つぶやき城ー。訪城記録

つぶやき城ー。訪城記録

まだまだ初心者の、城をどこまでも愛する男。

旅のついでに行った城が、今では城に行くための旅が何よりの楽しみ。

一つとして同じ城はなく、全ての城に歴史と個性がある。

見る角度、見る季節、見る天気によって表情が変わるその姿に恋をした。

本日は東京都八王子市にある片倉城に初訪城です。
八王子界隈には幾つもの城跡が残りますが、有名なのは八王子城と滝山城。

 

片倉城はマイナーな城の部類になるかもしれませんが、東京都の中でも遺構が残る貴重な城ということで、訪城しました。

 

片倉城の築城年や築城者などは明らかになっていませんが、1394年〜1427年に長井氏によって築城されたと伝わります。

長井氏といえば、今年の初めに訪城した初沢城も長井氏に所縁のある城でした。


戦国初期の扇谷上杉氏と山内上杉氏による争乱の中で機能した城という話もあります。

 

築城年や廃城年なども不明な為、謎多き城でもあります。

新宿から京王電鉄の京王片倉駅に到着。

片倉城は京王片倉駅とJR片倉駅が最寄りとなります。

JR線だと徒歩5分、京王線だと徒歩10分で到着できるのでアクセスは抜群です。

片倉城の前を流れる湯殿川。左側に見える森が片倉城となります。

 

片倉城は湯殿川と兵衛川の合流地点となる、標高143m・比高30mの丘のような山上に築かれました。

片倉城の山麓にある、いこいの広場。

現在の片倉城は片倉城跡公園として整備されており、ファミリーや犬を連れた地元の方が多く集まる、ほのぼのとした公園になっています。

現地にある公園のマップです。

ちなみに、片倉城跡には解説板などがありません。


この看板は帰りに公園の入口付近で見つけたもので、ワタクシは赤色立体図を元に周りました。

幾つか登城ルートはありますが、水車小屋のある城の北側より入城します。

水車小屋。

当時はこの一帯は湿地帯になっており、川も含めて天然の要害となっていました。

奥の沢と呼ばれる沢の脇を通って山上に向かいます。

赤色立体図で連続した竪堀状の窪みを確認したので来てみましたが、草が腰くらいの高さまで生い茂っており、全く確認することができませんでした。

竪堀のような窪みの脇は整備された道になっており、登ると広場に出ます。

この場所は曲輪跡ではないようですが、曲輪のような広さを誇る平場です。

 

もし、赤色立体図の窪みが竪堀であれば、城の一部だった可能性もあります。

平場から「奥の沢」沿いを歩いて二の丸に向かいます。

二の丸と曲輪のような平場は、天然の要害となる奥の沢によって分断されています。

 

右側が奥の沢。

急斜の崖になっており、片倉城の北側は深い沢によって完全に守られています。

二の丸と休憩広場の分岐点。

この辺りは人工的に土を盛った土塁も確認できます。

二の丸側から撮影した休憩広場。目の前には浅めの空堀があり、奥には休憩広場があります。

堀底から見た空堀。

右側が休憩広場、左側が二の丸。
空堀の形状がはっきり残っていますが、堀底はだいぶ埋まっているように感じます。

休憩広場から見た空堀と二の丸。

右側には先ほど通過した登城路の分岐点があります。

休憩広場。

奥の沢と空堀によって分断されたこの平場は、馬出だったようです。

 

この平場が馬出だとすれば、この辺りが二の丸北側の虎口だったと思われます。

赤色立体図で見ると二の丸側が土塁によって人工的に成形しているので、虎口だったのではないかと考えられます。

 

※片倉城は遺構の解説が現地でもネットでも明確な情報が少ない為、完全に個人の妄想で記述します。

二の丸跡は、かなり広い空間です。

綺麗に整備されており、散歩している人やファミリーが集う憩いの場となっています。

二の丸と本丸を繋ぐ本橋。

橋を渡ると本丸跡になります。

本丸は二の丸よりも狭い曲輪ですが、それでも50m四方の大きさがあります。
居住空間としても十分な広さですが、二の丸は本丸の2倍ほどの広さがあります。

本丸に残る土塁。

おそらく当時はもっと高い土塁だったと思われます。

本丸東側の下には空堀が巡っており、草が茂っていても分かるほど深い空堀です。

同じく東側の空堀。対面は高い土塁なので、下部の堀が深く迫力を感じることができます。


本丸東側はこの空堀で守られています。

本丸から見た景色。

木の合間から微かに見える程度ですが、比高30mの丘でありながら、一帯を見渡すことができます。

 

この方角に川の合流地点があるので、本丸と二の丸は天然の要害で守られた、城に適した立地でした。

本丸と二の丸を仕切る空堀。

本丸から撮影しており対面が二の丸になります。

堀はだいぶ埋まっていますね。

 

堀幅が広いことを考えると、堀底もそれなりに深かったのではないかと考えられます。

堀底から見た本橋。

草が茂っているので空堀の形状が分かり難いですが、橋があることで何となく掘形状を理解することができます。

対面の二の丸側から見た空堀。

本丸の右側の高くなった場所に櫓があったと考えられています。

 

扇谷上杉氏と山内上杉氏による争乱時代の城とネットで知識を入れていたので、同じ東京都にある深大寺城くらいの遺構を想像していました。

ここまではおおよそ想定通りの城跡です。

 

しかし、ここからが想像を遥かに超えてきます!

本丸櫓跡付近から見た竪堀。

先ほど見た本丸と二の丸を仕切る空堀は、竪堀となって下部まで伸びています。

 

急斜で見事な竪堀です!今までとは完全にテイストが変わりました。

現在は公園の通路になっていますが、これは間違いなく竪堀です!

左側が本丸、右側が二の丸。

下から見た竪堀。

本丸南側を中心に赤色立体図で見て行きましょう。

竪堀①が本丸と二の丸を分断した竪堀。

この竪堀が本橋のある空堀①に接続。

主郭部には横矢の屏風折れの空堀がありますが、草が多くてあまりよく確認できませんでした。

 

空堀②が本丸から見た空堀です。

赤色立体図でもはっきりと確認できる、折れの空堀を歩いてみます。

左側が本丸。正面には曲輪が突き出ています。

進路を折ることで、横矢と呼ばれる多方向からの攻撃が可能となります。

折れた箇所からのショット。

正面が本丸。

右側が突き出した曲輪で、進路がクランクしているのが分かります。

 

左側も土塁になっているので、進路が狭く一列でしか進むことしかできません。

先ほど撮影したポイントを撮影。右側が突き出した曲輪。

正面が土塁で進路を塞がれているので、強制的に右に曲がることしかできません。

 

もし攻め手であれば先頭の人はご愁傷様です。

後ろからは味方が追随しており、道が狭いので後には引けず、先にはどんなトラップが仕掛けられているのか分からない中で、前に進むことしか許されない状況。

北側は奥の沢によって天然の要害によって守られていましたが、南側は人工的に防御設計と大工事が行われています。

赤色立体図の虎口?と記載した場所。

この撮影ポイントをAとします。

 

右側が屏風折れの空堀方面。正面の下った坂に虎口があったのではないかと勝手に想定しています。
 
右側には土塁、左側は平場となっており、上から敵を見下ろす設計になっています。
虎口と想定する場所から見たポイントA。
道の分岐点になっていますが、右側は先ほど本丸から見た空堀②が竪堀となって堀を形成しています。
 
左側に進むと屏風折れの空堀へと繋っており、竪堀と横堀がこの場所で合流しています。
 
かなり戦闘を想定した設計で驚きました。

上から見た虎口のような場所。

実際に虎口であったかは謎ですが、右側は斜面に沿った土塁で、左側の平場は迎撃するための場所であるのは間違いないように思えます。

脇から見た虎口のような場所。

本丸に近い場所でもあるので、この周辺には何かしらの虎口はあったと感じます。

さらに先に進み、振り返ってのショット。

こちらの空堀も折れ曲がっており、左側の土塁沿いに進むと、先ほどのAポイントとなる堀の合流地点に繋がります。

一度、屏風折れの空堀を戻ります。

二の丸に戻り、赤色立体図を見ながら西側に残る空堀を見に行きます。

二の丸南側と西側の赤色立体図。

本丸南側も素晴らしい遺構でしたが、二の丸南側と西側は土橋や馬出を設けて、さらに戦闘向けの設計になっています。

 

本丸も含めて横矢の設計が多いのが片倉城の特徴。

 

そして、立体図の二の丸西側空堀の規模が大きそうだったので目指します。

二の丸西側は躑躅が植えられ、公園としての整備がされています。

堀の対面側は畑になっていることを考えると、この辺りは後世に改変がされた可能性があります。

堀対面の畑。

堀底を歩いて立体図の深い空堀に向かいます。

 

この先が馬出方面の空堀なのですが、途中で草が多くて先に進めなくなりました。

二の丸から見た西側の土塁。

立体図ではこの土塁の裏側に大きな堀があるはずなのですが、柵があって入ることができません。

 

諦めかけたその時、柵の端っこに小さな入口がありました!

二の丸西側の土塁!

この箇所だけかなり高い土塁になっています。

ついに見つけました!

二の丸西側の空堀!やはり想定通り、かなり深い空堀です。


おそらくこの深さの空堀が、先ほど躑躅が植樹された空堀まで続いていたと考えられます。

この大規模な土木工事力を見ると、後北条氏の手によって造られたのではないかと感じます。


片倉城は発掘調査があまり行われていないので、詳しいことは謎に包まれています。

土塁の上から見るとダイナミックな深さに衝撃を受けます。

 

堀の対面が馬出です。

深大寺城と同じくらいの城と思って訪城しましたが、この土木工事力は比較にならないほど大規模です。

同じく土塁の上から見た二の丸南側の空堀。

左側の土塁の上が当時の通路で、通路を遮る形で奥の馬出が設けられています。

二の丸から本丸竪堀を再び降りて、土橋①を通って二の丸南側と西側の空堀を見に行きます。

 

写真は土橋①で、右側には竪堀①があります。

土橋①。

上り坂の土橋になっており、この道を進むと二の丸に接続されています。

竪堀①

竪堀の上は二の丸で、かなり幅の広い竪堀で、下から見るとスタジアムのように囲まれています。

土橋②

草が茂って分かり難いのですが、右側が竪堀①で左側は二の丸南側の空堀となっており、赤色立体図でも明瞭に土橋形状が残っています。

 

正面が二の丸虎口です。

二の丸側から見た土橋②

土橋から見た竪堀①。

ご覧の通り、土橋を通過する敵を横から攻撃できるように曲輪が張り出しています。

空堀側から見た土橋。

いよいよ、二の丸西側の空堀です。右側の二の丸がかなり高く、上から狙われています。

細い通路になっていますが、途中に不自然な窪みがあります。

窪みの脇を見ると竪堀②があります。

ついに二の丸西側空堀に到着です。

右側の二の丸土塁が高いこともあり、圧巻のスケールを誇る空堀になっています。

角度を変えての二の丸西側空堀。

左側が馬出です。

同じポイントから見た二の丸南側空堀。

この一帯は同じ八王子市の滝山城を彷彿とさせる規模です。

馬出を囲む空堀。

草が多い!それでも堀は確認できました。

 

馬出は私有地と隣接しているので、あまり深くは入り込むことができません。

 

馬出の空堀沿いを迂回して先ほどの細い通路を通り、土橋②から二の丸に入るのが当時の通路だったと思われます。

 

二の丸に辿り着くまで幾つもの横矢掛りで多方向から迎撃できるように考えられており、戦いを想定しているのが分かるので、想像しながら歩くと面白い城です。

馬出付近から見た景色。

二の丸南側空堀の堀底から見た馬出。

右側の斜面が二の丸、正面が馬出。

二の丸南側から西側の隅部。

振り返っての二の丸南側の空堀。

北方面を見た二の丸西側の堀底。

竪堀のように斜面になっているのは、堀底が少し埋まったからでしょうか。それとも意図的か。

 

この堀が躑躅の幅広い空堀へと繋がります。

同じく北方面を見た二の丸西側の堀底。

堀底から見た馬出。

南方面を見た二の丸西側の堀底。

左側が二の丸で、右には馬出。

角度を変えてのショット。

二の丸が凄い高くなっているのが分かると思います。

馬出から見た堀底。

二の丸空堀南西の隅部。土塁の上が二の丸に繋がる通路です。

再び二の丸南側の空堀を通って、城内にある住吉神社に向かいます。

 

二の丸南側と西側を存分に楽しむことができました。

東側、本丸の下に鎮座する住吉神社。

住吉神社の由緒は片倉城主だった長井氏が応安5年(1372年)に城の鎮守の神として、大阪の住吉大社を勧請したことが始まりとされています。

左側が本丸東側。

神社の鬼瓦や手水舎など至る所に確認できるのが、長井氏の家紋となる一文字に三つ星紋。

 

一文字に三つ星紋は、戦国時代に中国地方で大大名となった毛利氏の家紋と同じです。

 

長くなるので詳しいことは割愛しますが、長井氏の始祖は鎌倉幕府の御家人だった大江氏。

同じく大江氏を始祖に持ち、現在の神奈川県厚木市を与えられ毛利と名乗ったのが、後の大大名となる毛利氏です。

 

一文字に三つ星紋は大江氏の家紋だった為、大江氏の流れをくむ長井氏と毛利氏は同じ家紋です。

住吉神社の裏側から本丸東側の空堀を見に行きます。

本丸から見た空堀はこの場所です。

この空堀が竪堀となって南側の空堀と合流します。

 

しかし、草が多く蜘蛛の巣が多かった為に先に進むことは断念。

引き返して、神社の参道から本丸東側空堀を見てみます。

高く盛り上がった箇所が土塁です。

サイドから見ると草は多いですが空堀状になっています。

 

当時はこの空堀が本丸北側まで繋がって、本丸全体を囲んでいたようです。


つまり住吉神社は当時の堀底に鎮座していることになります。

住吉神社から細路地に入ると、本丸南側の空堀に抜けることができます。

再び本丸南側の折れの空堀を進みます。

何度見ても魅力的な遺構。

本丸竪堀から再度、二の丸に戻ります。
変質者の如く何度もぐるぐるこの辺りを徘徊しました。

天然の要害の奥の沢も整備されて下に降りることができます。

沢の麓には水が流れており橋が架けられています。

橋から見た片倉城。

奥の沢が片倉城北側の守る天然の堀になっています。

奥の沢の山麓部。

見た感じは完全に竪堀のようになっています。

自然地形の沢に人工的に手を加えたような形状です。

片倉城の山麓に残る沼。

この沼は当時、蛇行して流れていた湯殿川の一部です。

現在の湯殿川と片倉城。

素晴らしい遺構を見た後は、いつも清々しい気分になります。天気も良くて最高の1日となりました。


片倉城はマイナーな感じではありますが、この投稿を見て、行ってみたいと思ってもらえる方が、1人でもいれば嬉しいですね。
アクセスも良く、良好な遺構が残っているので行く価値のある城です。

総括
城郭北側は奥の沢が天然の要害となり、強い防御力となっています。
逆に南側は人工的な土木工事によって防御力を高めており遺構も良好。
曲輪を張り出すことで横矢を造り出し、土橋や馬出で計算された防衛設計は、コンパクトな城でありながらもかなり技巧的です。

確証はないものの、遺構の規模からすると後北条氏の時代に改修されたのではないかと想定できます。

北条氏の本拠地に繋がる鎌倉街道を抑えているあたりもポイント。
同じく北条氏の支城の八王子城も近いことから、八王子城の支城だったのでしょうか。

最後に
時期的に草が生い茂って、蜘蛛の巣があまりにも多すぎた為、断念した道もありました。

時期をずらして改めて訪城したいと思います。

2026年10月10日


三連休の初日、本日は神奈川県相模原市にある津久井城を訪城。


津久井城は東海道に至る八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井を東西に横断して甲州街道に達する津久井往還、相模川が流れていることなどから、陸路と水運の要衝でした。


鎌倉時代後期には北条得宗家の直接支配下に置かれ、南北朝期以降は足利将軍家代々の直轄領でした。


戦国時代には後北条氏の支城となり、豊臣秀吉による小田原征伐で落城し廃城。江戸時代は幕府直轄領となり、陣屋が置かれました。


どの時代でも重要視されたエリアといえます。


都内から中央線で八王子駅で横浜線で乗り換え。津久井城の最寄りである神奈川県相模原市の橋本駅に到着。


橋本駅は京王線も走っており、帰りは京王線で帰りました。

新宿駅をベースで考えると京王線の方が快速もあり、圧倒的に早かったです。

橋本駅から橋01系統のバスに乗車して約30分ほどで、北根古屋停留所に到着です。


時間によって異なりますが、バスの運行本数は割と多いので、公共交通機関でも安心して攻城できます。

停留所付近から見た城山。

標高は375mで、山頂部に津久井城の主郭部があります。

北根古屋の停留所から5分ほどで城山公園の入口があります。


津久井城は城山公園として整備されており、山頂の城跡までは幾つもの登山ルートがあります。


まずはパンフレットや情報を収集する為に、山麓にあるパークセンターを目指しました。

入口には諏訪神社があります。

社殿には見事な龍の彫刻が施されています。神社に関する情報がないので、創建などの詳細は不明。


攻城前にお参りをしてから入城です。

諏訪神社から湖畔展望園路という整備された公園の道を通って、パークセンターのに向かいます。

途中にある平場。

伝 耕雲庵跡地という小さな改札板があります。


耕雲庵とは現在の功雲寺で、徒歩で30分ほどのお寺です。

元はこの地にありましたが、津久井城主の内藤景定が移転して改名。内藤氏が開基となりました。


功雲寺には内藤景定のお墓があり、刀などの遺物も残されています。

湖畔展望園路から見た津久井城。

右側の斜面の上には展望デッキがあります。

公園として綺麗に整備されているので、ウォーキングや犬の散歩をしている人も多くいます。


この展望デッキの道をそのまま坂を上がると、パークセンターへの近道となります。

ワタクシはパークセンターの前に根古屋諏訪神社に寄りたかったので、一度公園外に出ました。

展望デッキから見た相模湖。

天気も良く、長閑で美しい景色を見ることができます。


相模湖は近代に造られた人工湖で、当時は相模川が流れていました。

展望所から歩いて5分ほどで根古屋諏訪神社に到着。

根古屋諏訪神社には大木の杉が多くあり、境内の御神木は樹齢400年で神奈川県名木100選に選出されています。

根古屋諏訪神社は建久3年(1192)、津久井領主津久井太郎次郎義胤が、宝ヶ峰在城の時勧請したと伝わります。


戦国期に後北条氏の旗下、内藤景定が城主の時に、50間四面の地が与えられ、本殿を造営したとの記録が残っています。


津久井城主 内藤氏とも関わりがある神社なので、攻城前に訪れて参拝するのがオススメです。

根古屋諏訪神社の近くに城山公園パークセンターの入口があります。

パンフレットをパークセンターで入手。

土砂崩れで通行不可の道もあるので、スタッフさんに登城ルートを確認。

公園内には津久井城の縄張図が多く設置されています。

赤色立体図で簡単に解説。

津久井城は山麓に居館エリアの根古屋と、山頂部には軍事施設となる山城が一つになった根古屋式山城です。


テイスト的には、同じく後北条氏の支城だった八王子城のような形式が取られています。


現在の津久井場に残る遺構は、後北条氏の時代に改修された際の遺構です。

パークセンターの近くにある城坂橋。

下は沢になっており、牢屋の沢と呼ばれています。

江戸時代に陣屋が置かれていた際、この沢の上流に罪人を牢獄する牢屋がありました。


牢屋は水牢だったそうです。

急斜面な沢になっており、戦国時代は沢の自然地形を改良して、堀の一部として機能していたと考えられています。

橋の先は少し開けた平地となっており、発掘調査では戦国期の土塁や虎口の遺構が発見されました。


また、柱穴の跡も発見されており、戦国時代もこの場所に橋が架かっていたと考えられています。

橋の脇には御屋敷跡に向かうための山道があります。

発掘調査で発見された虎口は、御屋敷への入口を守るための門だったと思われます。

御屋敷跡。

かなり広めの平地で、周囲は牢屋の沢によって切り立った崖になっています。

御屋敷跡には戦国時代の津久井城主、内藤氏が館を置いた場所。


発掘調査で堀や半地下式の蔵、中国製磁器や茶碗などの遺物が発見されていることから、生活空間だったことが判明しています。

御屋敷跡の西側。

左側が御屋敷跡で、人工的に斜面を削り落とした切岸で急斜面です。


さらに斜面の脇には竪堀も確認できます。

この竪堀は牢屋の沢へと向かって伸びています。

整備されて牢屋の沢には橋が架けられています。

まだ時期的に草木が生い茂っており、あまり良い写真を撮れませんでしたが、この辺りは深い谷状になっているので、城の防御力を感じることができます。

御屋敷跡の上は整備されて展望エリアになっています。

階段をあがると、御屋敷跡の直上に馬場跡があります。馬によるドラッグレースができるくらい広くて長い馬場跡。

展望エリアから見た景色。

目の前には雄大に広がる山々。

左側には三増峠があり、永禄12年(1569)に武田信玄は2万の軍勢で相模国に侵攻を開始します。


武田軍は東京の滝山城など、北条氏の城を攻撃しながら本城となる小田原城を包囲。

しかし、難攻不落の小田原城を攻略できず、武田信玄は軍を引き上げました。


北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万が要所である三増峠に着陣し、甲斐に帰国しようとする武田軍を迎え撃ちました。


さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、撃滅する作戦でした。

そして武田軍と北条軍が激突します。


北条軍有利で進んだ戦いでしたが、武田軍の別働隊の奇襲によって形成逆転。


戦地の背後に位置する津久井城守備隊の内藤隊は、武田軍別働隊に抑えられて救援に出られず、北条軍は大きな被害を受け、最終的には武田軍の勝利となりました。

白い建物付近には武田信玄が必勝を祈願したと伝わる富士塚があります。

展望エリアから見た馬場跡と下段の御屋敷跡。

御屋敷跡の展望エリアからいよいよ山城ゾーンへと入ります。


メインディッシュとなる山城エリアに辿り着く前に、山麓で既に見どころが溢れていましたが、ここからが本番です。

山城の主郭となる本城曲輪までは幾つかのルートがあります。

ワタクシは御屋敷の展望台を起点として、城坂→車坂(男坂)のルートで登り、帰りは車坂(男坂)→根本登山道で降りました。


主郭部には男坂と女坂があり、女坂は緩斜ですが大周りで細い道。男坂は急勾配ですが近道です。

山の斜面をトラバースするように道が造られており、根本登山道と城坂の合流地点付近には竪堀があります。

登城路から見た右側。

この竪堀は山麓まで伸びています。

登城路から見た左側。

この竪堀は山頂部から伸びている非常に長い竪堀となっています。

赤色立体図で見ると、津久井城は本城曲輪を中心として放射状に竪堀が幾つも確認できます。


自然地形を活かしている箇所もありそうですが、いずれにしても山全体が軍事要塞化されているのが分かります。

車坂(男坂)の登城路。

斜面はやや急ではありますが、綺麗に整備されているので登りやすいです。

トラバースする場所は登城路が削り落とされ、道が狭くなり脇は崖です。

これは津久井城の全体で同じような造りをしています。

剥き出しの岩盤。

山頂部付近は岩盤が多いのが特徴。


岩盤の上は主郭に向かう尾根になっており、上から見下ろされる位置にあります。


この道を登ってくる敵を上から攻撃できる設計がされています。

岩盤の壁に沿って回り込むと、頂部の尾根に出ます。

頂部は虎口のような切通になっており、右は飯縄曲輪方面。左は本城曲輪方面へと進む、中間地点になります。


この合流地点は東西を分断する堀切になっています。

車坂は堀切の堀底に合流するように造られているのです。

横から見た堀切。

V字の堀底の脇に切り込まれた竪堀のような斜面が車坂の登城路。

上から見た堀切。

堀切の堀底が車坂の登城路になります。

まずは右の飯縄曲輪方面に進みます。

飯縄曲輪には飯縄神社が鎮座しています。

城郭東側の最頂部が飯縄神社のある平場となります。


飯縄神社の歴史が実は凄いのです。

鎌倉時代の1197年に津久井氏が津久井城を築いた際に、城の守護神として建立したのが始まりと伝わります。


戦国時代には津久井城主 内藤氏によって社殿が改築され、引き続き城の守護神として祀られました。

飯縄神社の一段下には、戦国時代に狼煙台と鐘撞堂があったと伝わります。城内マップでは「みはらし」と記載されています。


さらに津久井城の周囲には多くの狼煙台や砦が築かれました。

狼煙台から見た飯縄曲輪。

当時は先ほど登った飯縄神社の階段ではなく、こちらが飯縄曲輪への正規の入口だったのではないかと思われます。

狼煙台があったとされる場所は、ベンチが置かれた展望台のようになっており、城郭南側を見渡すことができます。

みはらしからは関東平野と目の前の山を一望することができます。

みはらしの前の山は、造成の工事で山を切り崩しています。


多くの重機を使って写真のように山を改造していますが、戦国期にはこの津久井城も含めて人力で土木工事を行なっていたことを考えると、改めて凄みを感じます。


津久井城のある城山も、戦国期はこのように見えていたのではないかと妄想するだけで、割と楽しめるスポット。

続いて飯縄曲輪の周囲を見ていきます。

右側の斜面の上が飯縄曲輪で、周りを帯郭が囲んでいます。

帯曲輪の更に下には階段状に曲輪が展開されています。

下段から見た帯曲輪。

このように階段状に小さめな曲輪が斜面に沿って造られています。

飯縄曲輪の大杉。

樹齢900年と伝わる大杉は2013年に落雷焼失しました。


しかし、下部の太い枝木はまだ生命を維持しているようです。

津久井城が機能していた戦国時代よりずっと前からこの地を守ってきた貴重な大木。


山城は木が生えていると敵が身を隠してしまうので、基本的には伐採して見晴らしを良くします。


しかし、大きな木は井戸の水を枯らす原因になるので伐採せずに残すケースがあるようです。


よく山城などにある大木は、精神的な意味合いで残していると思っていたのですが、残すための理論的な事由があったのですね。

飯縄曲輪のさらに一段下がった東側には宝ヶ池があります。

籠城戦で必須なのが食糧と水。この宝ヶ池は日照りや雨が降り続いた年でも、安定して水が溜まっていたようです。


水が白く濁っていたことから、城兵が刀を磨いたという伝説もあります。

宝ヶ池から見た飯縄曲輪の堀切。

深さは浅いものの尾根を分断しています。

当時はもっと深く鋭い堀切だったのかなと思われます。

驚くのが堀切の下にはさらなる堀切があり、連続堀切になっています。

この堀切は鷹射場に向かう尾根を分断しています。

堀底からのショット。

岩盤を削り落とした堀切で、滑落防止の為の鎖場となっています。

堀底はかなりスリムに絞り込まれた土橋状で、両側は竪堀となっています。

竪堀は恐怖を感じるほどの急斜面。


現在は堀底と同じラインに、尾根の脇を通る道ができていますが、本来はしっかり堀切の形状だったと想像できます。

堀底左側の竪堀。

かなりの急斜面で、この竪堀は山麓まで伸びています。

堀底右側の竪堀は岩盤が剥き出しで迫力があります。

城郭東側からの侵入を絶対に阻止する気迫を感じることができます。

対面からのショット。

こちらから見ると美しい堀切形状です。

深さはありませんが、個人的には魅力的な堀切だと感じました。

鷹射場までは細い尾根を進みます。

鷹射場は山の東側先端部に位置しており、見張台のような平場となっています。

目の前には関東平野と相模原市内を一望!

美しいロケーションを独り占めできます。


空気が澄んでいる時はスカイツリーも見えるようです。

鷹射場から小倉登山道に行くと、東側の麓に行くことができるので、少しだけ歩いてみました。


小倉登山道はかなり急斜面かつ、細い尾根になっており、重いリュックと一眼レフをぶら下げて歩くには、ややキツめ。


両側が滑落防止のネットとロープが張られており、今までのルートより危険エリアであることが伺えます。

下から見ると急斜面ぶりがよく分かります。


途中で引き返して、城郭西側の本城曲輪方面に向かいます。

車坂の合流地点である堀切を西側に進むと、まずは太鼓曲輪があります。


正面の高くなった山の上が太鼓曲輪になります。

攻めてくる敵を正面から攻撃できる曲輪で、主郭となる本城曲輪を防御する重要な曲輪です。

太鼓曲輪の下を回り込むように道が造られており、終始上から狙われています。

振り返っての登城路。

右側が太鼓曲輪のある斜面。

上から狙われつつ、この削り落とされた細い道を通過しないと主郭に向かうことができません。

太鼓曲輪の入口。


三方向を見渡すことのできる、突き出した形状をしています。個人的には津久井城の中でも防衛機能を最も意識した曲輪だと思います。

太鼓曲輪には土塁も確認できます。

やはり上から攻撃することを想定した設計がされています。

太鼓曲輪から本城曲輪は向かうと、次なる防衛ラインとして堀切が出現!


絵図に橋が描かれていたことから、この場所には引橋が架けられていたと考えられています。


敵がここまで侵入してきたら、橋を落とすことで道を分断して攻め難くする。山城の定番でありながら鉄壁の防御システム。

鷹射場と同じように、堀底は削り取られた土橋状になっており、両側が竪堀です。

堀底から見た左側の竪堀。

右側の竪堀は岩盤を削り落としたことで、岩が剥き出しの圧巻な竪堀です。


この竪堀は山麓まで伸びています。

竪堀を下から撮影!

戦の時は生死を分ける命綱となる遺構なのですが、今ではアートの領域です。


竪堀の両脇が石なのが更に素晴らしい。

津久井城は、もっと注目されるべき城だと思います。

対面から見た堀切。

橋が架かっていたことが何となく想像できます。

堀切を通過して本城曲輪を目指すと土蔵という曲輪の前に短い階段があります。


堀切から数mの距離にあるこの階段の前は、土橋になっています。


両側が竪堀になっていて、道が絞り込まれているのが確認できます。

階段から見た土橋。

手前が土橋で奥には堀切と引橋跡。この距離で堀切と土橋が連続しています。


主郭が近いので防御力の高さが際立ちます。

階段を登ると土蔵と呼ばれる少し開けた曲輪にでます。


石列などが発掘調査で発見されており、物資の保管

をする蔵だったそうですが、


防衛能力の高い太鼓曲輪→堀切→土橋と続いて土蔵が尾根上に並んでいますが、急に蔵となると何となく緊張感がないような気も・・


主郭手前の重要な通路上に蔵は必要なのだろうか?とやや違和感を感じます。


個人的には攻めてきた敵を迎え打つための、馬出の方がイメージとしてはしっくりきます。

細く絞り込まれた土橋の先に、兵が待ち構えていたら脅威です。


そのような妄想も山城の魅力の一つ。正解が分からないからイマジンを楽しめます。


山城は多く攻めれば攻めた分だけ、イマジン値が上がり、どんどん楽しくなります。

土蔵から見た主郭部方面。

土蔵の一段上に米曲輪、さらに一段上に本城曲輪があり、階段状に曲輪を展開しています。


この土蔵の位置が、いかに防衛上 重要であるかお分かりいただけると思います。

米曲輪から見た本城曲輪。

本城曲輪の入口。

発掘調査で門跡や石積みの階段などが発見されています。

本城曲輪の土塁。

津久井城の中では最も高く、良好な状態で残る土塁です。

赤色立体図で見てもクッキリと本城曲輪のL字形の土塁が確認できます。

本城曲輪の土塁の上には築井古城記碑が建てられています。

城址跡にはよく石碑が建てられていますが、築井古城記碑に関しては江戸時代後期に建てられた石碑です。


碑文には津久井城の沿革や地形、城主だった内藤氏の系譜の一説が記されています。


内藤氏の家臣、島崎氏の末裔の方によって1816年頃に建立されました。


記碑は相模原市の有形文化財に指定されています。

本城曲輪の土塁上から見た米曲輪。

米曲輪から本城曲輪に入る通路で、発掘調査で石積み階段や門跡が検出された場所はこの辺りでしょうか。

本城曲輪から米蔵方面へ移動。

米蔵の入口は草が生い茂って、あまり人が立ち入らない場所のようです。

米蔵。

草が多くてこの先は断念しました。この先は未整備エリアの上、赤色立体図で見ても切岸になっているようなので、危険エリアです。


米蔵の入口には、米蔵から先は危険な為 立入禁止の注意書きもあります。

赤色立体図では米曲輪には横堀のような窪みを見てとれるのですが、草が多すぎて確認できず。

米蔵から引き返して城郭西側から最高のロケーションを楽しみます。


津久井湖が美しい!

ダムが建設されるまでは、城山に沿って蛇行するように相模川が流れていました。


相模湖対岸の山の尾根沿いには高尾山があり、北条氏の重要拠点となる八王子城があります。

津久井城は天正18年 豊臣秀吉による小田原征伐で、徳川家康の軍となる本多忠勝や鳥居元忠らの軍勢に攻め落とされて、そのまま廃城になりました。


徳川軍12000の兵力に対して、津久井城は城主の内藤氏も含めて主力は小田原におり、一説には150人の軍勢で守備したとも伝わります。


そんな深い歴史を感じながら、美しい山々と相模湖の景色をテイスティング。

米曲輪から見た西側の本城曲輪。

主郭部を楽しんだ後は、最後に太鼓曲輪下にある家老屋敷跡に向かいます。

太鼓曲輪下に家老屋敷跡への入口があります。

右側が太鼓曲輪の切岸。所々に岩盤が剥き出しになっています。

家老屋敷跡。

実際に屋敷が建てれるほど大きな曲輪だとは感じませんでした。


しかし、太鼓曲輪の直下に城郭南側へ突き出した曲輪なので、太鼓曲輪と同様に守りの要と考えれば、家老などの重要な人物がこの場所を守る役割があったようにも考えられます。

家老屋敷跡から見た太鼓曲輪。

正面の切岸の上部が太鼓曲輪です。


気になったのは家老屋敷跡の切岸の下には多くの石材が散乱していました。石積みが崩落したような散乱の仕方だったので、この辺りには石が積まれていたのではないかと推測します。


山の至る所に岩盤があるので、石はこの山から採集することは可能だったはずです。

帰りは車坂(男坂)から根本登山道を選択。


根本登山道には津久井城址碑が建てられています。

この城址碑のあたりにも山頂から伸びた竪堀があります。


根本登山道→車坂が当時の正規ルートだったのでしょうか。

根本登山道の入口付近。

登城時に選択した城坂ルートよりも、こちらの方が城らしい登城路のように感じました。


入口付近となる左側には平場があります。

この平場からは登城路を含めた三方向を見渡すことができるので、何となく当時はこの平場の脇を通過して、城内に入っていたのではないかと考えられます。

根本登山道の入口。

根本登山道付近から見た城山。

この辺りから見る城山の山頂部は、津久井城の本城曲輪あたり。


城山自体が急な斜面の形状をしています。

見た目はどこにでもあるような普通の山ですが、山全体が軍事要塞化された恐るべき山。

帰りにダムの近くにある津久井湖観光センターにて御城印を買いに行きました。


津久井城も素晴らしいのですが、様々な角度から美しいロケーションを楽しむことができるのもポイント。

津久井湖観光センター側は相模原市登録天然記念物でもある、城山の御林「江川ヒノキ」を見ることができます。


この山林は江戸時代末期に、江戸幕府が直轄して財源化を図り植林されました。山林は現在に至るまで大切に守られてきました。

江川ヒノキの山林のあたりには橋があり、橋の下には「とばぼり」と呼ばれる巨大な竪堀が出現します。


あまりの大規模で美しい堀の形状に、最初は目を疑いました。

この竪堀を掘るとしたら、かなりの土木工事量です。自然地形も活かして掘られたのでしょうか。

竪堀は山頂の本城曲輪あたりから、この山麓部まで伸びています。


つくづく、津久井城はもっとメジャーになるべき城跡だと感じます。綺麗に整備されているし、想像していたよりも遥かに多くの遺構が残っています。

写真のように竪堀には橋が架けられています。

先ほどの写真はこの橋から撮影しました。


とばぼり周辺は木が生えていないので、綺麗な堀の形状が確認できますが、生い茂った森の中にはこのような竪堀が山全体に造られています。

総括としては、

尾根の直線上に曲輪を配しており、構造的にはシンプルで東と西の直線距離も短く、コンパクトな城域。


しかし、豊臣軍が攻めてくることを想定して城の改修をしたのであれば、このコンパクトさは納得です。


実際に主力部隊は小田原に行ったことで、少数で守備したという歴史を考えても、その事態は想定して改修されたのではないかと思います。


幾つも曲輪を造成して、城を巨大化すればするほど、守りの兵力が必要になります。


少数で守るために、竪堀や堀切で攻めてくる方向を限定し、コンパクトにすることで少数での守り易さを考慮したのではないかと考えられます。


良い意味で山城の基本を押さえた、周っていて理解のしやすい城でした。

山麓の居館エリアも考慮すると城郭範囲は広め。


最後に津久井湖観光センターで御城印を購入し、目の前のバス停から橋本駅まで移動して帰路につきました。


帰ってから改めて津久井城について調べると、今回は回避した女坂ルートには畝状竪堀群、小倉登山道には良好に残る竪堀が見れるようです。


まだ草が多い時期だったので、次は冬に合わせて再登城したいと思います。

2026年10月3日


本日は茨城県の続日本100名城の土浦城に初訪城です。


土浦城は築城年代は明確ではありませんが、室町時代頃に築城され、戦国期には小田氏と佐竹氏による戦いの舞台になりました。


江戸時代には土浦藩の本拠となり、土屋家の時代には9万5千石を領していました。

これは常陸国では水戸徳川家に継ぐ藩領規模でした。


現在は土浦城跡及び櫓門として、土浦市の指定史跡になっており、亀城公園として整備されています。

都内からJR常磐線に乗り11時半頃に土浦駅に到着。

土浦の地を踏むのは10年ぶりくらいでしょうか。


当時、営業の仕事をしていた時以来となります。

駅から歩いて15分〜20分ほどで亀城公園に到着しました。


公園の北側入口から入ると、すぐに本丸です。

本丸の周囲には水堀があり、城郭の雰囲気を感じます。

当時の縄張り図。

上沼と川を巧みに活かし、堀を何重にも巡らせた平城で、中心地が本丸です。

こちらが現在の遺構。

本丸と、本丸を囲む水堀、そして二の丸が公園として整備されています。


その他は市街地化によって失われています。

本丸の裏門となる霞門と東櫓。

橋を渡ると小さな枡形空間を形成しています。

霞門は1684年の松平信興の時代に造られた現存建築です。脇の石垣と土塀は近年造られたものになります。


霞門を抜けると本丸になります。

本丸から見た霞門と東櫓。

霞門は薬医門形式で桟瓦葺き。


東櫓は1998年に復元されました。

現在は広場となっている本丸跡は、藩の政務の中心として御殿が並んでいました。


明治17年まで本丸御殿も現存していましたが、東櫓と共に明治17年に火災で焼失しました。

本丸の周囲は土塁によって高くなっています。

東櫓も土造りの櫓台の上に建ちます。

東櫓の内部は資料館となっています。

櫓内部に入るには料金がかかりますが、土浦市立博物館との共通チケットです。


御城印の販売や続日本100名城スタンプは東櫓内部、博物館で入手することができます。

内部は伝統工法によって木造で復元しています。

二重二階の櫓ですが、梁の大きさや軸組が、櫓とは思えないほどしっかりしています。

東櫓の2階。

展示室にある古写真。

東櫓は明治の火災で焼失しましたが、1998年に木造復元されました。


西櫓については、後ほど記述します。

東櫓から見た東側。

内堀の対岸は遊具のある公園になっており、当時は二の丸でした。

2階から見た北側。左側には霞門が見えます。

棟瓦と降り棟瓦は漆喰でがつめられて白くなっています。

2階の小屋組みはとても複雑に造られており、横架材を幾つもの肘木のような部材で支えています。

本丸の西側に建つ西櫓。

本丸は約90m×50mの楕円形状。

近世城郭の本丸としてはコンパクトです。

後ほど行く博物館の模型。

本丸はまるで亀のように水に浮かんでいるようです。手前の二重櫓が東櫓で、奥の二重櫓が西櫓です。

西櫓は焼失を免れ、戦後も現存していましたが、昭和24年に老朽化と台風によって破損したことで、昭和25年に復元を前提として解体保存されました。


しかし、その後復元されることがなく長い時が過ぎることになります。

長きに渡り土塁の上には、西櫓の礎石のみが残っていましたが、平成2年についに復元されました。

本丸南側に位置する櫓門形式の太鼓櫓門。

江戸時代前期となる1656年に改築されたもので、とても貴重な城門です。


櫓門としては、関東で唯一の現存建築です。

江戸城の清水門や田安門は?と思ったのですが、江戸城は厳密には渡櫓門の部類になるのでしょうか。

鬼瓦の家紋には、土屋氏の家紋。

土屋氏は一時 転封がありましたが、通算で200年間土浦城主を務めました。


土屋氏は清和源氏の流れを汲んでおり、先祖は足利氏とされています。一色、秋山、金丸と名を変えた後に、武田信玄の名によって土屋氏を名乗るようになりました。


武田氏が滅亡すると、徳川家康に取り立てられ1669年に土浦城主となりました。

2階の櫓内には、東櫓の内部に展示されていた大太鼓が置いてあり、時を知らせていました。

全国に多くの城門が残っていますが、江戸初期の城門は貴重です。


梁の小口には飾り金具も使われており、石落としや狭間が無いことを考えると、防御的な機能よりも格式を重視した門のように思えます。

美しいフォルム。

桁行三間・梁間二間なので、横5.5m・奥行3.7mくらい。

屋根瓦は霞門とは異なり、本瓦葺き。

茨城県指定文化財の太鼓櫓門は、昭和61年に解体修理が行われました。


東櫓、西櫓と共に東日本大震災で被害を受けましたが、修復工事が行われました。

西側の内堀と二の丸の土塁。

同じく西側の内堀と本丸土塁。

内堀と西櫓。

木がかなりベストポジションに生えている為、櫓は綺麗に見えません。

亀城公園の西側には土浦市立博物館があります。

土浦城や、城主だった土屋氏についてなど、貴重な資料や遺物が展示されているので、土浦城に来たらセットで周るのがベストです。

2階展示室前のバルコニーには太鼓櫓門の礎石があります。

アートの一つとして展示されています。

鬼瓦も置かれています。

2階吹抜けの前からは西櫓が見えます!

ここから撮影した西櫓が、一番美しいショットでした。

博物館内にある土浦城の模型。

土浦城は市街地化しているので、この模型の光景を頭に叩き込んでから、後ほど街に埋もれた遺構の跡地を歩きます。

模型で見てみると、船着場と一体化した枡形の門もあります。


荒川沖が近いので物資は船で直接城内に輸送していたのでしょうか。

海城でよく見る造りをしています。

本丸の模型。

手前の橋の先にある城門が太鼓櫓門。

博物館を観覧した後は、土浦城外郭に設けられていた、東西南北の城門跡を巡ります。

まずは西門跡を目指す途中にあるのが神龍寺。

土浦市立博物館の裏手にあたります。


博物館は当時の土浦城三の丸あたりなので、主郭部に近い神龍寺は、城の一部のような位置に建立されたことになります。

神龍寺の創建は天文元年(1532)、即庵宗覚の弟子で雪田真良和尚を招いて土浦城主菅谷政貞が開山したと伝えられています。

 江戸時代に土浦藩主土屋家の歴代の菩提寺となっています。


本堂の棟飾や鬼瓦など、凄い迫力があります。

神龍寺の中門に当たる唐門。

山門と結界石。

神龍寺の近くには西門跡があります。

今は普通の道路ですが、当時は堀と土塁によって防備され、城郭西側の入口となっていました。

西門跡から南門跡へと移動する途中には、土浦藩校だった郁文館の正門が残ります。

郁文館は土浦藩主 土屋英直によって1779年に創設された藩校で、土浦城内に設置されました。

1839年に現在の地に移転されました。

明治以降は新治師範学校や茨城師範学校土浦分校などに引き継がれ、現在は土浦第一中学校になっています。

目の前に歩道橋があり、上から郁文館正門を撮りました。

目の前の道の先が西門跡に繋がります。

さらに歩道橋からのショット。

このように土浦城の痕跡は、街と同化しています。

東櫓や博物館にて無料で手に取ることができる土浦古絵図。このポケットサイズのパンフレットは最強です。


現在の地図と江戸時代の縄張りが分かりやすくリンクして描かれています。

このパンフレットがあれば、今は無き土浦城の姿を想像しながら歩くことができます。

続いて向かったのが、桜町四丁目バス停の近くにある普通の交差点。


この場所は南門跡で、高架下の24号線には川が流れていました。

道の反対側まで簀子橋が架けられており、対岸のファミリーマートあたりには枡形が造られていました。

枡形は城門の前の橋に造られた防衛施設なので、形式的には角馬出です。

パンフレットだとこのように分かりやすく記載されています。

絵図の通りクランクした喰違いの道は、現在もそのまま残っています。

土浦城近辺は住宅が立ち並んでおり城の痕跡は残っていませんが、不自然にクランクした道などが多く残っています。


絵図と比較しながら歩くと、何気ない普通の道は遺構に変わります。

南門跡の脇にあるのが東光寺。

土浦城の南東にあたる場所に位置したお寺です。

この東光寺には南門の土塁の一部が残っています。

建物の隙間から少しだけ見ることができました。

東光寺に沿って大手門跡へ向かいます。

写真は大手門入口。

土浦小学校の前には大手門跡があります。

大手門跡も何気ない普通の街並みです。

大手門は内枡形になっており、二層の櫓門が建っていたようです。

大手門の近くには旧水戸街道があり、この通りには蔵や老舗が多く立ち並んで、歴史を感じる美しい通りになっています。


江戸時代は宿場町でもあり、商業の中心地として発展しました。

水戸街道にある「土浦まちかど蔵 大徳」

江戸時代後期の呉服店を改装した蔵で、お土産など販売しており、観光案内所でもあります。

ワタクシもこちらで、土浦名物レンコンの漬物と醤油を購入しました。


レンタサイクルもあるので、自転車で土浦城近辺を周っても楽しめると思います。

続日本100名城スタンプや御城印も販売しています。

土浦まちかど蔵 大徳の前には琴平神社があります。


江戸時代後期に土浦で活躍した町人・地理学者・天文学者である沼尻墨僊が寺子屋を開き、庶民教育の場とした歴史があります。

琴平神社の細路地を抜けて搦手門跡に向かいます。

車も通れないエモーショナルな細路地です。

琴平神社から細路地を抜けて右側には搦手門跡があります。

搦手門跡も普通の道になっています。

城のメイン入口となる大手門があり、反対の方角に搦手門を設けるのが普通ですが、土浦城は大手門と搦手門が並んで造られた不思議な造りをしています。

搦手門跡の近くには歴史の小径と称される石畳の散策路があります。


この道を進むと城郭東側の二の丸に繋がります。

二の丸入口には土浦市指定文化財の旧前川口門があります。

この門は武家屋敷だった多計郭と城下を仕切る前川口門だったと伝わり、明治18年に役場の門として、大正8年に等覚寺の山門として移築され、昭和56年にニ之門があったこの地に再移築されました。

旧前川口門は高麗門形式で、江戸時代の末期に造られた門として伝わります。


何度か移築されていく中で、多少改変はあったかもしれませんが、貴重な現存の門です。

前川口門から二の丸跡に入ります。

二の丸は広場と遊具のある公園になっており、地域の憩いの場になっています。

二の丸も本丸同様に土塁で囲んでいます。

二の丸から見た東側の内堀。

左側が二の丸、右側が本丸。

二の丸から本丸を仕切る門が太鼓櫓門です。

ここまで広範囲を歩いて戻ってきました。

二の丸から見た東櫓。

東櫓は他の城と比べても、二重櫓の中では規模が大きいように感じます。

どのアングルから見ても木が多いのが気になりますが、城としての雰囲気を存分に味わうことができます。

亀城公園から歩いて数分。北門跡に移動しました。

これで土浦城外郭の東西南北4つの門を攻略です。


その中でもこの北門跡は特殊な構造をしていました。

1603年に門の前に馬出が築かれ、1688年に改修されてS字の珍しい馬出となりました。


北門は水戸街道の北側入口に位置しています。

土浦城は主要街道を城内に取り込んだ設計。

振り返って橋から見た北門跡。

橋の下には新川が流れています。

新川は土浦城の濠を活かして造られ新しい水路です。

春には新川と桜のコントラストを楽しめます。


土浦城の整備範囲は亀城公園のみなので、かなりコンパクトではありますが、絵図に習って遺構の解説板などが街中に設置されているので、市の前向きな取り組みを感じることができます。


歴史のある街並みも雰囲気も良いので、各々の楽しみ方を見つけて頂きたいと思います。


茨城の城はまだ2城目なので、これからさらに攻略していきます。


土浦駅前の天ぷら八起さんで遅めのランチ。

入店は15時頃。3時間半ほど歩き続けましたので、ビールが身体に染み渡ります。

上天丼を頂きました。

米量も多く食べ応えがあって、1400円というコスパの良さ。

お店が広いのもポイントです。

土浦駅前にあり、一品料理など居酒屋メニューも多く、通し営業なので土浦城を堪能した後にオススメです。