2026年2月21日
三連休の初日は東京都板橋区にある赤塚城に訪城。
マイナーな城と思われがちな赤塚城ですが、見方によっては、かなり楽しめるスポット。
そして、赤塚城の周辺には意外な歴史も多く残っています。
本日もMyチャリで向かいます。
整備もしたので準備は万全!家からは片道 約9km。
公共交通機関であれば、都営三田線「高島平駅」から徒歩15分、東武東上線「下赤塚駅」から徒歩20分程度。
簡単に赤塚城の歴史に触れますと、1456年頃に千葉自胤が築城したと考えられています。
千葉氏とは下総国の守護で、今では県名になっている千葉県の千葉氏です。
古河公方 足利成氏と関東管領上杉家との争いに巻き込まれ、千葉氏一族内で争いが繰り広げられました。
1456年に成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、この地に逃れてきて武蔵千葉氏の基盤を作りました。
武蔵千葉氏は上杉氏→北条氏に付き従い、豊臣秀吉による小田原征伐によって滅亡します。
主に3つの曲輪から形成されている赤塚城ですが、登るルートが幾つもあります。今回は分かりやすく郷土資料館から登ります。
郷土資料館の裏側は草木が少ないので、城郭の形がハッキリと見て取れます。
標高はおよそ30mで、丘のように高くなっている場所に築かれました。
赤塚城は都立赤塚公園として現在は整備されています。一帯は、ほぼ市街地化して住宅が建ち並びます。
非常にアップダウンの多い場所で、赤塚城に行くまで何度も上り坂があったり下り坂があったりします。
郷土資料館の前、城郭の東側には綺麗に整備された池があります。釣りをしている人が多くいるこの池のあたりは、当時は水堀だったそうです。
池の前から登ります。
今の所は遺構らしきものは確認できません。
登城ルートから振り返っての一枚。
赤塚城が面白いのはこの地形です。
階段の下には池がある平地。対面には同じくらいの標高で住宅地があります。谷のようになっているのです。まるで天然の堀!
階段を登れば赤塚城本丸跡の石碑があります。
石碑がある広場は一の郭となります。
遺構か後世の改変かを見極めるのはすごく難しいのですが、一の郭の淵は少し盛り上がっているので土塁に見えます。
城郭北側は大地が突き出したような形状をしており、空堀の様なくぼみで仕切られています。
空堀跡に見えるのですが、何の用途でこの先端に空堀を設けるのだろうか?とも考えられます。
空堀跡らしきものが、北側の先端全体を囲んでいます。
資料が少なく、発掘調査もあまり行われていないので謎は謎のまま。しかし、この想像を楽しむことこそが、街に埋れた城跡の楽しみ方!
北側先端からの景色。
うん。面白い!
崖になって切り立った先端部。一般道が分断していますが、対面に見える大地も赤塚公園です。
「堀切やんけ!」心の中で叫んでしまいます。
堀切のように山の尾根が切れています。天然の堀切です!
築城前からこのような形状だったのか、築城時に土木工事をしたのか、近世で道を通すために山を崩したのか、非常に気になるところです。
階段を登りきると少し開けたスペースがあります。
一般道を挟んで反対側が一の郭です。谷底の幅が広すぎるので人工的に掘削したというよりは自然地形なのでしょうか。
ただ、この谷があることで攻めるには谷底に降りなければ近ずけないので、用途は堀切と同じかなと思います。
なぜか民家にヤギがいます。
東京23区で城めぐりをしながら、ヤギを見ることになるとは想像もしていませんでした。
再び一の郭。
一の郭の広場と連なって、二の郭があります。
現在は梅の木が植えられている場所が二の郭となります。
うっすら空堀らしき落ち込みも確認することができます。
跡からネットを調べまくったら、やはり横堀で曲輪を仕切っていたようですが、この場所は畑として利用されていたので、その際に埋められてしまったようです。
あと、予想ですが梅の木を植樹した際に土を少し盛ったのではないかと思います。
ちょうと梅の花が咲いており、多くの人が写真を撮ったり、シートを広げて家族でピクニックをしていました。
二の郭のフェンスに沿って南側に向かいます。
遺構なのかは謎ですが、所々に遺構らしき怪しい箇所を見ることができます。
南側から一度、階段をおります。
南側から見た二の郭。
降りたと思ったら今度は道を挟んで、また上り階段!
「堀切やんけ」つい心の中で叫んでしまいます。
やや分かりにくいのですが、一般道を挟んで対面がニの郭。こちらも天然の堀切と横堀のようになって、現在の道路の部分が谷のようになっています。
階段の上は広場となっています。
整備された階段もあります。
この高低差を見て頂ければ、この場所が急な崖になっているのが分かって頂けると思います。
階段下からのショット。
階段をおりて一般道の対面には不動の滝があります。この滝は江戸時代に流行した富士詣・大山詣など、霊山登拝へ出発する際に心身を清める場として利用されていました。
板橋区には元々、多くの湧き水がありましたが、宅地開発によってほとんど失われました。
その中でもこの不動の滝は地域の方に大切に守られてきました。今でも水が流れています。
不動の滝の脇から、上に登る階段があります。
上は普通の広場で、普通に住宅が建ち並びます。
ワタクシが気になっていたのは、不動の滝の隣にある一般道。
考えすぎでしょうか?この形状。
堀に見えて仕方ないのです。宅地開発された場所なので、後世の土木工事で造られたと考えるのが一般的なのは分かっているのですが、城跡に来ていると街の形状全てが遺構の跡にしか見えなくなってしまいます。
このショットは自画自賛レベル。赤塚城周辺の形状が一番わかる一枚です。
左側が不動の滝。正面には先ほど下ってきた急な階段です。
この谷底にあたる一般道の場所は、当時は湿地帯とかだったのでしょうか。このアップダウンは独特です。
答えが無く妄想が膨らむ城跡は、完全に沼るパターンです。新しい発見を求めて歩き続けてしまいます。
おそらく、遺構がハッキリと識別されている城の方が、次から次へと遺構をピンポイントに巡るので、見て周るのが早かったりします。
再び南側のニの郭から入城して、一の郭を目指します。
一の郭に戻ってきたのは、ここから三の郭に行くためです。この谷戸は一の郭、ニの郭、三の郭を仕切っており、曲輪を分断する横堀のような役割をしています。
城にしては、やや緩斜かなと感じます。
階段を振り返っての一枚。
上部は一の郭です。
谷底を歩いてみます。
ちなみに、左側のニの郭下はフェンスで立ち入りができず、草木が多くて写真を撮れなかったのですが、切岸になっており崖下には明らかに空堀と思わしきものを確認することができました。
右側は三の郭です。
階段のすぐ脇には竪堀のような落ち込みを確認できます。だいぶ浅くなっていますが、目視でハッキリとわかるレベル。
谷戸の北側に行くと整備された広場に出ます。
何か特別なものがあるわけでは無いのですが・・
北側一の郭の下に空堀らしきものを確認できました。半分が住宅や私有地になっていますが、形状的には堀です。
反対側からも見てみます。
やはりこれは空堀かなと思われます。
ちょうど、郷土資料館の裏側になります。
中には入れないので近づくことはできないのですが、外からでもハッキリとわかる形状。
右側が二の郭、左側が三の郭。
三の郭は住宅地と公園化して見どころとしては微妙ではありますが、二の郭と三の郭の谷戸方面には遺構らしきものが確認できますが、フェンス内なので明確には分かりませんでした。
赤塚城の近くには乗蓮寺があり、赤塚城に来たらこちらのお寺の訪問はマストです!
山門。両脇には仁王像が建ち並びます。
乗蓮寺の始まりは1394年〜1428年頃。高速道路の拡張工事に伴い、昭和46年から7年の歳月をかけて、この地に移動したそうです。
山門から見た本堂。
山門の門扉に刻まれた「三つ葉葵」
日本で一番有名な家紋と言っても過言ではありません。
山門の妻側。瓦にも三つ葉葵の家紋。
そして、本堂!
赤塚城の目と鼻の先に、こんなに迫力ある寺院があったとは・・
そして、本堂にも三つ葉葵が堂々と並びます!
実は乗蓮寺は天正19年に徳川家康から十石の朱印地を与えられ、代々 徳川将軍から朱印状を与えられたお寺。
さらに、8代将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿りをしたことが縁となり、それ以降鷹狩りの際の小休所、御膳所となったと伝わります。
山門の右側には大仏が鎮座。東京大仏として知られており、この地に移動した際に造られました。
大仏も魅力的ですが、お城ファンが見落としてはいけないものが、乗蓮寺内にあります。
この石碑には赤塚城二の丸跡と書いています!
乗蓮寺は赤塚城の二の丸の敷地に移動したようです。
ここが実際に二の丸だったのかは謎ですが、何かしらの城の一部であったのは納得できる立地です。
右側の高い壁が乗蓮寺。
乗蓮寺も赤塚城跡と同じく高低差のある場所にあります。
民族資料館に行くと、板橋について詳しく学ぶことができます。
ワタクシも板橋区に関して無知でしたが、興味深い歴史を多く持つ区だったことを知りました。
板橋には加賀藩前田家の下屋敷がありました。
板橋区役所のあるあたりで、加賀という地名が残っています。
しかも、22万坪!東京ドーム15個分。ディズニーランドの1.4倍の大きさ!前田家の別荘として使われていました。
ちなみに、加賀藩前田家の上屋敷は今の東京大学です。さすが100万石の大名だなと実感します。
資料館前に置かれた大砲のレプリカ。
なぜ?と思ったのですが、実は板橋区と大砲には関わりがあります。
黒船来航を機に欧米列国に対抗するため、高島秋帆が西洋式砲術を日本で初めて導入し、確立させました。
幕府の命により、この板橋区の徳丸ヶ原で日本初の公開演習を実施しています。この演習には多くの幕臣や藩士が見学しており、その後 全国の各藩で西洋式砲術が導入されます。
赤塚城の近くにある高島平という地名は、高島秋帆に由来しています。
民族資料館の裏手には板橋区有形文化財の旧田中家住宅など江戸時代の農家建築が保存されています。
さらに、資料館の入口には格式ある唐門が展示されています。
江戸時代に中山道の第一宿場町として栄えた板橋宿は、明治の鉄道開業によってさびれていきました。
旅館業は業態を変えて遊郭になったそうです。
板橋遊郭最大規模だった新藤楼の唐門が移築されています。

























































