正直に言います。

最初、この舞台を見た時に私が感じたことは
「…桟敷童子ともあろう劇団が、また随分凡庸な舞台を作っちまったなあ」
でした。


確かに水と大仕掛けは凄いです。

初めて見る人はこれだけで「凄い!」と思うでしょう。
でも桟敷童子を見慣れてしまった私などは
「あれ?これだけ?花吹雪はないの?揺れる舞台は?」
といった感じで、ハッキリ言ってもの足りなさを感じてしまいました。


ストーリーも、いつもの重さや暗さはなく、いたってポピュラー。
「まさか、松田賢二が出るということで、人当たりのいい活劇物を選んだのかしら…」
私は本当にそう思いました。


脚本に練りが足りないのかな?もっとシンプルに出来るはずなのに。
ライティングが平凡じゃない?いつもの神憑り的なライティングはどうしたの?
間も悪いしスピード感もない。だから退屈になってしまう。


ハッキリ言って「私は少し桟敷童子という劇団を買い被り過ぎていたのかもしれないな…」とまで思いました。


で、2日めのソワレ。
ハードな芝居に水責め風責めで、たった一日で賢二くん風邪をひいてしまったようです。

「ふがいないぞ!賢二くん!夢を叶えているんだろう!風邪なんかひいとる場合か~!」

しかし、他の役者さんも声が出なくなっています。
1日2公演の2回めともなると、演者の皆さんの疲労もピークのようで、いつも完璧な演技をする方まで台詞をトチッています。


2日目でこれでは…先が思いやられる…この芝居、千秋楽までもつのかな…。代役なんかいない劇団だもん。誰かが熱でも出したら、公演中止になるんじゃないかな。
それに、大仕掛けに役者が迫力負けするのでは、使うのも善し悪しだぞ。
普通の舞台のつもりで見に来た観客は確かに「凄い!」と言うだろうし、笑うところも泣くところもある。事実、周囲からは啜り泣きが聞こえています。


でも、私が惚れ込んだ桟敷童子はこんなもんじゃないはずです!もっと、魂が震えるほど凄いんです!

今まで、私が手放しで誉めまくっていたのは、この程度の「桟敷童子」じゃありません!

私は、そんな風に、腕を組み眉間に皺を寄せて考えていました。


2日めのソワレ。松田さんは、途中の着替えが間に合わなかったのか、帯をしないまま登場。

まだペースを掴んでいないようです。
ただ、照明が初日より良くなっています。

全体にライティングが落とし気味になり、雰囲気が出てきました。


で、3日め。
今日はマチネだけだから、昨日程には酷くないだろうな…とドキドキしながら見始めたのですが、冒頭、水から出てくるガラの顔がなんか変。
あっ!外山さん、水中メガネしたままだ!


あっちゃぁ。今日もダメか。

今日は原口さんの声が出なくなってるし、みんな最後までもつのかなぁ?


ところが、進んでいくと、この日は何かが違いました。

テンポがいい。間の取りかたがいい。

昨日までと違い、役者の演技が力強くて澱みがない。
原口さんまで声が出なくなっていたのはハラハラしましたが、それでもぐいぐい話に引き込まれます。


ラスト近く、駕羅の泣き声に、思わず涙が滲みました。
フラフラの刹那が、一日一粒しか飲んではいけない薬を口いっぱい頬張り、残辺に向かって風車を突き付けるシーンでジワッ、女2人を背中で庇い、甲斐と興櫓木が立ちはだかるシーンでジワッ、そして、残辺が水の中、「駕羅!駕羅!」とバシャバシャ駆け寄るシーンでなぜかドブワッ!


よっしゃ!よっしゃぁ!
これだよ!これが桟敷童子だぜ!
これが、私が惚れた桟敷童子の芝居だぜ!パーーーンチ!衝


私は、3日めに初めて、心の中で拳を握りました。

聞くところによると、最初の数日は演出や脚本に修正が入り、午前中に稽古を繰り返していたのだとか。
そっかー。そうだよね。舞台の作り込みが遅れたっつー話だし、十分にはセットの上で練習出来てないんだもんね。
舞台の上と稽古場では雰囲気が違うだろうし、走る速さや動くテンポも馴染んでいないんだろうな。
それを修正するのに3日かかったわけか…。


実際、照明は劇的に良くなりました。
初日、煌々と照らされたままの舞台上で松田さんがお尻を出した時は「うひゃー!」と思ったものですが、徐々にライトが落とされ、ホッとひと安心です。

桟敷童子の芝居のライティングは、他の芝居とは一味違うのですが、これが桟敷クオリティなんです。


3日めぐらいから、役者さんのセリフに感情が乗るようになったのもうれしい変化でした。
本当に、私は3日めでやっと、この芝居の成功を確信したのです。



そうなると、さすが桟敷童子。3回めだというのに感情移入ガンガンです。芝居が終わっても頭の中で映像がぐるぐるします。
うわぁ…次チケット取ってるの6日後だよ。電話かけて当日券確保出来たら行っちゃおうかな~。
仕事をしていても、頭の中で「く~れない~くれ~て~まよ~い~ごが~」と刹那の歌がエンドレス。その歌を心の中で歌っているだけで涙がジワリ。
「刹那~死ぬなよ~今行くゲェ」
と何度も思い出し泣きをしてしまいました。

(「刹那かよ!残辺じゃないのかよ!」とは友人のツッコミ)

しかし、仕事は定時で終わらない。
結局次に行ったのは、予定通り、29日のソワレです。
そこで私は初めて、イキイキと楽しそうに演技をしている松田さんを目にしました。

本当に楽しそうなその姿に、それだけで涙が出そうです。


「夢顔」に出演する前に桟敷童子の舞台を見て、すっかりファンになって、プロデュース公演の「夢顔」が終わったあとも、桟敷の舞台に出たくて出たくて…。


その夢が実現して、本当に嬉しい!と、身体全体で叫んでいた感じです。


そうだよ。そうなんだよ。

最初見た時は「賢二くんが出たいと言ったから呼んでもらえたけど、桟敷の他の役者さんがやっても出来ないことはなかった役かもしれないな…」と思ったんです。
でも、それじゃ駄目なんですよ。


松田賢二に声をかけて貰った以上、松田賢二にしか演じることが出来ない「残辺」でなくちゃいけないんです。

桟敷童子に埋もれてしまうんじゃ、松田賢二が出る意味がないんです!


でも、もうそんなモヤモヤは吹っ飛びました。

今、目の前にいる、知恵も思慮もない、野性が服を着た子供みたいな「残辺」は、松田賢二が作り出した、松田賢二の「残辺」なんです!

他の誰も、この「残辺」は演じられません!

(今書いていて思った…。まさか…当て書きか?)


「ああ、良かった…やっぱり松田さんだ…」
ずっと感じていたモヤモヤが一気に晴れていきました。


私は、まるで孫のメジャーデビューに涙を浮かべるお婆ちゃんのように(お婆ちゃんかよ!お母さんじゃないのかよ!)楽しそうな松田さんの姿に涙していました。


体力的には大変だろうけど、そんなことが気にならないくらい、今、松田さんは充実しているんだろうな。今、松田さんは、たくさん持っているだろう夢の中のひとつを実現しているところなんだよな…。
そんなことを考えているだけで、ジンワリしてしまいました。


その、夢の実現の場所に立ち会えて、本当に嬉しかったです。

春に手術をしておいて良かったです。私も、松田さんじゃありませんが、健康で、誰に遠慮をすることもなく追っ掛けができる自分自身に感謝したいくらいです。


回を追う毎に桟敷の皆さんもノッてきます。
桟敷童子の場合、チケットが安いこともあるのでしょうか、当日ふらりと足を運ぶファンの方も多いようで、チケットが空席ありとなっていても、行ってみると満員ということが多いのですが、今回は始まったあとの評判が良かったからか、はたまたリピーターが多かったのか、はたまた松田さんのファンサービスの噂に心を動かされた方がいっぱいいたのか…。後半は全日完売という凄さでした。

良く考えると、今まで私が見てきた「桟敷童子」は基本、再演ばかりだったんですよね?

再演と言うのは、いわばすでに完成されたお芝居だったわけです。

こんな風に、板の上で試行錯誤して完成に持って行く過程を見ていなかったわけです。


実際、私は芝居より映画の方が好きです。

リアリストなため、芝居に関してはかなり辛口です。

でも、桟敷童子の芝居は、一度も笑わずに終わったことがないし、一度も泣かずに見終えたこともありません。

感情をあまり出さない私でこうなんですから、感情豊かな人だと、入り込んでしばらく抜け出せないくらい、桟敷童子の芝居は面白いです。

時に、面白いの一言で表せないくらい、厳しいテーマの時もあるのですが、言いたいことはいつも同じ

「生きろ!」

です。


今回、計8回見に行きました。

最初は全体の話にのめり込むため、松田さんがどこにいるかが気にならないほど集中して見ていましたが、だんだん松田さんだけを見られるくらい余裕が出てきたり、また、松田さんを見ないで、脇の役者さんの表情を見ていたりしていました。

そうやって見ると、本当に皆さん隙のない演技をされていて、どこを見てもドラマがあったんです。

その表情で、登場人物たちの感情や心情があらわされていたりするのですから、本当に奥の深い芝居でした。


さて、夢の舞台は終わりました。

「次の桟敷のお芝居にも、松田さん出て欲しいな」

なんてことは、言いたくてもちょっと言えません。

松田さんが出るということは、桟敷の役者さんがやる「イイ役」をひとつ奪うことになるからです。

どちらも好きな私は、ちょっと考えてしまいます。


なにはともあれ、舞台は終わりました。

桟敷さんはすぐ次の色々な活動に移っていきます。

松田さんと同じように、桟敷童子という劇団は、これからもずっと応援していきたいと思います。



※ストーリーについての感想とかは、また別の機会に。