のなかには、そういう部分があるのかもしれません。しかしバトロワの著者は、それを良心的なテーマの中に閉じ込めて、フィクション造りに昇華させることができたという意味で、常識人だったわけです。


そもそも本や映画というものは、偶然に享受してしまうおそれのあるものではなく、読者や視聴者が能動的に動かなければ目には入らないものですから。それに対してテレビのニュースというものは、偶然に目に入ることが多いものです。ですから本や映画より以上の不特定多数への影響に配慮する必要があります。報道関係者が体を張って仕事をしているのが悪いことだとはいいませんが、たとえば「首を切る画像がネットで流された」なんて言い方をする必要はありませんし、被害者の傷が深さ10センチだったなんてことも報道する必要はないはずです。それこそ徒に市民の好奇心を刺激するサディスティックな行為だと思うのです。