死を悼むとは

私は、10年以上ブログを書いてきていますが、その中で「故人の冥福を祈る」ということを書いたのは2度しかありません。

1度目は、当時好きだった番組に出ていた女優さんが急逝したとき。
2度目はデニスの訃報に接した時です。


何故私がそういったことを書かないかというと、人の死を悼むということはそれなりに重いことであり、縁もゆかりもない人間に対して軽々しく使うのは何か違うと思っているからです。

最近では、有名人が亡くなるとSNSなどに追悼コメントが溢れます。
でも私は、まるで季節の慣用句のように溢れるそのコメントに、いつも少し違和感を感じているのです。

私はオカルティストでもありますから、人の死というものは軽々しく触れるものではないという認識でいます。
でも、最近のSNSでは、人の死を悼み「ご冥福を祈ります」と言ったすぐ後に、美味しい食べ物や楽しい場所の写真を上げる人が大勢いるのです。

まるで、人の死が「乗り遅れてはいけない話題のひとつ」になっているようです。

有り体に言えばSNSの中で、自分を善人に見せることのできるただのネタです。


私の目には、「哀悼の意」があまりに軽く扱われているようで、そこに大変違和感を感じているわけです。


人の死の悼みは、その身内にしかわからない大変重いものです。
なのに、最近では哀悼の意をネットに上げなければ、その人を人非人扱いをする人まで現れました。

哀悼の意というのは公に発表しなければいけないわけではありませんし、人の死をどのように悼むかは人それぞれです。

なのに、公に発表しなければ「私は認めないぞ!」的なことを平然とネットに上げるのです。
もう、人として少し異常になってきているようです。


結弦くんがデニスに哀悼の意を表明していないとしてネットで随分結弦くんを叩いている人達を見ましたが、大半はデニスのファンじゃありません。

ただ結弦くんに嫌がらせをしたいだけの人達です。

そもそも結弦くんはSNSをやっていないので、クリケのメッセージが公式なもので良いはずです。
でも、そういった人たちは「自分の名前でネットに上げろ」というのです。
もう常識など通用しません。


結弦くんを嫌いなら別に嫌いでも構いませんが、結弦くんに嫌がらせをしたいというそのためだけに、亡くなった人の名前を出してその名を利用するのです。

その異常性に気付かない時点で、もう認知機能に障害が現れているのでしょう。
そういった人は、反応があればあるだけエスカレートしますから、内容によっては病院を紹介するにとどめて欲しいと思います。



人の死は、自分がいい人であるということをアピールするための道具ではありません。
誰かにその姿を見せるものでもありません。


オータムで、喪章をつけたいという人達がいたようですが、関係者でもないのにつける意味が私には分かりません。
ピンクリボン運動などのように、参加の意思を表すリボンと喪章が混同しているのでしょうか。

私は海外の事情は詳しくありませんが、追悼集会とか以外の、何にも関係ない場所で、関係者でもない人たちが喪章をつけるものなのでしょうか。

それをつけることで哀悼の意をアピールしたいのであれば、デニスが亡くなった時、自分のSNSでそれを表せばいいだけの話だったのではないでしょうか。



結弦くんのファンであれば、認知機能に障害のある方々がデニスの死を振りかざして「羽生が殺したんだ」「謝れ!」とやっていたのは知っているはずです。

もし、喪章をつけている人が映像として残ったら、またそういった方々が
「羽生に抗議している人々の証拠写真」
とかなんとか言ってその写真を拡散することは容易に想像つきます。

そういった「抗議」の目的も含めてやるのであれば個人の自由ですが、自分は人の死を悼む良い人間であるアピールのためにやるのならやめた方がいいと私は思います。







最後になりますが、樹木希林さんが亡くなりました。

あの方の死生観は、多くの人の意識を変え、多くの方を癒し、導き、救ってきたように思います。


彼女によって救われた人々の思いは、きっと彼女の進む道を光で照らしていることと思います。

あの世での道が光り輝いていることを祈って。



以上