結弦くんの円盤や書籍が色々出版されていて、なかなか目を通すのが追い付いていません(笑)

 

家庭画報の塩沼亮潤大阿闍梨との対談は興味深く読ませていただきました。

その内容に関してはそれぞれで読んでいただくとして、今回は私が個人的に思ったことをちょっと書いてみたいと思います。

 

 

 

 

まず、「今まで大阿闍梨となったのが2人」という記述を読んで、ちょっと私「あれ?」っと思ったんですよ。

 

かつて私は色々とオカルトに興味を持っていて、もちろん阿闍梨に関する本も読んでいたんですが、それによると阿闍梨の称号を得ている人は結構いたと記憶していたんですね。

 

でも、確認しようにもそれらの本はもうメルカリで売ってしまっていたので確認が出来ず…チュー

 

 

 

記憶の中の阿闍梨は確か天台宗だったはず…。

でも塩沼阿闍梨は真言宗?

 

阿闍梨って全ての宗派に共通する称号だっけ?

 

 

 

そんなことを考えながらネットを調べていくと、分かりました!

 

 

阿闍梨というのは密教の高僧のことなんですけど、その位を得るための「千日回峰行」という修行をやっている宗派が2つあって、ひとつは天台宗。修行する山は比叡山。

もうひとつは金峯山修験本宗で、修行する山は大峰山という2つの修験場があるということなんですね。

 

そして、比叡山で阿闍梨の称号を得ている僧が51人であるのに対し、大峰山で阿闍梨になった方は2人しかいないと、そういうことのようです。

 

 

なんでこんなに人数が違うのかというと、もちろん天台宗が大宗教であるという差は当然あるわけですが、もうひとつ、大峰山の方が標高も高く一日に歩く距離も長く、圧倒的に修行の内容が過酷だからなんですね。

 

比叡山の山の中を毎日30キロもお経を唱えながら歩き続けるのがどれだけ過酷な修行なのかは言われなくても分かるかと思いますが、大峰山の修行は毎日48キロを歩き続けるんだそうですガーン

 

人間の歩く速度は大体1時間4キロくらいと言われています。

それで考えると、比叡山は毎日7.5時間、大峰山は毎日12時間歩き続けることになるわけですよね。

しかも起伏のある山の中を、草鞋をはいて雨の日も雪の日も千日のあいだ歩き続けるわけですから、もう何言ってるかわかりませんえーん

 

私は何度か、仏教の修行とアスリートの修行は似ていると書いたことがありますが、千日回峰行に関してはアスリートのそれとは全く違うと思います。

そこまでやったら身体を壊します(笑)

 

似てるものがあるとしたら、それは自衛隊第一空挺団のレンジャー訓練くらいじゃないでしょうかプンプン

(っつーか、エリート集団のレンジャー訓練すら数日間で終わることを考えると、千日続けるのはまさに人を超える修行ですよ)

 

いやもう、そのくらい過酷な修行を経て阿闍梨となるわけなので、日ごろ結弦くんの過酷なトレーニングと清廉な魂に「結弦くんはもう人間を超えてるわ」と思っていた私も

「結弦くんはまだまだ人間らしいわ」

なーんて思っちゃいましたよ(笑)

 

 

まあ、阿闍梨さんのメンタルというか思考は、たとえば三浦雄一郎氏のような、どこまで挑戦し続けてもまだまだキラキラした目で高みを見続ける超人のそれだと思うんですよ。

 

対談を読んでいても、塩沼阿闍梨はもはや人間の苦悩とというか、悩んだり苦しんだりする凡庸な人間のその思考の埒外に存在してるんじゃないかな?と思ってしまいました。

 

 

塩沼大阿闍梨はそれだけの過酷な修行を経ていても、いわゆる奇跡現象には遭遇していないんですよね?

私は、修行中に僧侶たちが経験する不思議な体験は脳が肉体の限界を感じて見せるものだと思っているんですよ。

それに関しては以前書いたので詳しくは書きませんが、つまり、大峰山の千日回峰行ほどの過酷な修行をしていても、塩沼阿闍梨にはまだ余裕があったと、そういうことなんじゃないかな?と、なんかちょっとそう思うんですね。

 

うーん…もはや凡人の想像をはるかに超えているなぁ。

 

 

そんな人が、「自分の方がナルシストかも」なんて言って笑っているのを見ると、なんだか赤の他人に何を言われても笑い飛ばせばいいんだな?と…そんな気になってしまいますね。

 

っつーか、マジで塩沼阿闍梨には悪意なんか向けても太刀打ちできないわ、本当に(笑)

 

 

 

 

で、結弦くんが気にしていた「ナルシスト」という言葉。

なんというか、あそこまで否定している姿が可愛いですよねウインク

 

ところで、私はこの「ナルシスト」という言葉にずっと違和感を感じていたんですよ。

というのも、ナルシスは本当にナルシストなのかという、言葉の語源そのものにちょっと疑問があるので…。

 

 

「ナルシスト」という言葉は、水に映る自分の姿に恋焦がれ、遂にはその自分に口づけしようとして湖に落ちて死んでしまう美少年「ナルシス」が語源ですが、そもそも論として、ナルシスが自分しか愛せなくなったのは神々にかけられた「自分しか愛せなくなる」という呪いが原因なんですよね。

 

で、なんでそんな呪いをかけられたのかというと、言い寄る神々たちを冷たく袖にしたことで神の怒りを買ってしまったからです。

 

まあ、人間が神々を冷たくあしらったということで怒りをかって水に映る自分の姿に恋をするようにされるのはいいとして、問題は

「ナルシスは、水に映る美しい少年が自分だとは気づいていなかったんじゃね?」

ってところだと思うんですよ。

 

自分だと気付いていなかったから触れようとして水に落ちちゃったわけですよ。

 

つまり「ナルシスト」という言葉が「自己愛」を表すのなら、少なくともナルシスの中で水に映る美少年を自分だと認識していなければ「自己」ではないわけで、何人もの女神を袖にしてきてたのに水に映った美少年の方に恋をしたのなら、ナルシスの中にあったのは「自己愛」ではなく「少年愛」の方だったんじゃないの~?爆  笑

と、おばちゃんはこの物語にちょっとモヤモヤしてしまうわけですチュー

 

ま、そんなことはもうどうでもいいんですけどね。

でも、呪いなのにそれを「自己愛」の代名詞にされちゃうなんて、ナルシスもとんだとばっちりだよなと思ってしまったりします(笑)

 

 

話が脇道にそれましたが、結弦くんが「自分はナルシストじゃない」と思うのは当然です。

 

結弦くんが鏡の前で練習するのは、自分の姿にうっとりしているからではなく姿勢の確認をしているだけです。

というか、360度どこからも見られるリンクで演技をするというのに、鏡を使って全身のポーズを確認すらしていないというのなら、その方がおかしいと思います。

後ろから見た自分の姿を確認することもなく演技をするのでは、変な姿勢で演技をしている自分にも気づけないでしょうし、みっともない姿勢で演技をしているスケーターを、観客は美しいとは思わないんです。

 

鏡に映った自分の顔を何時間も見ている人は確かに「ナルシスト」でしょうが、鏡に映る自分の全身を見ながら演技の確認をしているのはプロの「身体表現者」です。

 

髪を染めたり眉を描いたり化粧をしたりする男性はいまだ「ナルシスト」と呼ばれてしまうかもしれませんが、平時にジャージでウロウロしている男性はナルシストとは言えません(笑)

 

結弦くんは演技が美しいんです。

何時間も顔に時間をかけてメイクを施して私たちの前に出てきているわけじゃありません。

 

なので、結弦くんを「ナルシスト」と小馬鹿にしている人がいたら、その人たちは本当のナルシストとはどういうものなのかを理解していないんだと思います。

 

鏡の前で自分の姿を映しながら練習しているだけでナルシストと呼ばれるなら、世界中のダンサーたちはヒップホップからバレエダンサーまで全てナルシストです。

というか、身体芸術に関わる人間で自分の姿を全く見ない人がいたら、絶対に人を感動させる演技などできないと思います。

 

そういう意味では結弦くんは現役の時からプロ意識があったんです。

どこから見られても美しい姿勢をつくるという、身体芸術に必要不可欠なことを現役の頃から身につけていたんです。

 

だから結弦くんの演技はどこから見ても美しいし、どこから撮っても美しい写真が撮れるわけです。

 

 

単純に、人を馬鹿にするために「ナルシスト」という言葉を投げつけているなら、その人達は頭が悪いと思います。

 

プロのスケーターで、ロングサイドから見てもショートサイドから見ても、1階から見ても4階から見ても、どこから見ても美しい演技をするためには自分の姿を客観的に見る必要があるんですから。

 

その姿を「ナルシスト」だというのなら、それはアーティストにとっての誉め言葉と言っていいでしょう。

 

 

そんな言葉で人を馬鹿にしたつもりになっている下賤な人々の言葉なんて、気にすんなぃえー

 

見た人間が「美しい…」と魂を奪われるような、そんな演技が出来るなら、ナルシスト万歳!でいいんじゃないかな?

 

 

 

と、画報の対談に関連して、こんなことをつらつら思う今日この頃です。

 

 

 

 

以上