つぶやき城ー。訪城BLOG

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まだまだ初心者の、城をどこまでも愛する男。

一つとして同じ城はなく、全ての城に個性があるから知りたくなる。

見る角度によって、見る季節によって、見る気候によって表情が変わるその姿に、私は恋をした。

2025年5月16日


朝に山形城を訪城の後は、鶴ヶ岡城へ移動。

鶴ヶ岡城は山形県の日本海側、庄内地方の鶴岡市にあり続日本100名城です。


アクセスがやや困難で、県庁所在地の山形駅から電車だと3時間〜3時間半ほどかかります。


もしくは、高速バスを利用すると2時間半ほどで到着します。


いずれも鶴岡駅から鶴ヶ岡城までは2kmほどあるので、市内のバスの利用が必要となります。


今回は山形駅からレンタカーで直接向かうことにしました。

車だと約2時間かからず到着。レンタカーが一番コスパ良いかもしれないですね。


現在、鶴ヶ岡城は鶴岡公園となっており、日本さくら名所100選に選ばれています。



致道博物館側から入城。


鶴ヶ岡城は幾つもの水堀で城郭部と城下町を一体にした総構えの近世城郭です。


二の丸水堀は一部が残っています。



二の丸跡は現在広場になっており、のどかな雰囲気が漂います。



二の丸の先には、さらに本丸を囲む水堀があります。

本丸水堀は大手門周辺を除いて、綺麗に残っています。かつては高さ3.6mの土塁が本丸を囲んでいました。



本丸水堀は、かつての城郭の雰囲気を感じることができますが、鶴ヶ岡城の遺構は残念ながらあまり残っていません。



本丸の中心部には現在、荘内神社が鎮座。

その脇には本丸御殿の跡として広場があります。



荘内神社は明治10年に庄内藩を納めていた酒井家の4人の先祖を御祭神とした神社です。


御朱印がとても綺麗でした。


ちなみに、続日本100名城のスタンプと御城印も荘内神社でコンプリートすることができます。



荘内神社脇にある本丸内北門跡。



かつては鳥居の脇あたりが大手門で、大手門を抜けると本丸の水堀がありましたが、現在は曲輪の形も残っていません。


鶴ヶ岡城の遺構はあまり残っていないものの、その周囲には歴史にまつわる幾つもの魅力的な建築があるので行ってみました。



まずは庄内藩の藩校となる致道館。

鶴ヶ岡城の隣の、三の丸跡にあるのでアクセスが抜群です。


致道館は庄内藩の9代藩主、酒井忠徳によって1805年に創設されました。



致道館のメインゲートとなる四脚の総門は表御門。

現存建築物で、致道館は国の指定史跡になっています。


鶴ヶ岡城らしく、赤瓦が使われているのが良いですね。



表御門を抜けると左手にはさらに門があり、その奥には聖廟があります。



社寺建築のような古風な造り。



内部には儒学の祖である孔子を祀っています。



1万5000㎡の広大な敷地に多くの建築物があった致道館でしたが、現在は講堂が残るのみとなっています。


礎石のレプリカがあり、当時の建築物の配置が分かりやすくなっています。


始業式などの時、生徒は講堂に集まりました。


また、藩主が参勤交代で留守の年には、藩政の打ち合わせや会議が行われました。



講堂の内部は現在資料館となっています。


君子学ンデ似テソノ道ヲ致ス

(君子は学び、その道を遂げる)


日々誠実に自分の役割を果たすこと、そしてそれを完成させる。


現代に通ずる大切な教育指針です。



講堂は御入間と接続されています。




中庭も素敵で、日本建築の良さが詰まっています。

忙しない世の中で、ここだけ時が止まったかのような時間が流れています。



御入間は藩主専用の特別室です。

藩主が講堂に出席する際の控室の役割があり、格式ある数寄屋風の造りです。


続いて近くにある致道博物館に向かいます。



まず致道博物館の注目すべきポイントは、旧庄内藩主御隠殿。


11代庄内藩主の酒井忠発が建てた隠居所で、江戸の中屋敷の一部を北前船で移築したもの。



まさかこんな素晴らしい貴重な遺構が残っているとは驚きました。


内部は資料館となっており、庄内藩の歩みを知ることができます。



致道博物館に鎮座する、旧酒井家江戸屋敷の赤門も移築現存しています。


移築は1864年、明治に台風で破損。2004年にも台風で破損。古材を使用して修復されました。



赤門とは徳川将軍家の姫君が大名家に嫁ぐ際には、江戸屋敷内に特別な住居を構えて、さらに朱塗りの門が建てられました。


徳川家康の時代に、徳川四天王だった酒井家は譜代大名の名門です。


徳川将軍家と姻戚関係があったので、赤門が江戸の屋敷に建てられていました。



致道博物館には旧鶴岡警察署庁舎も現存しています。


城とは関係のない建築物ですが、興味深かったのでアップしました。


明治期の建築物なので、文明開花の象徴と言える西洋の近代的な建築ですが、よく見ると不思議な形に気づきます。



サイドからのショット。

一見、西洋風ですが随所に城郭建築っぽさが残っているのにお気づきでしょうか。


サイドから見ると、完全に入母屋造りになっています。


正面からよく見ると城の櫓に見えてきます。

唐破風みたいな庇も付いているし。


これは明治になって、宮大工が造った建築物なので城っぽさが残っているとのこと。


致道博物館のスタッフさんに丁寧に教えて頂きました。


日本建築をアレンジして西洋っぽい建築にしてしまうなんて、宮大工って凄いなと実感してしまいました。



遠くから見ると、やはり望楼型の櫓にしか見えません。


想像よりも見どころがあって、充実した旅となりました。


最後に軽く庄内藩について解説。

一つ目は戊辰戦争。

新政府から討伐命令を受け、奥羽越列藩同盟として新政府軍と戦った庄内藩。


次々と諸藩が敗戦し降伏していく中で、連戦連勝を重ねたのは庄内藩のみ。


しかし、会津藩が降伏したことで庄内藩も降伏。最後まで戦で負けることはありませんでした。


二つ目は江戸時代の1840年に酒井家は庄内から新潟の長岡へ転封予定でしたが、酒井家に忠誠を誓う領民が猛反対し、江戸幕府に直訴しました。

天保義民事件は有名な話。


通常であれば死罪に値する行為でしたが、藩主を擁護する前代未聞の行動に幕府内外で大きな反響を呼びました。


最終的に幕府は転封命令を撤回し、明治まで酒井家は庄内を納めます。


鶴岡城は形を残さずとも、今でも鶴岡市には庄内藩酒井家の息吹が多く残っていました。