つぶやき城ー。訪城記録

つぶやき城ー。訪城記録

まだまだ初心者の、城をどこまでも愛する男。

旅のついでに行った城が、今では城に行くための旅が何よりの楽しみ。

一つとして同じ城はなく、全ての城に歴史と個性がある。

見る角度、見る季節、見る天気によって表情が変わるその姿に恋をした。

8月に入って最初の登城は水戸城からです。

個人的には水戸市に来るのは約16年ぶりとなります。


城めぐりを始める前、水戸市には以前の仕事で何度も来たことがありましたが、水戸城には一度も行ったことがありませんでした。


水戸城は日本100名城に選定され、徳川御三家の水戸徳川家の居城として有名です。


都内から朝5時半の電車に乗り、旅のスタートです。常磐線の普通列車に乗り、8時に水戸駅に到着しました。

懐かしいJR水戸駅。

天気は曇り時々雨の予報でしたが、所々に晴れ間も見えています。

水戸駅前の水戸黄門像。

黄門様は水戸藩2代藩主 徳川光圀がモデルになっています。


父の初代藩主 徳川頼房は徳川家康の11男。つまり、黄門様の徳川光圀は徳川家康の孫にあたります。


像の裏手に見える森が水戸城の二の丸。

水戸駅北口の目の前に城があるので、アクセスの良さもポイントのひとつです。


まずは大手門を目指します。

駅前から見た二の丸角櫓。

水戸駅北口はペデストリアンデッキになっており、縦横無尽に歩道橋を巡らせています。


デッキの上から二の丸南西に、二重の櫓が見えるので注目です。

見上げるようにそびえ立つ二の丸角櫓。

二重櫓の両側に続櫓が接続されてL字型になっています。


後ほど内部にも行きますが、二の丸角櫓は2021年に復元されました。

完全に街と一体化しています。

それよりも驚くのは、地上面と二の丸の高低差と切り落としたような急な斜面。

下から見上げた二の丸角櫓と土塁。

20mくらいはありそうです。

二の丸土塁の下は、市毛水戸線という一般道になっています。

右側が二の丸、左側が三の丸。曲輪を分断する堀切になっており、堀底に道路を開通しています。


上り坂になっており、奥に見えるトンネルが大手橋です。

堀底から見た本丸土塁。

こんなに迫力ある堀切は初めて見ました。


水戸城は土の城として有名ですが、その所以たる遺構の痕跡を、茨城県の中枢 水戸駅の目の前で見ることができます。

同じく二の丸の土塁。張り出した箇所には大手門があります。


直線ではなくクランクさせることで、死角を減らして横からも攻撃できる設計になっています。


土塁の上には土塀が復元されており、二の丸角櫓と大手門までを囲んでいます。今の時期は草が多くて見えません。

大手橋の脇にある階段を登ると、三の丸となり大手門広場があります。


左側が水戸藩校の弘道館、右側に進むと二の丸になります。

三の丸から二の丸に架かる橋が大手橋。

二の丸の入口に巨大な楼門となる大手門が出現!


水戸城で最も格式の高い門であり正門でした。

水戸城は三の丸、二の丸、本丸、下の丸の曲輪が直線的に連なった連郭式の平山城です。


水戸城は幕末まで存続した近世城郭ですが、1591年に入城した佐竹義宣が大改修をしたものが基本ベースとなり、水戸徳川家時代に改修が繰り返されました。


骨格は完全に戦国期の城です。

大手橋から見た堀切。

左側が二の丸、左側は三の丸ですが木で見えません。しかし、堀底となる道路からの高低差は伝わります。

大手橋から反対側も見てみます。

右側が二の丸で左側が三の丸。

現在の大手橋は昭和10年に鉄筋コンクリートで架け替えられました。


古写真が残っており、見比べると擬宝珠を含めたフォルムは当時と同じです。

大手門は高さ13m、間口17mで圧倒的な存在感!

明治時代に解体されましたが、発掘調査と古写真を元に2020年に復元されました。

鏡柱の太さを見ても、大手門の規模の大きさが伝わります。

水戸城の特色として、大手門の脇に練塀が設けられており、大手門と併せて復元されました。

粘土の間に軒平瓦が重ねられており、瓦で模様を創り出しています。美的センスが光る仕様です。


大手門復元の機運が高まり、発掘調査が開始された際に練塀が発見されました。

現在の練塀は外観を復元したもので、内部には発掘調査で発見された練塀が保存されています。


見落としてしまいそうですが、下部がスケルトンになっているので、当時の練塀を見ることができます。


周囲の土塁が崩れて土の中に眠っていたものが、大手門の復元に伴う発掘調査で発見された時は、驚いたことでしょう。

内側から見た練塀。

この練塀の凄さは装飾だけでなく、この2.7mにも及ぶ壁の厚みです。

弾丸も通さぬ強度を誇ります。このような袖塀を据え付けた城門は全国で水戸城だけです。

大手門の扉は1枚で900kgという規格外の重さがあるそうです。

当然、これだけ扉が重くて大きければ、取り付けられる金具も大きい!


扉側に付いた横長の八双、柱側に付いた肘金、肘金の上に付いた壺金。全ての部材が大きい!

梁には松の木が使われています。

柱には欅が使用されており、伝統的な工法で復元されています。


大手門は佐竹氏が城主だった1601年頃に建てられ、時代と共に何度か建て替えられました。

大手門には番所が設けられ、内部には二階に上がる階段もあります。内部は非公開です。

大手門の枡形。

かなり広めの枡形空間で、土造りの枡形に新鮮さを感じます。


6月に訪城した秋田県の久保田城で土造りの枡形に感動しましたが、再びハイクラスな枡形に出会いました。


久保田城は水戸城を大改修した佐竹義宣が移封となり、築城した城です。

枡形と大手門。

真壁造りという縦の柱と横の長押の間に、漆喰の壁を形成しているので、外部に木材が見えるのが特徴です。


ちなみに最初に見た二の丸角櫓は、木材が完全に外壁の漆喰に埋め込まれた大壁造り。


それぞれの味があるので、他の城でも注目して見ると面白いと思います。

さらに注目すべきは大手門屋根の最長部にあたる大棟の白い箇所。

棟飾瓦には、練塀と同じく模様が施されており、白く塗られています。


細かなところにセンスを感じ、他の城との違いを見ることができます。

鬼瓦と軒丸瓦には水戸徳川家の家紋「水戸六つ葉葵」を見ることができます。

発掘調査では当時の瓦も多く出土しています。

大手門枡形と土塁。

土塁の高さは5mくらいでしょうか。

水戸市立第二中学校の敷地内なので立ち入りはできませんが、土塁は二の丸を囲むように続いています。

振り返っての大手門枡形。

大手門付近にある大日本史編纂地之地碑。


大日本史は水戸光圀によって開始され、240年に渡って水戸藩の事業だった日本における歴史書。

明治時代に完成し、江戸時代には教科書としても使われました。


全国から資料を集めたことから、有名な水戸黄門へと繋がります。

水戸彰考館では大日本史編纂に関わる業務が行われていました。同場所には二の丸展示館があります。


展示館の前は水戸学問の道と呼ばれており、保育園、小学校、中学校、高校など二の丸全体が教育エリアになっています。

二の丸展示館内には発掘調査で出土した遺物や、日本遺産「近世日本の教育遺産群」の弘道館や、偕楽園などの教育遺産に関する情報や資料が展示されています。


感動したのは中学生が授業の一環で作った案内新聞。

水戸城の攻略の仕方、歴史、人物など学生さんが調べた内容がひとつひとつ手作りで新聞化されています。


ワタクシでは思いもつかない学生さんらしい発想や観点で書かれており、とても感動しました。


水戸に脈々と流れる教育というDNAの一部を見たような気がしました。

水戸学問の両脇に並ぶ学校の塀には、鉄砲狭間風の穴が施されており、この一帯に城郭雰囲気を感じることができます。


この道は普通に自動車も走る一般道です。

水戸第三高校と茨城大学附属小学校の間には、二の丸門櫓に向かう特別通路がありますが、9時30分に開門のため先に本丸に向かいます。

さらに少し進むと水戸城跡の大シイがあります。

佐竹氏時代から自生していると伝わり、樹齢推定400年。


水戸城の様々な長い歴史を見てきた木です。

水戸城跡の大シイの先には杉山門があります。

杉山門の前には杉山坂があります。

1625年に初代藩主 徳川頼房が行った大改修の際に整備された坂です。


藩主の御殿があった二の丸に直接通じる重要な門でした。

写真を撮影しているあたりは、現在 一般道になっていますが、当時は土塁で枡形を形成していました。


現地の解説板には絵図が掲載されているので、絵図と照らし合わせて見ると分かりやすいと思います。

杉山門の先には本城橋があり、橋を渡ると本丸です。

二の丸と本丸を繋ぐ唯一の門で、この辺りも戦国期らしさが残ります。

本丸と二の丸を仕切る大堀切!

個人的には水戸城における一番の見どころスポット。


規格外の堀切は見る者を圧倒します。

本丸側の角には、本丸隅櫓が建っていました。

形は二の丸角櫓と同じで、二重の櫓にL型に続櫓が接続していました。

堀底には現在 水郡線が通っています。

堀底までの深さはなんと22m!

間違いなく土造りの城としては、全国で一番スケールの大きな、最強の堀切です。

本城橋を渡ると本丸で、橋詰門跡があります。

右側には本丸の高い土塁。

橋詰門も大手門と同様に佐竹義宣が造りました。


現在、本丸跡は水戸第一高校・中学校となっており、敷地内の決められた場所のみ見学することができます。

学校敷地内には現存の薬医門が残っています。

1600年頃に佐竹義宣によって造られた門で、当初は先ほど通過した橋詰門に建っていました。


大手門とはテイストが全く異なり、重厚感と風格があります。当時の屋根は茅葺で、そこから瓦葺となり、近代に銅板に葺き替えられました。

佐竹氏は源氏の血筋の名家で、豊臣政権の時代には54万5千石をも治める大大名でした。


関ヶ原の戦いで西軍とも東軍とも立場をハッキリしなかったことから、徳川家康によって秋田県の出羽国に移封されます。


出羽国で壮大な土造りの久保田城を完成させており、幕末まで出羽国を治めました。


明治の廃城令で多くの城が破却されて取り壊された中で、久保田城は残城処分で取り壊しを免れました。


しかし、明治13年の久保田城下大火によって大半を焼失してしまい、番所のみが現存しています。


その観点から見ても、佐竹氏時代の薬医門はとても貴重です。260年以上治めた久保田城には建築物は残っていませんが、12年間治めたこの地に佐竹氏の遺構が残っているわけですから。

間口は6.5m、高さ7.5m。

水戸城は1945年の空襲によって、建築物は焼失しました。

薬医門は転々と移築されており、焼失を免れました。1981年に元あった本丸に戻ってきました。

鏡柱と控柱。

部材が太くかなり立派です。戦災を免れて今でもこの姿を見れること自体、奇跡的なことです。

切妻部と懸魚。

貴重な建築物ですから、細かなところまで見てみます。

寺院建築のような古風な感じが、味があって美しさを感じます。

再び本城橋を渡り、通称ロマンス坂を下って本丸周辺を歩きます。

横から見た本城橋。

江戸時代は土橋でしたが、明治になって水郡線を通すために、土塁にトンネルが掘られました。


その後、土橋ごと破壊して橋が架けられました。

本丸は江戸時代には倉庫として利用されており、城の実質的な機能は二の丸に集約されていました。

ロマンス坂の中間には柵町坂下門があります。

解説板にはかつての姿が撮られた古写真が掲載されています。

脇には番所のような建物が付随しています。


しかし、二の丸南側を守る門としては、やや質素にも感じます。

柵町坂下門は高麗門形式で、鏡柱と控柱に切妻屋根が乗っているのが特徴です。

門の前には徳川頼房公像があります。

冒頭で説明した通り徳川頼房は水戸初代藩主ですが、3代将軍 徳川家光と一つしか歳が変わりませんでした。


家康にとって頼房は息子、家光は孫にあたります。つまり、家光にとって頼房は一つ歳が違う叔父になります。


徳川家光は兄弟事情もあり、頼房をかなり信頼していたようです。

ロマンス坂を下りると国道51号線に繋がります。

交差点から見た二の丸。

続いて、51号線から見た本丸大堀切と本城橋。

様々な角度から堀切を見ましたが、この場所から見た堀切が一番美しかったです。

同じく51号線から見た大堀切。

この角度から見える本丸南西の角に、本丸隅櫓が建てられていました。


明治5年まで現存していましたが、放火により焼失。

規格外の高さを誇る土塁に、二重櫓が上がっていたことを想像するだけでも痺れます。

本丸隅櫓は古写真も残っています。

本丸沿いの51号線を進み、JR常磐線の陸橋辺りからのショット。


右側手前が下の丸、正面の白い建物あたりの森が本丸、奥の高層建物辺りが二の丸。水戸城の巨大さが伝わります。


現在はビルやマンションが建ち並びますが、当時は千波湖が南側全体を囲んであり、水戸城の堀の役割をしていました。

陸橋から見た下の丸。

本丸から一段下がった曲輪であり、本丸東側を防衛する曲輪だったと思われます。


奥の方が急激に土塁が高くなっているのが本丸。

下の丸の東側。

陸橋の階段を降りれば、下の丸や本丸北側まで周囲を歩くことができます。

陸橋を降りて下の丸南東側を下から見てみます。


水戸城には4基の隅櫓と、天守代用の三重櫓が1基建造られました。4基の櫓の一つ、下の丸隅櫓は南東隅のこのあたりに建っていました。

下の丸東側。

基本的に水戸城は質素な造りだったようです。


水戸藩は定府大名でしたので、参勤交代がなく藩主が江戸に常駐していました。それ故に近世城郭としては、水戸城はかなり質素であったと伝わります。

下の丸北東隅。

城の骨格が綺麗な状態で残っています。

北側から見た、本丸と二の丸の大堀切と堀底を通過する水郡線の線路。

素晴らしい遺構は様々な角度から見てみたくなる性格です。

反対側からのショット。

線路の奥が本丸北西側で、当時は月見櫓が建っていました。


月見櫓もL字型の二重櫓でした。

北側二の丸の土塁。

この上に見晴台があるので行ってみます。

最初に見た杉山坂をのぼって、二の丸北側から再び入城します。


左側のグラウンドには高い土塁も確認できます。

杉山坂の頂部は先ほど歩いた水戸学問の道となり、左側が本丸、右側は大手門、正面には藩の中心となる御殿が建ち並んでたいた水戸第三高校。

杉山坂から見た杉山門。

杉山門付近にある見晴台の入口。

学校のグラウンドの一部が観光用の通路として整備されています。

木が多くて良い景色とは言えませんが、目の前に那珂川が流れています。

水戸城の北側はこの那珂川が天然の堀として機能しており、強力な防衛機能が備わっています。


天然の要害を巧みに活かした城造りが、まさに戦国期らしさです。

9時30分が過ぎたので、二の丸角櫓への道が開門しました。

見晴台と同様に、学校の敷地内を観光用で整備したような道。

このあたりの二の丸南側には、御三階と呼ばれる三層五階の天守代用の櫓が建てられました。


昭和まで現存していましたが、残念ながら大空襲によって焼失しました。


破風がないシンプルな造りで、一層目には瓦が埋め込まれた海鼠壁なのが特徴的。

規模は12m×12mの正方形で、高さは明らかになっていませんが、5階建てなので16m以上はあったと考えられます。

復元された土塀と二の丸角櫓が見えてきました。

辿り着くまで迷路のようでワクワク感を掻き立てられました。

二の丸角櫓。

中央に二重の櫓とL型に続櫓が接続。


二の丸角櫓は古写真などが無かった為、本丸隅櫓の古写真をモデルに復元されました。

大手門同様に、大棟部には棟飾瓦が使われています。棟鬼瓦には水戸徳川家の家紋が輝きます。

出土した礎石は地中に保存されていますが、現物が展示されています。

職人の技は細部に宿ります。

凹凸のある石の上に乗せられた横架材。ミリ単位で木を削り、隙間なくピッタリに石と同じ形に加工します。


光付けと呼ばれる伝統的な大工技術。

櫓入口。

白漆喰と黒の下見板貼りが美しい。コンパクトな櫓ですが、細かなところまで再現されています。

続櫓内部。

伝統的な工法によって木造復元されており、内部は展示品や復元に関する映像、資料などを見ることができます。


やはり木造復元は素晴らしい。

城のような伝統的な建築物があってこそ、日本の技術継承が可能となります。

城の復元とは様々な観点から見ても必要です。

館内に展示されている水戸城の門扉。

この門扉は茨城県坂東市の万蔵院で発見され、2009年に水戸市に寄与されました。


この門扉の発見によって、水戸城跡が大きく動き出します!

万蔵院では水戸城大手門と伝えられていました。

門の寄与をきっかけに大手門復元の会が結成され、一気に復元の機運が高まりました。


発掘調査が行われ、大手門と二の丸角櫓が見事に復元されました。


大手門の門扉としては小さいことから、結果的には城内のいずれかの門扉であったようですが、この門の発見は水戸城にとって大きなターニングポイントになりました。

続いて三の丸にある弘道館に潜入です。

弘道館は水戸藩の藩校で、水戸城内の三の丸に1857年に本開館しました。


弘道館は水戸藩9代藩主の徳川斉昭が推進した、藩政改革の重要施策の一つとして開設されました。


弘道館の正門は国の重要文化財に指定されています。

弘道館は藩校としては全国一の規模を誇り、学問として儒学、礼儀、歴史、礼儀、天文、数学、地図、和歌、音楽。

武芸では剣術、槍、柔術、兵学、鉄砲、馬術、水泳など多様な科目が教えられており、総合大学のような施設でした。

正門の柱には銃痕が残っています。


水戸藩では徳川斉昭の藩主相続で門閥派の諸生党と改革派の天狗党の藩内抗争が続きました。

斉昭が世を去ると抑えが効かなくなり、諸生党が権力を握り天狗党を弾圧します。

明治維新で形勢は逆転して諸生党は会津戦線で戦いますが、会津若松城の落城により水戸城を奪取しようと水戸に戻り、三の丸にある藩校弘道館を占拠します。


城を守る天狗党側と「弘道館戦争」が勃発し、激戦が続きますが諸生党は次第に劣勢となり、千葉方面へと退却。八日市場で水戸藩追討軍に敗れ壊滅しました。

弘道館の番所。

通用門を通る人を監視する施設となります。

内部は畳敷きで小さいながらも快適な空間となっています。

正庁は弘道館の中心的な建物で、御殿建築の様式を持つ立派な書院造り。国の重要文化財に指定されています。

鬼瓦ひとつを見ても、城の御殿並みの格式ある装飾。

内部に入ってすぐ、諸役会所という部屋があり、そこに掛けられた尊攘の掛軸。

かなりインパクトがあり身体が震えました。


徳川斉昭の命によって書かれたこの2文字は、明治維新のスローガンとなる尊皇攘夷へと繋がります。

正庁側から見た諸役会所。

長押に掛けられた扁額は、徳川斉昭の書で弘道館と書かれています。

三の間から見た尊攘。

諸役会所は来客や諸客の控室でした。
縁側と長押に掲げられた扁額

この扁額には徳川斉昭直筆の「游於藝」が掲げられています。


論語の一説で、六芸とは礼儀作法、音楽、弓術、馬術、習字、算術を指しており、

文武に凝り固まらず、悠々と芸の道を極めるという意味があります。


徳川斉昭は学びの場として弘道館を開設し、同じくして「衆とともに楽しむ場」として偕楽園を開園させました。

偕楽園は現在、金沢の兼六園、岡山の後楽園と共に日本三名園の一つとなっています。

正席の間。

正席の間と隣の二の間、三の間は儀礼・公的な部屋で、この正席の間は藩主が隣席して文武の試験が行われた重要な場所でした。

正席の間の脇には、畳廊下と奥に10間畳廊下があります。

畳廊下の脇にある湯殿。

各地で藩校を幾つか見てきましたが、湯殿は初めて見ました。

湯殿の隣にはトイレも併設。

しかも畳敷き。大小2つのトイレが設置されており、手を洗う洗面所もあります。

建物の一番奥にある至善堂。

藩主の休息の場として使われていました。


この御座の間では、最後の将軍 徳川慶喜が明治維新で将軍職を辞してから、恭順の意を表して静かに朝廷の命を待った場所でもあります。


徳川慶喜は斉昭の7男。

徳川慶喜はこの場所で何を思いながら時を過ごしていたのでしょうか。


落ち着いた小さな空間は、なんとなく徳川慶喜の想いが染みているように感じました。

展示されている長持。

将軍職を辞した徳川慶喜が、謹慎していた上野の寛永寺から水戸に移動する際に使用された当時の長持と伝わります。


さすが将軍らしい豪華なフォルム。何よりもこれほど重要で価値の高いものが残っており、展示されていることに驚きます。

撮影禁止エリアには、当時の教科書や資料などが展示されています。

弘道館はとても見応えがあり素晴らしかったです。

弘道館の裏手には孔子廟があります。

門しか見れなかったのですが、孔子廟は神儒一致、文武一致の建学精神に基づいて、徳川斉昭が儒学の祖となる孔子を祀る為に建設されました。

下り棟の下部あたりには架空の動物 鬼犾頭・鬼龍子を設置した珍しい門です。

孔子廟の奥には鹿島神社があります。

鹿島神社は徳川斉昭が弘道館を開設するにあたって、仁孝天皇から勅許を得て成立したとされています。

1945年8月の空襲で焼失しましたが、昭和49年に伊勢神宮の別宮となる風日祈宮の旧殿一式が譲渡されて、建築様式や資材をそのまま用いて移築されました。

孔子廟の前には弘道館の学生や教職が歩行した通路が復元されています。

通路に接続した土塁。

徳川斉昭は弘道館の建設の際に、三の丸を改修して堀と土塁を造成しました。


この土塁と堀は弘道館の絵図に合わせて復元されました。

枡形土塁や堀と併せて、北柵御門も復元されました。

当時は番所も置かれており、教職や役人のみが通行を許されていました。学生は正門脇の通用門から出入りしていました。

北柵御門の脇にある三の丸北側の土塁と堀。

こちらは当時の土塁で、復元された土塁はこの北側土塁の高さに合わせて復元されました。

三の丸西側にも土塁と空堀が残っています。

こちらは大規模で深い堀と高い土塁で形成されています。

右側が三の丸土塁で、かなりの高さがあります。

左側の平地に比べて、城内となる右側の三の丸土塁は高くなっており、上から攻撃できるように設計されています。

道の反対側はもっと長い空堀が残っています。

城内と町屋地区を区画する需要な堀でした。


堀幅は約30m、堀の深さは約14m。

水戸城は石垣は一切使わない土造りの城ですが、徳川家康の時代と、三代将軍 徳川家光の時代に、石垣造りの城にするための命が出されています。


一部、石垣の準備もされていたようです。


以前テレビで見た時は、川を使って石垣を運ぶのが困難で頓挫したと言っていたような気がします。

徳川御三家の尾張徳川家は名古屋城、紀州徳川家は和歌山城と、いずれも御三家に相応しい石垣の立派な城です。


水戸城だけが土造りの城なので違和感がありましたが、実際に見てみると戦国っぽさがあって魅力的な城だなと感じます。

土橋も残っています。

江戸時代の絵図でも、この土橋は描かれています。

反対側にも空堀が残っているので土橋を撮影。

絵図でこの空堀は水戸駅の方まで続いており、千波湖に接続されていました。


現在は市街地化によって、この先の空堀は埋められ、千波湖も埋められて規模が小さくなっていますが、外堀として強固な防御が敷かれていました。

土橋もの先は三の丸跡で現在は県立図書館が建てられています。

土橋から見た三の丸土塁。

同じく三の丸跡から見た土塁。

高さ5m近くありそうです。

三の丸の広場。

茶色の建物は三の丸庁舎。目の前の広大な敷地には馬場と調練場がありました。


水戸城は串団子のような連郭式のシンプルな縄張りですが、一つ一つの曲輪がとにかく広い!

全体的な城のテイストが、6月に訪城した佐竹氏の居城 久保田城に何となく似ているように感じました。


佐竹氏時代の骨格を活かして改修されたというのは信憑性が高いように思えます。

水戸城の遺構巡りはほぼコンプリートしましたが、まだ終わりません。

水戸駅の近くには水戸東照宮があるので、最後に寄りました。


見たことのないような、金と黒の派手な鳥居。徳川家の家紋も描かれています。

鳥居を抜けて下から見上げると、黄金に輝く常葉山時鐘門が見えてきます。

通行する人を睨むように見つめるのは、中国で善悪を見抜く力を持つと伝わる神獣 カイチ。

常葉山時鐘は2代藩主 徳川光圀が水戸城の時報として鋳造しました。


時鐘は1704年に東照宮に納められ、その後色々ありつつも、今でも東照宮に納められています。


時鐘を吊るしていた鐘楼が、東日本大震災によって損傷したことで、2026年に4月に新たな鐘楼と併せた門が新設されました。

水戸東照宮社殿。

1621年に徳川家康を祀る神社として創建されました。社殿は国宝に指定されていましたが、空襲で焼失しました。

水戸東照宮は高い場所にあり、絵図では先ほど見た三の丸西側の空堀と土塁が東照宮あたりまで伸びており、この付近は千波湖でした。

水戸東照宮の下には宮下銀座という飲食街になっています。

16年以上前に水戸に来ていた時は、この宮下銀座でよく飲んでいたので懐かしい。


偕楽園も行きたかったのですが、4時間半休憩なしで歩き続けたので、次回の宿題です。


水戸市全体で盛り上げており、雰囲気も良くて素晴らしい街でした。

2026年7月27日

 

本日は昨日の白河小峰城に続いて、福島県の猪苗代城に初訪城です。

 

福島県には名城が多く、会津若松城、白河小峰城、二本松城が日本100名城に指定されており、さらに向羽黒山城と三春城は続日本100名城に指定されています。

 

昔から新潟、山形、宮城の主要道が交差する福島県は守りの要として重要視されていました。

特に会津は名武将が統治しました。

 

名城がひしめいているが故に猪苗代城はややマイナーな城になっていますが、福島県の史跡に指定されており、歴史上でも重要な城でした。

 

朝4時に起きて、宿泊した猪苗代のホテルから車で10分ほど。早朝5時に登城口に到着しました。猪苗代城は現在、一帯が亀ヶ城公園として整備されています。

 

車の場合は図書歴史情報館と、公園東側に城跡専用の駐車場があります。

無料の専用駐車場には早速に枡形虎口と大手口多聞櫓の石垣が出現します。

これはかなり期待できます。

駐車場に設置された解説看板。

猪苗代城は亀ヶ城とも呼ばれ、始まりは三浦氏の一族となる佐原氏が、鎌倉時代に奥州征伐で軍功をあげたことで、源頼朝に会津4郡を与えられます。

 

その子、長男が猪苗代氏を名乗り、1191年に亀ヶ城を築いたと考えられています。

14代まで猪苗代氏の居城となりましたが、天正17年に伊達政宗と現在の会津一帯を治めていた蘆名氏による摺上原の戦いで、伊達氏が蘆名氏に勝利したことで、会津は伊達領となります。

 

豊臣秀吉による奥州仕置で伊達政宗は会津の領地を没収されて、後に会津を離れると猪苗代氏もこの地を離れたことで、猪苗代氏の400年続いた支配が終焉を迎えます。

ちなみに猪苗代氏は幕末まで仙台藩士として伊達氏に仕えています。

左側が枡形虎口で、長く伸びた石垣の上には長屋形式の多聞櫓が建っていました。

 

猪苗代城は比高30mの小高い山に築かれた平山城で、外からの景色は中世城郭の雰囲気ですが、この石垣を見ると近世城郭を併せ持つ城であったことが分かり、イメージが一新されます。

 

伊達政宗が領地没収された後は、会津領主は蒲生氏、上杉氏、加藤氏など有力大名が支配。猪苗代城は会津を守る重要拠点として残り続けました。

 

江戸時代の一国一城令が発布されても猪苗代城は破却されずに幕末まで城の機能を維持しました。

石垣は蒲生氏郷の時代と考えられています。

蒲生氏郷は会津統治時代に、会津若松城や二本松城などを改修して現在の骨格を造りました。

 

特に最高クラスの技術を持つ石工集団 穴太衆によって石垣が積まれており、土造りが多い関東や東北地方の中では革新的な築城技術がもたらされています。

石垣の右手には鐘突堂があります。

戊辰戦争時に新政府軍が試し撃ちした弾丸が鐘を貫通したそうで、当時の鐘は公民館にて展示されています。

 

鐘突堂は元々城内の異なる場所にあったものを、現在の地に移築したそうです。

大手口の枡形の先にはクランクした階段があります。

この場所は石垣に囲まれた枡形の空間になっており、石垣が良好に残っています。猪苗代城の見どころの一つです。

階段を登ると三本杉井戸があります。

石で積まれた井戸で、猪苗代城には他にも南帯曲輪に空井戸が残っています。

三本杉井戸の前には先ほど下から見た鐘突堂があります。

階段はさらに続きます。

右側が三本杉井戸と鐘突堂、左側は急な縁になっており、上には帯郭が展開されています。

階段から振り返っての一枚。

急な階段の右脇には銅丸という帯郭が展開されています。

現在は立入禁止となっています。

階段を登ると二手に道が分かれます。

本来は階段を登った先に石垣があるのですが、現在は土のうとシートによって保護されています。

 

通行の規制も行われています。

 

築城当時の野面積みと、修築によって江戸中期頃の打込接、さらに鏡石が2つ積まれているようですが、孕み出して崩落の危険性があることから、土のうで応急処置が施されています。

 

令和2年に設置されてから6年もこの状態というのも心配です。予算の問題か技術的な問題かは不明ですが、いつかこの石垣を見てみたいものです。

石垣の上は本丸で切岸になっており、登ることは不可能なほどの急な崖になっています。

交通規制の為、右側を進むと北帯郭が広がります。一段上の高い場所が本丸。

北帯郭からは猪苗代小学校のグラウンドが広がります。

当時はこの場所は堀となっていました。

北帯郭から見た本丸。

近くで見ると北帯郭と本丸との高低差がを一層感じることができます。

北帯郭を囲む土塁。

続いて北帯郭から切岸脇の細い道から西帯郭に向かいます。

虎口のような通路もあります。

この辺りは先ほどの石垣の近世的な城郭から一変して、中世城郭の雰囲気が満載です。

この細い通路を進むと西帯郭へと繋がります。

西帯郭の土塁。

北側よりも高い土塁となっています。奥に見える平場が西帯郭となります。

西帯郭。

左側が本丸となります。

北帯郭よりはコンパクトな平地なので、土塁の高さから見ても西側の防御機能を強く意識した曲輪であったと思われます。

続いて本丸。

土塁が本丸全体を囲んでいます。

本丸は広めの平地となっています。

江戸時代には城代が置かれて機能していたので、御殿などがあったのでしょうか。

土塁に雁木のような石積みも確認できます。

本丸から一段下がると二ノ郭があり、野口英世の銅像があります。

ちなみに野口英世は猪苗代氏の子孫で、幼少時代には猪苗代城(亀ヶ城公園)で遊んでいたようです。

二ノ郭も土塁で囲まれています。写真を撮った階段あたりには黒門がありました。

門の形状等は分かっていないようです。

 

二ノ郭には櫓門が建っており、石垣が残っています。

櫓門跡の前は枡形になっています。

大手から本丸に直結する門なので、防御力と格式が高かったのだろうと想像できます。

櫓門跡から下を眺めると大手櫓門階段があります。

下は最初に登城した際に通行止めになっていた道と繋がります。

櫓門の土台となる石垣。

反対側も櫓台の石垣が残っています。

アジサイで見えにくいのですが、綺麗に加工された算木積みの隅石が確認できます。

 

大手枡形は自然石を使った野面積みでしたが、主郭部はより近世的な積み方となっています。

櫓門跡には礎石のような石も残っていました。

櫓台から見た大手櫓門跡。

この角度で櫓型の門が建っていました。

 

猪苗代城は幕末まで建物も残っていましたが、戊辰戦争で会津藩と新撰組が母成峠を新政府軍に突破されると、この猪苗代城に退却しました。

 

新政府軍に城を利用されるのを防ぐために、焼き払ってから会津若松城へと退却した為に、建築物は全て焼失してしまいました。

大手櫓門の反対側となる西側には四脚門跡があります。

二ノ郭にはこの東西の2ヶ所に門が設けられており、こちらが裏側の搦手となります。

下から見た四脚門跡。

四脚門跡の脇には隅櫓の石垣が残っています。

加工された石を使った打込接で、アール形状になっています。

本丸の上には隅櫓の石垣、左の坂道を上ると西帯郭へと繋がります。見た感じは完全に中世城郭ですが、随所に見ることのできる近世的な技術。

 

コンパクトな城ながら、見どころが多くて面白い城です!

南帯郭も北側と同様に広めの平地となっています。

正面には本丸が聳えています。

別名亀ヶ城と呼ばれていますが、確かにこの角度から見ると本丸は亀のように見えます。

猪苗代城がある山自体も亀のような形状をしています。

 

本城となる会津若松城の別名は鶴ヶ城、さらに猪苗代城と隣り合わせで連立している城は鶴峰城なので、鶴と亀という民謡を表したようなネーミングです。

南帯郭から見た景色。

朝から雨が降っていたので空は曇りですが、奥には猪苗代湖が広がります。

 

猪苗代湖は日本で4番目に大きな湖で、田園風景と重なり今も昔もあまり変わらない姿を見ることができます。

南帯郭から見た本丸と搦手の隅櫓石垣。

隅櫓が突き出しているので、なんとなく亀の頭に見えます。

南帯郭から下山して、麓にある猪苗代町図書歴史情報館の方へ向かいます。

 

左側が南帯郭。削り落としたような急な崖になっているのが分かります。

猪苗代城は全体的にこのような急な斜面で曲輪が形成されています。

下から見た主郭部。

戦国時代であればかなり防御力が高い城だったと感じます。

南帯郭から麓に下りると旧山内家住宅が移築されています。

会津藩制の時代の村役人の農家住宅となります。

 

注目はこの住宅の前にある図書歴史情報館の裏側!

斜面を登ると空堀が隠れています!

左側が南帯郭となります。

空堀の堀底も歩いてみます。

深さが10mは超えていそうな、迫力ある空堀です。

南側は完全にこの堀で防御されています。

土塁の上からのショット。

反対側が南帯郭で、台地を切り裂いたような空堀です。

南帯郭からもこの空堀を見下ろすことができるのですが、この時期は草木が多いので上からは見えにくいので、図書歴史情報館の裏手の土塁から撮影。

 

堀の深さが伝わる良い写真が撮れました。

空堀の土塁を図書歴史情報館から見るとこのような形で、写真の通りとても高く鋭い斜面となっています。

 

この裏に先ほど歩いた空堀があります。

整備された亀ヶ城公園内を歩いて、西側から再び城内を目指します。

 

右側に見える建物は旧山内家住宅。

住宅の裏側の整備された水路は、当時の堀跡を生かして整備されたように思えます。

 

なんとなく地形の形状が横堀に見えます。

城郭西側から細路地に入ると、ほのぼのとした公園の雰囲気から一変して、緊張感の漂う城郭へと切り替わります。

 

山の尾根を分断する堀切で、右側が猪苗代城で左側が鶴峰城です。

近くで見るとダイナミックな堀切で、これは良い写真が撮れました。

 

文献によると鶴峰城は猪苗代氏代々の隠居城となっていたようです。

猪苗代城は近世城郭として改修されましたが、鶴峰城は手が加えられなかった為、今でも戦国期の遺構が残っています。

 

今回は猪苗代城のみを徹底して見てまわったので、鶴峰城は次回改めて訪城したいと思います。

 

堀切の裏側には空堀があるようなので向かいます。

スタジアムのように高くアールを描いた土の壁に囲まれています。

こちらが西側の空堀。

南側の空堀に比べて距離があり、堀底も広いのが特徴。

左側が公園側で右側は西帯郭。

訪城前に想像していたよりも、はるかに遺構が残っており、ひとつひとつのスケールが大きいです。

横から土塁形状を見てみます。

戊辰戦争で建物が焼失して廃城になった後は、猪苗代城は荒廃していたそうです。

 

明治38年に町内の有志によって、桜やツツジを植樹して公園として整備されました。

 

明治に全国の城がことごとく破却されていく中で、猪苗代城は焼失して城の役目が既に終わっていたからでしょうか。城郭形状がそのままの状態で現在まで残っているように感じます。

堀が深すぎて写真に映りきらないので、西帯郭側を見上げたショット。

 

この高さある急斜面の上に、西帯郭が展開されています。

序盤に周った時に、西帯郭の土塁が他の郭に比べて一際高いと思っていましたが、結果的に下から見るとこのように高い土の防壁となっています。

北帯郭と西帯郭にある虎口に戻り、これで現在整備された猪苗代城を一周しました。

時間は約2時間ほど。

過去一番に早い時間帯での登城でしたが、当然ながら誰もいなかったので猪苗代城を独り占めしました。

 

予想を超える満足度を得ることができました。

室町時代に築城された城が幕末まで残り、現代に至るまで綺麗に残っている城は珍しいです。

 

全国には2万から3万の城があったと言われています。長い歴史の中で、戦によって落城して廃城、一国一城令、明治の廃城令、空襲、市街地化による消滅、様々な事由によって城は姿を消してしまいました。

 

その中で、全てを乗り越えて残存していることが、いかに貴重であるかを改めて感じることになりました。

この城を守り続けた地元の有志の方や自治体には感謝です。

 

名城の会津若松城からも近いので、訪城の価値は十分高い城でした。

2026年7月25日

 

2023年10月以来の訪城となる白河小峰城。

前回訪問した時は、城めぐりを本格的に始めてから3ヶ月目ということもあり、攻略がかなり甘かったので再訪城の機会をずっと考えていました。

 

白河小峰城は日本100名城に選出され、国の史跡に指定されています。

盛岡城・会津若松城と並ぶ東北3名城の一つでもあります。

 

白河小峰城の歴史としては、1340年〜1350年頃に結城氏によって築城されたと伝わります。

 

1590年の豊臣秀吉による小田原攻めに参陣しなかった結城氏は、奥州仕置によって改易。

以後は会津若松城の支城として存続しました。

 

蒲生秀行が会津若松城の領主だった時代の絵図では、城郭と城下は整備されて現在の白河小峰城の原型が完成しています。

 

前回よりも深掘りしてスタートです!

小峰城歴史館の前には無料駐車場もあり、綺麗に整備されています。

 

歴史館の脇から主郭部へと向かうと内堀跡を見ることができます。

当時は二之丸を水堀が囲んでいました。

現在はその痕跡の一部を見ることができます。

本丸に向かうメインゲートの清水門が復元工事のため、臨時の昇降階段が設けられています。

臨時の昇降階段から見た帯曲輪と本丸の石垣。

白河小峰城は東北では珍しい総石垣の城で、1627年に初代白河藩主となった丹羽長重によって、4年の歳月で大改修されました。

 

二之丸と本丸を総石垣にして、三之丸は門などの主要部に石垣が多用されました。

帯曲輪から見た二之丸の内堀跡。

同じく帯曲輪と本丸の石垣。

平地の二之丸→帯曲輪→本丸と3段構造になっています。

 

二之丸と本丸の比高は15mとなります。

帯曲輪門跡。

なんと芸術的な石垣!門跡の先には本丸の高石垣があり、圧倒的な存在感があります。

 

後ほど帯曲輪門から本丸に向かうことにして、まずは前回行かなかった帯曲輪を見て周ります。

本丸南西隅の石垣。

加工された石が使われた打込接の技術が用いられています。

本丸の南西隅には富士見櫓が建っており、二重櫓だったと考えられています。

富士見櫓石垣と本丸西側の石垣。

奥に張り出した石垣は雪見櫓の石垣です。

 

芸術的で惚れ惚れするショット。こんなに素晴らしい石垣を、不覚にも前回来た時は見ませんでした。

本丸西側の石垣と雪見櫓石垣。

雪見櫓の石垣も含めてこの辺りの幅21m、高さ10mが東日本大震災で崩落しました。

 

破損した石は新たに交換され、崩れた石は3年の歳月で元に戻されました。

 

丹羽長重がこの城全体を総石垣に改修したのが4年の歳月。当然、工事に従事した人数も異なるので一概には言えませんが、壊れたものを元通りに戻すという作業は本当に大変な作業であることが分かります。

北西側から見た本丸西側の石垣。

そして、本丸下の平場が帯曲輪となります。

雪見櫓の石垣。

本丸から突き出して造られており、監視の役割と本丸からの攻撃の有利性を考慮した設計になっています。

雪見櫓の西側入隅部は鋭角に突き出しており、芸術的な角度で積まれています。

雪見櫓石垣と本丸北側石垣。

本丸石垣の高さ10mほどで均整の取れた美しい石垣が広がります。

隅は算木積みで当時の最新技術で積まれています。

引きで見るとこのように、手前側の雪見櫓と奥の富士見櫓の石垣は突き出しており、本丸を囲むように帯曲輪を形成。

 

石垣は右側の西側の方がやや高めで、左側の北側は土塁のような盛り土の上に石垣が形成されています。

帯曲輪の北西隅。

帯曲輪と北西は突き出しており、監視と横矢で攻撃する意味合いがあったのでしょうか。

帯曲輪北西隅から見た景色。

眼下には幅広の水堀を巡らせています。

 

この角度からだと見えないのですが、対岸に見える住宅地のさらに奥には、阿武隈川が流れており天然の堀の役割をしています。

 

北側はかなり守りに徹した造りになっているように感じました。

突き出した帯曲輪北西隅には水懸口があります。

石垣で造られた細い通路で、日常的な通行ではなく排水やごみ処理など、施設管理のための出入口と推測されています。

 

図面が残っており、高さは6mで柿葺きの切妻造りの門だったようです。

水懸口付近から撮った北側の帯曲輪。

土塁が盛られており、当時は塀が周囲を囲んでいました。

右側は本丸北側の石垣。

石垣の下では地元の方が草刈りをしていました。

一列になって手作業で草を除去されています。

 

崩落した石垣の修復も綺麗に整備されている城内も、様々な方の力があってこそ城は守られているのだと思い知らされます。

当たり前のように素晴らしい景色を見せて頂けることに感謝です。

本丸北側石垣の出隅部。

ここから土塀が復元されています。

出隅からクランクして、白河小峰城のシンボル三重櫓が出現します。

 

かっこいい!

高さ10mの石垣に加えて、高さ14mの三重櫓が建っているので、迫力があります。

注目すべきは櫓台石垣。

一部分だけ石の積み方が異なるのが確認できます。

 

基本は綺麗に加工された石が積まれているのに対して、左下だけは不揃いの自然石が積まれています。

 

白河小峰城で最古の石垣と考えられており、江戸時代の前後くらいの1596年〜1615年頃に築かれた石垣です。

三重櫓の左側は、本丸から一段下がった竹之丸の石垣。当時、隅には平櫓が建っていました。

角度を変えての三重櫓。

威圧と重厚感があります。三重櫓脇の石垣が突き出していることで、死角が無くなり横からも攻撃できる設計になっています。

やや引き気味での三重櫓。

見る角度が少し変わるだけで、シャープに見えます。

 

迫り出した出窓が二つ設けられており、下は石落としになっています。

石垣から登ってくる敵を石落としで迎撃できる機能を持ち合わせた造り。

北側には矢之門跡があり、当時は堅固な櫓門が建っていました。

 

矢之門後の石垣をよく見てみると、白河小峰城の特徴でもある、同心半円型落し積みを見ることができます。

石が円を描くように積まれています。

 

現在は復元工事中で見ることができませんが、清水門にも同じ積み方を確認することができます。

 

現地のスタッフさんに聞いたところ、中心部が目のように見えるらしく、入城する人に心理的な影響を与えるために、重要な門にこのような積み方をしたのではないかとお聞きました。

 

地元の方や現地のスタッフさんと接触する時間は、とても貴重で勉強になります。

矢之門跡から見た三重櫓。

白河小峰城の写真は大体が本丸、もしくは前御門の前から撮影した写真ばかりですが、この角度からの姿を見逃したら勿体無い。

 

是非、帯曲輪から矢之門まで足を運んで頂きたいです。

矢之門跡から見た北側外堀。

堀幅が30mもあり、帯曲輪側と住宅街の平地との高低差もあるので、築城当時はかなりの防御力があった思われます。

矢之門跡から外堀に行けるのですが、後ほど周ることにして、まずは三重櫓のある本丸に向かいます。

 

城郭の東側に竹之丸と同じくらいの高さの山があり、何やら怪しい雰囲気だったので行ってみました。

なんと、立派な石垣を見ることができました。

市役所の整備計画書を見ると、このあたりは和党曲輪となっており、この一帯も史跡エリアとなっています。

ひっそりと佇むのが和党門跡。

完全にこの辺りには人がおらず、穴場っぽくて一層テンションが上がってしまいます。

 

奥には三重櫓。主郭の東側は矢之門と和党門が守っていたと思われます。

加工した石が使われていますが、隅部が算木積みではないので、主郭部とはやや異なる積み方。

この先は立入禁止になっていたので、近寄ることはできませんでしたが、十分見応えある遺構を楽しめました。

山の裏側には、階段があったので登ってみました。

階段脇には戊辰薩藩戦死者墓と書いてあります。

上には墓が建てられています。

戊辰戦争で各地にあった薩摩藩士の墓を大正5年に合葬して建てた墓で、60名が眠っています。

 

白河小峰城は戊辰戦争で激戦地となりました。

東北諸藩にとっては敵だった薩摩藩ですが、故郷から遠く離れたこの地で丁寧に弔われています。

墓のある鎮護神山から見た三重櫓。

分かってはいましたが、今でこそ優美なこの城は戦いの舞台であったことを改めて感じ、何となくこの場所から見た三重櫓が哀愁に満ちた姿に見えました。

山を下りて城郭東側を通って、次こそは本丸に向かいます。

なかなか先に進まないのは、いつものこと。

 

竹之丸東側の石垣も素晴らしい。

竹之丸の南東隅には、竹之丸二重櫓が建てられていました。

櫓台石垣は前面に突き出しており、美しい曲線を描いています。。

石垣の下は土の平場になり道が整備されていますが、当時は堀で主郭部を防御していました。

二之丸東側の石垣。

二之丸東側の石垣に積み方が異なるポイントがあります。

左側は加工された石を隙間なく積んだ切込接、右側は加工した石をランダムに積んでいます。

そして、境目を同心半円落し積みと同じ、円を描いています。

 

細かく見ていくと様々な箇所に見どころポイントが眠っています。

藤門跡から再び城内に入城します。

広がる二之丸跡。

二之丸には藩を司る様々な役所や、上級家臣の屋敷があったそうです。

復元工事中の清水門。

完成したらこの位置は新たな写真スポットになるでしょう。

 

工事は新たな調査などで工期が1年遅れて、来年の3月にお披露目となります。

 

外からは足場とシートで見えませんが、現地スタッフさんに聞いたところ、ほぼ完成しており外壁の漆喰と内部がまだ残っているようです。

清水門は高さ11m、間口14mで白河小峰城の中では最大規模の城門でした。

 

撮影している二之丸と本丸を結ぶ門なので、番所も併設されていました。

サイドから見た清水門。

白の漆喰と下見板の黒い土塀が少し見えています。

臨時の昇降階段脇には月見櫓の高石垣があります。

左側が月見櫓跡となり二重櫓が建っていました。

 

隣の突き出した石垣は櫓台並みの石垣ですが、土塀が建てられており、横からも攻撃ができる横矢の設計がされています。

隙間なく積まれた切込接。

正方形の石と多角形の石が使われており、亀甲積みが随所にミックスされています。

再び臨時の昇降階段を上がり、帯曲輪門にやってきました。

資料では中ノ門とも記されており、帯曲輪から本丸に繋がる重要な門でした。

櫓門形式の門で高さ7m、間口が13m、屋根は切妻造りの柿葺き。図面が残っており、解説板に絵図が記されています。

帯曲輪門と本丸の石垣。

前回の訪問から3年が経過し、全国の様々な城を見てきましたが、改めてじっくり見ると白河小峰城は非常に魅力的な城であることに気付かされました。

帯曲輪門を通過して振り返ってのショット。

縄張り自体は割とシンプルですが、随所に折れや張り出しがあり、かなり計算されて築城されたことが伝わります。

帯曲輪を通過すると連続して桜之門があり、いよいよ本丸となります。

 

本丸に直結しているだけあって、帯曲輪門と桜之門の連続した門はとても厳重です。

桜之門脇の本丸石垣。

階段を上がると一度折れ曲がります。

桜之門は本丸御殿南側の入口に繋がる門で、藩主の出入口に使われていたと考えられています。

 

桜之門も櫓門形式で高さが7mありました。

振り返ってのショット。

階段中腹はキュッと絞り込まれて複数人での通行が困難に造られています。

いよいよ本丸に到着です。

本丸には藩主の居住空間と政務を行う本丸御殿が建てられていました。

白河小峰城の定番となる本丸からのショット!

 

白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟と新政府軍が争奪した激戦地で、その際に大半を焼失して落城しました。

 

1991年に三重櫓、1994年に前御門が絵図と発掘調査に基づいて、忠実に木造で復元されました。

三重櫓へと一目散に向かいたくなるのですが、今のワタクシはじっくり隅々まで見て周りたい派なので、本丸南西隅の富士見櫓跡から見ていきます。

 

先ほど帯曲輪からも櫓台の石垣を見ましたが、二重櫓がこの場所に建てられていました。

富士見櫓跡から見た二之丸。

右側の御殿のような建物が小峰城歴史館、左側の建物は二之丸茶屋となります。

 

奥の市街地化された場所には、当時は三之丸がありましたが、今は線路が敷かれて白河駅となっています。

現在は本丸と二之丸が城跡として整備されています。

全国に富士見櫓と名の付く櫓が多く存在していました。

その名の如く富士山が見えることから富士見櫓と名付けられています。

白河小峰城の場合は、ここから富士山が見えるかは分かりませんが、富士山の方角に建つ櫓です。

富士見櫓の対面にある本丸北西部の雪見櫓跡。

雪見櫓も二重櫓で、本丸から突き出していることで、三方を見渡せる監視にも攻撃にも適した造りをしています。

雪見櫓から見た本丸土塁。

本丸土塁を横から見た本丸北側の土塁。

右側が本丸なので、かなり高い土塁となっています。

 

やはり北側と西側の防御がかなり意識されています。

本丸跡に建てられた石碑。

近くで見た前御門と三重櫓。

白河小峰城が段々になった不思議な造りをしているのは、三階櫓が建つ北側土塁が本丸の平地よりもかなり高いからです。

階段を登れば三重櫓の入口。

 

この急な階段の高さ=土塁の高さとなるので、いかに本丸北側の土塁が高いかお分かり頂けると思います。

階段から見た前御門。

やっと三重櫓の内部に潜入です。入場は無料。

復元に使用された木材は、戊辰戦争の「白河口の戦い」で激戦を繰り広げた稲荷山の杉です。

白河口の戦いは仙台藩や会津藩といった奥羽越列藩同盟軍が、進撃する新政府軍と100日間に渡って砲撃・銃撃戦を展開。

 

三重櫓の復元の際に伐採した杉から、戦闘時の弾丸が多く発見されたそうです。

通し柱に銃痕を見ることができます。

 

写真では左側の黒い穴が銃痕で、触ると金属の銃弾がめり込んでいました。まさに当時の戦闘を物語っています。

北側出窓部の石落とし。

急な階段を上がり二階に登ります。

東側の出窓。

床には石落としが設けられ、出窓は三方から攻撃できるようになっているので、死角を減らして攻撃する目的もあったと考えられます。

最長部となる3階の屋根。

横架材の梁には魚の鱗のような凸凹があります。

ちょうなで表面を削って凹凸をつける日本古来の技法。城に関わらず現存している歴史的建築物で見ることができます。

細かなところまで再現されています。

鉄砲狭間から見た北側。

階段から小屋組を間近で見てみます。

やはり木造での復元は素晴らしい。日本の素晴らしい建築技術は、伝えうる建築物があって初めて継承されていきます。

 

そういった側面から見ても、歴史的建造物を木造復元するというのはとても意味があります。

三重櫓の脇にある、おとめの桜。

本丸から突き出した場所に石碑が建てられています。

 

城の石垣が何度も崩れたため人柱が立てられることになり、父を心配して城へやってきた藩士の娘「乙女」が犠牲になったという伝承があります。

 

桜の木は戊辰戦争の戦火で失われ、現在の桜は二代目となります。

おとめの桜から見た北側。

帯曲輪が綺麗に整備されています。

三重櫓から見た本丸跡。

本丸には御本城御殿と呼ばれる御殿建築が建てられており、畳数は707畳とする記録が残っています。

この本丸いっぱいに御殿が造られたと考えられます。

階段から見た三重櫓。

本丸に残る井戸跡。

竹之丸から見た前御門と三重櫓。

ここからの撮影は定番スポット。三重櫓から前御門まで雛壇畳になっているので、この場所に立つと様々な角度から狙われていることを感じます。

前御門は本丸の正門となっていました。

高さは約11m、間口8.3mで天守と同じ下見板張りの本瓦葺き。

本丸の正門らしい格式の高さを感じる城門です。

前御門と接続された間口の短い多聞櫓は、本来はL型で本丸西側まで長く伸びていました。

本丸西側の石垣。

石垣の手すりがあるあたりに多聞櫓が建っていました。

竹之丸から見た内堀。

一段下がって水堀があり、二の丸となります。

左奥の高い石垣が竹之丸二重櫓の櫓台石垣です。

前御門の礎石。

江戸時代の礎石は保存のために地中に埋められているようです。

 

来た道を戻って、矢之門から外堀を歩きたいと思います。

再び矢之門の前にある和堂門の土塁。

この背後に搦手門跡があります。

搦手門跡。

夏なので草も絶好調に生き生きしており、だいぶ埋もれていますが喰違いのクランクになっています。

90度折れ曲がると搦手門の石垣が残ります。

奥には三重櫓も見えます。

搦手門の石垣と三重櫓。隅石は算木積み。

かなり良い写真が撮れました。

高石垣は矢之門脇の櫓台石垣。

ネットでは本丸石垣が白河小峰城では一番高いという情報をよく目にしますが、矢之門の櫓台石垣の方が高いように感じます。

外堀対岸から見た搦手門方面。

正面が矢之門跡で、左側が搦手門跡。

 

そして左側には外堀から搦手門に架かる土橋。

外堀から見た三重櫓。

現地スタッフさんの話では、北側の防御性が高いのは仙台の伊達政宗を意識したからと考えられているようです。

 

会津若松城も豊臣政権下においても、江戸幕府の時代においても常に信頼のおける大名が配置されたのは、仙台藩を含めた東北諸藩の抑えだったと言われています。

 

もし、仙台藩伊達氏の抑えで設計されているのであれば、歴史とは不思議なものです。結果的には仙台藩と共に新政府軍を迎え撃ったわけですから。

城郭の北側と西側を囲む外堀。

外堀から見た北西隅の石垣。

同じく北西隅の石垣と北側外堀。

城郭西側と外堀。

再び北側から晴れ間が見えてきました。

城郭南西隅と外堀。

外堀からの写真を連載。

 

外堀沿いを歩くと白河小峰城のイメージが一新されました。堀幅が広いのでまるで水に浮かぶ城です。

 

白河小峰城は総構えの城だったので、何重にも堀を設けて城下を取り込んだスタイルでした。

市街地化が進んだ中で今でも、幾つかの遺構が街の中に残っています。

 

太鼓櫓も白河小峰城の唯一の現存建築として移築されています。

今回は、前回見逃した箇所を2時間半かけて周りました。

 

清水門の復活に合わせてまた来たいと思いますので、周りきれなかった旧三之丸と外堀跡は宿題となります。

会津門跡から小峰城歴史館に戻り、今回の遺構巡りは終了です。

 

城めぐりを始めた当初は、建築物や本丸に一直線に行っていたので、本当の意味で城めぐりをしていませんでした。

何度も城めぐりをしている中で、理解して周る大切さを知り、可能な限り隅々まで見るようになりました。

 

3年前に同じ城を見ているのに、全く違う城を見ているような感覚でした。

 

少し角度が変われば、天気が変われば、季節が変われば違った顔になる。

だから何度でも行きたくなる。それが城です。

今月で本格的に城めぐりを始めてから3年が経過し、123城の城に出会うことができました。

 

お城が好きな方も、これから好きになる方も興味持ってもらえる内容を、これからもお届けしたいと思います。

 

白河市といえば白河ラーメン。

市内には100店舗以上のお店があります。

手打ち中華そば もりさんでチャーシューワンタンを頂きました。

ぷりぷりの手打ち麺、醤油が引き立った鶏がらスープ。身体中に染み渡り最高でした。

 

ご当地グルメを味わうのも旅の楽しみです。