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つぶやき城ー。訪城記録

まだまだ初心者の、城をどこまでも愛する男。

旅のついでに行った城が、今では城に行くための旅が何よりの楽しみ。

一つとして同じ城はなく、全ての城に歴史と個性がある。

見る角度、見る季節、見る天気によって表情が変わるその姿に恋をした。

2026年3月29日

 

九州遠征4日目 4城目は宮崎県の佐土原城に初訪城です。

飫肥城からは車で1時間程度で到着できます。ハードなスケジュールを組みましたが、予定通り攻略できそうです。


佐土原城は国指定史跡で、続日本100名城です。

今回の旅で何とか攻略しておきたい城でした。

 

到着は15時頃で、無料駐車場に停めて攻城開始です。

まず、駐車場の前には二の丸跡があります。

二の丸跡には鶴松館(かくしょうかん)という、書院造りの二の丸御殿が復元されています。

鶴松館の館内は佐土原歴史資料館となっています。

二の丸御殿は政庁として機能しており、城主の居住空間でもあった為、佐土原城の実質的な本丸だったとされています。

門の前から駐車場を撮影。

階段下には水堀が巡らせており、発掘調査で堀跡が確認されています。

復元された二の丸門と土塀。

 

復元された二の丸御殿の鶴松館。

外観は二条城をモデルに造られました。

鶴松館のスタッフさんに丁寧に館内を案内して頂き、佐土原城や島津氏についてなど、九州における歴史を頭に詰め込むことができました。

 

特に島津氏の歴史については大変勉強になりました。時間もあまり無かったので、計画では二の丸御殿での観覧は早めに終わらせて、背後の山城に行く予定でしたが、話が非常に面白くて1時間以上話を聞きました。

 

本日攻城した鹿児島城、志布志城、飫肥城も含めてスタッフさんの話を聞いたことで、点と点が線につながりました。

御殿内部。

明治維新後の明治2年に佐土原城を廃城にして、新たに広瀬に陣屋を移したことで、建物は破却されました。


しかし、明治4年の廃城令によって未完成のまま陣屋も取り壊されましたことで、佐土原には建物が何も残っていないとお話を頂きました。

この大広間は写真撮影可でしたが、その先は展示品がある為、写真撮影不可でした。

 

展示室では西南戦争や島津氏についての貴重な資料を見ることができました。また、佐土原城の発掘調査や出土品についても説明して頂きました。

 

館内は無料でスタッフさんの解説付き。

贅沢なほど充実した内容と時間を過ごせました。

鶴松館の開館日は土日祝のみですが、山城に登る前に立ち寄ることをオススメします。

佐土原城も文章だけでは説明が難しいので、簡単なスケッチを書きました。

赤い道は立入禁止となっている道です。


登城路にも案内板に地図が貼ってあるので迷うことなく進むことができます。

時間は予定よりも押してしまいましたが、大手道より佐土原城の山城に向かいます。

佐土原城は南北朝時代に田島氏によって築城されたと考えられています。

その後、日向一帯に勢力を誇った伊東氏の所領となった後、島津家久が領主となります。

 

1603年に島津似久が佐土原藩初代藩主となり、1611年に大改修をしました。

現在の佐土原城の原型はこの時に構築され、山城と麓に居館エリアを配置する城郭となりました。

大手道に入ると二の丸御殿があった居館エリアとは、テイストが一変して山城の雰囲気を漂わせます。

志布志城に続いて、佐土原城でもダイナミックな切通を見ることができます。

垂直に削り落とした高さのある切通。

佐土原城も3万年前の巨大噴火で噴出した火砕流堆積物で作られたシラス台地です。

 

深い堀や切通は、シラス台地に造られた城特有のスタイル。

高さがある上に、狭く圧迫感のある切通を突き進みます。

急な坂を登りますが、地面は整備されているので登りやすいです。

この切通が長いこと続きます。

大手道の登城路。

佐土原城は慶長期に改修されていますが、山城部分は基本的に戦国期の城をそのまま生かしているように感じます。

登城路の至る箇所がブルーシートで保護されています。斜面が崩れてしまっているようです。

洞窟が至る所に掘られています。志布志城でも同じく洞窟が多く掘られていました。

 

後世に掘られた穴なのでしょうか。すごく気になります。

尾根を分断した堀切。

この堀切の下を通り抜けて、さらに本丸方面へと進みます。

大手道は途中で通行止めになっており、迂回ルートが整備されています。

応急で階段が設置されています。

佐土原城では平成30年と令和4年の台風によって、大規模な崩落と倒木の被害にあいました。

迂回路の階段を降りると、再び堀切があります。

こちらは、解説板もあるので分かりやすいと思います。

高さ5〜6mほどで、大手道を回避して最短ルートで攻めてくる敵を遮断する目的で造られたと考えられます。

 

佐土原城の地形形状を見ると、ここに堀切を設けた理由が何となく分かります。

振り返っての堀切。

この堀切を抜けると南の城に行くための分岐路がありますが、土砂崩れによって南の城とその先の松尾丸は立入禁止となっています。

 

江戸時代には南の城には御殿があり、松尾丸には櫓が建っていたそうです。

堀切付近にも洞窟があります。

本丸下に配置された曲輪。

こちらも立入禁止によって直進はできないので曲輪内を通過します。

赤色立体地図で確認すると、直進した先にも堀切らしきものがありました。

この曲輪には特に解説板も無かったので、何があった曲輪なのかは不明ですが、本丸の下にある曲輪なので、兵を駐屯するための施設だったのでしょうか。

曲輪の細い脇道を下ると、ついに本丸が目の前です。

急な階段を登れば本丸です。

この階段は最近になって設置されたようです。

本丸の枡形虎口。

ここまで様々な防御の仕掛けがありましたが、この本丸虎口が最後の防御ラインとなります。

上から見た枡形部。

90°折れ曲がり本丸となります。

枡形は土塁で高くなっており、おそらく門も設置されていたと思われます。

本丸は標高72mで広い曲輪となっています。

掘り下げた道で曲輪を分割して使用されていたようです。

1611年に大改修をされ、江戸時代の初期までは本丸も使われていたようですが、1625年には本丸を含めた山城は廃城になったそうです。

本丸から見た天守台方面。

尾根が突き出した奥に天守台があります。

本丸と天守台がある曲輪は段差になっています。

何となく斜面の下が窪んでいるので、空堀があったのでしょうか。

大手道 枡形虎口の反対側には、天守台があります。

佐土原城を描いたとされる屏風には天守の姿がありましたが、二ノ丸と思わしき場所に天守が描かれており、天守は本丸にあるという常識と、南九州には天守がある城は無いという常識から、信憑性に欠けると言われてきました。

 

しかし1996年の発掘調査で天守台が発見されました。

さらに金箔瓦や鯱の一部が発見されたことで、佐土原城には天守があったと判明しました。


天守の築城については九州平定を果たした豊臣期か、徳川期か判明はしていませんが、個人的には金箔瓦が発見されていることを考えると、天守は豊臣期に造られたなのかなと思います。

鶴松館のスタッフさんに教えて頂いたのは、江戸幕府に提出した絵図には天守は描かれていなかったが、藩の絵図には天守が描かれていました。


意図的に違う絵図を提出した可能性があると聞きました。わざわざ絵図のプリントまで見せて説明して頂きました。


佐土原城は「日本最南端の天守があった城」です。

発掘調査では根石を含めた縦2列の石垣が発見されています。

天守台から見た本丸方面。

かなり低くめですが、周囲には土塁も確認できました。

長い年月の中で低くなった可能性があります。

天守台の脇には麓の二の丸御殿に繋がる中の道があります。

長い階段を降りると堀切がありました。

佐土原城には大手道と中の道の2つが主なルートとしてあります。帰りは中の道から下山します。

中の道と同じく細い山道が続きます!

中の道の中間くらいにコンパクトな曲輪があり、東家があります。

用途は不明ですが、中の道の登城路を見下ろすことができるので、防御的な施設だったのでしょうか。

東屋の脇道を通ってさらに下山。

中の道にも切通が健在!

大地を見事なほど垂直に削り落としており、上から狙われているような感覚に陥ります。

切通に開けられた穴。

解説板があり、これは門がこの場所にあった痕跡です。

この高さの切通に門があったと考えると、突破は容易ではないと思われます。

中の道の麓までは切通の道が続きます。

麓に到着すると平坦な道を進むことになります。

大手道からスタートして、中の道から下山すれば山城をスムーズに1周することができます。

麓の平地部。

この辺りにも曲輪の跡なんでしょうか。

山に沿って水が流れており、堀のように削られています。後世に掘られたものか、自然地形かは謎ですが一応写真に納めました。

蔵のような建物は出土文化財管理センター。

この場所には御普請所があり、藩内の土木工事を管理する重要な場所でした。


発掘調査で大きな建物があったことが判明しています。

出土文化財管理センターの前にあるのが、反米役職跡。

そして、登城した二の丸御殿及び大手道の登城口に戻ってきました。

二の丸御殿の前に広がる平地は御馬繋馬役職跡と書いていましたが、何をしていた場所かは分からず。


山城に関してはおおよそ1時間少々で周り切りました。立入禁止エリアも多かった為、そこまで時間を要しませんでした。


迂回ルートができるまでは、本丸にも行けなかったようなので、本丸だけでも行けるように整備して頂き感謝です。


佐土原藩は島津家の分家であり、日向国那珂郡・児湯郡内で3万石で独立。

幕末まで11代続きました。戊辰戦争では本家の薩摩藩と一緒に新政府軍として戦いました。


佐土原城の築城年は1350年頃、田島氏によって築かれた長い歴史を刻んだ貴重な城です。

現在は災害で傷を負っていますが、いつか復活することを願っています。


佐土原城を無事に攻略して本日は終了です。朝7時から、お店で食事する時間も削ってストイックに4城を攻めました。


今日は宮崎県の延岡市のホテルに宿泊です。

2026年3月29日

 

九州遠征4日目 3城目は宮崎県の飫肥城に移動です。

志布志城からは車で下道を走って1時間ほどで到着できます。

 

飫肥城といえば伊東氏と島津氏が争った城として有名です。

また、飫肥城下町は伝統的な町並みとして、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

九州の小京都とも称されています。

 

飫肥城に到着するまでは山道が多く、本当に九州の小京都と呼ばれるような場所があるのか不安になりました。

 

しかし、飫肥城一帯の城下町に到着すると多くの観光客がいて雰囲気が一変します。

 

無料の専用駐車場に停めて、ストレートに飫肥城を目指します。


飫肥城は江戸時代に伊東氏5万1千石の居城で、島津氏との争奪戦が展開された城です。

1588年以降は伊東氏が幕末まで統治しました。

飫肥城の大手門に続く、大手門通り。

飫肥城の始まりは南北朝時代と伝わりますが、現在は江戸時代の風情ある街並みが残っています。

そして飫肥城の主郭の入口となっている大手門。

 

廃城令によって明治に大手門は取り壊されましたが、昭和53年に新たに造られました。

大手門の前に設置された石垣で補強された土橋。

 

大手門は樹齢100年の飫肥杉を使用しており、江戸時代の姿ではなく現存している他の城を参考にデザインされました。

白漆喰の櫓門で高さは12.3m。飫肥城のシンボルとなっています。

大手門前の橋から見た空堀。

武家屋敷通りに沿って堀が巡らせており、門脇は石垣が積まれています。

門脇以外は土造りが主体となっています。

土橋から反対側も撮影。

左側が豫章館。城郭南側はこの空堀を巡らせて防備しています。

大手門から入城します。

大手門脇の石垣。

隙間なく積まれた切込接、そして多角形に加工された亀甲積み。隅の算木積みも台形型に整えられています。

大手門脇に置かれた礎石。

追手御門臺石垣御門修復と書かれており、現在の大手門を復元工事中に発見されました。

 

江戸時代の1713年に城門は修復されており、関わった大工や奉行などの名が刻まれています。

まさに未来へのメッセージです。

大手門の枡形。

大手門を通過した敵は、枡形のこの空間で集中砲火を受けます。

面白いのが階段を登ると、更にもう一つの枡形空間になっている点。

枡形の一部が仕切りのようになっており、この個所だけ階段が極度に狭まり大群を阻む設計になっています。

仕切りを裏側からも見ます。

土塀が復元されていることで、枡形の雰囲気が一気に変わります。

土塀の控柱は石材で造られており、石に穴を開けて控を繋いでいます。

桜も綺麗に咲いて、白漆喰とのコントラストが良き。

枡形の階段で確認できる石垣と土塀の折れ。

意図的に鋭角にしているように思えます。

攻撃の死角を減らすためか、その他の理由があるのかは不明ですが、この枡形一帯は技巧的にも感じます。

大手門の階段を上がると土塀と石垣が行く手を阻み、T字になります。

石垣の上には旧中の丸、新本丸があります。

大手門脇西側の土塁。

高さが約4mで、飫肥城にとって貴重な遺構となります。

大手門脇西側の土塁の前にも枡形の門跡があります。この門跡の先には新本丸があります。


右側は新本丸で左側は松尾丸。下部は石垣が積まれており、上部は土造りとなっています。

高低差があり、こちらの門跡は圧迫感があります。

門跡と新本丸石垣。

石垣の色が異なるので、土塀の復元の際に石垣も積み直しなどの修復があったのでしょうか。

新本丸に向かうもう一つの門跡。

石垣の小口は台形になっており、珍しいので撮影しました。

新本丸の南東にある隅櫓の石垣。

新本丸の中で、隅櫓の石垣だけが張り出しており、当時は二重櫓があがっていました。


現在は飫肥城の鐘が移築されています。

石垣の中には落し積みのように長方形の石材を斜めに積んでいます。

犬ノ馬場の土塁。

こちらも高い土塁となっており、大手門脇に見た空堀はこの土塁です。

正面の門から新本丸跡に入城します。

階段から振り返っての一枚。

間口が狭く石垣で囲まれた空間。

奥には二重櫓の隅櫓石垣もよく見えます。

新本丸跡は現在小学校になっています。

 

築城当初は山の上に本丸がありましたが、度重なる地震で地割れが発生したことで、当初は中の丸と呼ばれた曲輪に御殿が移されました。


後に、現在の小学校の場所が本丸となりました。

新本丸には飫肥城歴史資料館があります。唐門の城郭建築物風が特徴です。


内部では甲冑や刀などの展示、飫肥城の歴史について学ぶことができます。

飫肥城歴史資料館の脇から松尾丸へと向かいます。

急な階段の途中には先ほど下から見た桝形の虎口を見ることができます。

松尾丸には御殿が造られています。

花が綺麗に咲いており、素敵な写真を撮ることができました。

江戸時代当時の建物の記録が残っていない為、京都二条城など江戸時代初期の御殿を参考に設計され、昭和54年に建てられました。

松尾丸から見た桝形の虎口。

虎口を見下ろすこの曲輪構成を見ると、松尾丸には防御施設があったのかなと感じます。


本丸御殿があった新本丸が小学校になっているので、昭和の建築工事の際にこの地に建てたと思われますが、何となく違和感を感じました。


松尾丸と向かい合うように旧本丸があるので、松尾丸の階段を下りて新本丸に向かいます。

旧本丸も高低差がある山の上にあり、土造りです。

松尾丸と旧本丸は中世戦国時代の縄張りを生かした曲輪と考えられます。

新本丸を仕切る堀切。戦国の城らしさを味わえる貴重な遺構です。

左側が旧本丸で右側が小学校なので堀底に行くことはできないのですが、高さもある堀切です。

旧本丸も門跡には石垣が積まれています。

旧本丸も門跡周りは石垣で、基本は土造り。

坂になっている階段に現れる門跡。

苔に覆われた風情のある門跡になっています。

礎石も残っています。

コンパクトですが枡形になっており、戦国山城から近世城郭に変化させた様子を見ることができます。

上から見た枡形の門跡。

元は城の中心だったので、堅固な造りとなっています。

旧本丸は現在、樹齢140年以上の飫肥杉が立ち並んでおり、生命がみなぎるパワースポットです。

旧本丸全体が苔の絨毯になっています。

旧本丸は時が止まったように静かな空間。

低めではありますが、旧本丸の曲輪の周囲には土塁を見ることができます。

旧本丸の入口で見た新本丸との堀切。

このあたりは完全に戦国期の城です。

旧本丸と西ノ丸の堀切。

草木によって写真はうまく撮影ができなかったのですが、かなり深い堀切になっており、旧本丸西側の全体をエグるように掘られています。


さらに南側は酒谷川が流れており天然の要害で守られています。


現在は穏やかで趣ある旧本丸ですが、軍事施設という城の本質を見ることができるので、是非注目して頂きたいスポット。

旧本丸には門と塀が復元されています。

薬医門形式で旧本丸の北側に位置しています。

解説板やネット見ても詳細が全くないため謎の門。

しかし本瓦葺きで城門らしさと風格を感じます。

旧本丸の堀切がどうしても気になり、外側から見に行きました。

裏門の階段を下りて、一般道を歩いてみます。

右側の森は旧本丸と新本丸。

目の前はグラウンドになっていますが、当初はこのグラウンドも城の一部でした。


道路側から堀切を見ましたが、草木が多くて綺麗には見えませんでした。

何となく堀切の形状がうっすら見えます。

新本丸の土塁。

切り落としたように、急勾配な土の壁が続きます。


飫肥城は伊東氏と島津氏が争奪戦を繰り返して100年以上も争った有名な城です。

なんとなく、北側はその片鱗が見える気がします。

右側が新本丸、左側が飫肥中学校。

道路は舗装され、中学校も当然整備するための工事がされていると思いますが、これは堀切もしくは深い空堀だったのでしょうか。


明らかに城郭の形状を残しているように感じます。

飫肥中学校の前の道路を進むと飫肥藩の旧藩校 振徳堂があります。

1831年に飫肥藩13代藩主 伊東祐相が学問所を増改築しました。

振徳堂では後に飫肥西郷と称された小倉処平や、日本外交の礎を築いた小村寿太郎を輩出しました。

八幡馬場通りから武家屋敷通りを目指します。

立派な石垣で囲まれた邸宅。

旧伊東伝左衛門の邸宅。

上級武士の家系で昭和34年まで子孫の方が所有していました。

大手門に続く道は、風情を感じる武家屋敷通り。

飫肥城下町は江戸時代初期の絵図に描かれた街路が、そのままの形で残っています。

武家屋敷通りにある小村寿太郎生家。

小村寿太郎はハーバード大学へ留学し、外務大臣に就任するなど、明治の外交官として活躍しました。

武家屋敷通りを大手門方面に向かうと、城郭南東隅の空堀を見ることができます。


この上にある曲輪が犬ノ馬場。

再び大手門通りに戻ってきましたので、大手門の前にある豫章館を観覧します。

豫章館の門。

豫章館は大手門の目の前に位置しており、格式ある薬医門が唯ならぬオーラを放っています。

豫章館は明治2年に、飫肥藩13代藩主 伊東祐相が飫肥城を出て移り住んだ館となります。


それまでは藩主一門の伊東主水家の屋敷でした。

明らかに御殿建築と思われる建築物。

幕末、明治の混乱の時期の移転だったので、時間と経費を補うために、城内の奥御殿より移築して改修されました。

明治の廃城令によって飫肥城の建築物は取り壊されたので、貴重な当時の遺構となります。

廃城令の前に移築したのが功を奏したことになります。

内部に入ることはできませんが、御殿建築としての名残を各所で見ることができます。


飫肥城下町には見どころスポットが多いのですが、城好きな方であれば豫章館はマストスポットです。

庭園。

豫章館は昭和57年に伊東家から市に寄贈されました。

館の裏には離れの御数寄屋があります。

道中の竹が見事!

御数寄屋では茶の湯や文芸の場として使われていたようです。

御数寄屋も素晴らしいのですが、城好きの方であれば豫章館の御数寄屋の脇から見える空堀は、見どころスポット。


御数寄屋がある場所が、ちょうど南西隅に位置していますので、城郭を仕切る空堀を見ることができます。

御数寄屋の脇に設けられた門。

ひっそりと佇んでいます。

この門の控柱が石なので、珍しいので写真におさめました。

城内の土塀の控柱も同様、石の控柱が多く多用されています。


ワタクシが周った城下町はほんの一部で、実際はもっともっと広いので、ゆっくり散策しながら楽しむことができると思います。


城下町も素敵なのですが、ワタクシはそれよりも気になるのがやはり旧本丸の堀切。

諦めが悪いワタクシは飫肥城の目の前を流れる酒谷川の対岸から堀切を確認しに行きます。

飫肥城はこの酒谷川に沿うように築城されているので、完全に天然の水堀となっています。


川沿いをひたすら歩いてみました。

Googleマップで旧本丸の位置を確認して歩くと、ちょうどこの位置に辿り着きました。


残念ながら木が多くて堀切の形を見ることができませんでした。

謎の平場は後ほど調べると西ノ丸ということが分かりました。


家に帰ってから調べると、西ノ丸には日南市の貯水槽がありましたが、貯水槽が無くなったことで立ち入りができるそうです。

貯水槽があったから木が生えておらず、曲輪の平場がよく見えたのですね。


しかも、反対側からは堀切の形もしっかり見えるようです。リサーチ不足で本当に悔しい思いです。

飫肥城は城下町を含めて観光スポットとなっており、むしろ飫肥城は日南市にとって観光スポットの一部という印象でした。


パンフレットも城下町と併せた内容で、飫肥城については、あまり詳しく書いていないのが少し残念。


ブログやサイトを見ながら、遺構を探して歩きましたが、やはり帰ってから見逃したポイントが幾つもあったことに気付き、全体的に悔いが残る結果となりました。


城下町があまりにも推されすぎて、城の情報が少ないので注意が必要です。

城自体はとても素晴らしく、中世城郭と近世城郭がミックスされています。

基本的には旧本丸、松尾丸、犬ノ馬場を観覧することができますが、実際の飫肥城は群郭式という、多くの曲輪が配された城郭でした。


今は形を変えてグラウンドや住宅になったりしていますが、所々に石垣などの遺構が残っているようなので、城の見どころは探せばもっと多くあります。


戦国の歴史が濃い城なので、次に行くことがあればもっと深掘りして周りたいと思います。

2026年3月29日

 

九州遠征3日目 2城目は鹿児島県志布志市志布志町の志布志城です。

インパクトが強い城です。

 

鹿児島城からは車で1時間30分ほど。予定通りに志布志市に到着しました。

志布志城は内城・松尾城・高城・新城の4つ山城の総称です。


その中で内城が主城となり、高城と新城は立入ができないと情報を得ていたので、今回は内城と松尾城を攻めることにしました。

 

志布志城を攻める上で、まずは埋蔵文化センターに行きパンフレットを入手して志布志城の模型を観覧します。

志布志城は巨大城郭なのでパンフレットは必須です。

模型はとても詳細に造られているので、攻める前に頭にイメージを叩き込みます。

模型を見るだけでも、ただならぬ城郭です。

この模型は4つの城の内の1つ、内城です。

 

続日本100名城のスタンプは埋蔵文化センターで押印することができます。

 

その後、JR志布志駅に行き駅構内にある総合観光案内所に行き、御城印を購入しました。

 

志布志城には麓に無料の駐車場があります。観光案内所の方にルートと駐車場を確認していたのでスムーズでした。

駐車場から歩いて数分ほどで松尾城の登城口に到着です。

民家の細い脇道を進むと早々にシラス台地を削った切通を見ることができます。

登城路を進んで早々に、山を切り裂いたような巨大な空堀が出現!

志布志城はこの土地特有のシラス台地に造られた城です。

シラス台地とは鹿児島県と宮崎県に広がる約3万年前の巨大噴火によって堆積した、火山灰や軽石でつくられた台地です。

垂直に削られており迫力ある空堀になっています。

松尾城は初期の志布志城の主城であったと考えられています。

松尾城は本丸までの道のみが整備されています。周りには曲輪のような平場や、堀が見受けられますが基本的には藪になっています。


しかし、曲輪と思われる平場は規模が小さいように思えました。

本丸までは歩いて約10分ほどで本丸に到着です。

尾根の上部に位置しており、本丸も小さな曲輪となっています。

そして小さな神社があります。

神社の裏には土塁が確認でき、この裏には堀切があるようです。

 

整備されているのは本丸までで、実際は連郭式に尾根上に曲輪が展開されているようです。

登城して来た道を戻り、今度はメインとなる内城に向かいます。

内城の登城口から見た松尾城。

内城と向かい合うように松尾城は位置しています。

内城も民家脇の通路から登城します。

内城には説明看板もあるので、松尾城よりも整備がされています。

登城口から見た内城。

内城は標高50m程で、外から見ると普通の山にしか見えませんが、森の中はとんでもない仕掛けが満載です!

文章だけで説明するのは難しい為、手書きのマップを書きました。

大手口から入城します。

大手口の民家脇を進むと松尾城と同様に、垂直に削られた切通の登城路が現れます。

ワタクシが見たこともない凄まじい山城の入口です!

南九州では白い砂を「しらす」と呼ぶことから、シラス台地と呼ばれるようになりました。

削った箇所は火山灰の白い地層が見えます。

入城してすぐに矢倉場と呼ばれる曲輪1があります。

この曲輪からは柱穴や杭跡が発掘調査によって発見されています。また中国産の磁器や陶器も出土しています。

矢倉場の先端部。

志布志城には各所に解説板とQRコードが設置されています。

QRを読み込むと360°ビューのCG映像を見ることができます。

映像には城を守る武装した城兵もいて、かなり緊張感があり面白いコンテンツでした!


矢倉場では縄文土器も発見されていることから、遺跡があった場所に築城したと考えられています。

城郭東側を見て周るには、矢倉場から階段をおります。

階段を下りるとT字路となり、大規模な空堀が現れます。

空堀の右方面は志布志小学校に繋がります。

T字路を左に進みます。

大迫力のスケールに誰もが圧倒されること間違いなし!これが序盤の序盤です!この先どんな遺構が待ち受けているのか・・・

城郭東側を空堀の中を進むと搦手口が出現。

搦手口の切通はさらに圧巻!

ワタクシは普段は関東をベースに活動しておりますが、関東ローム層で造られた土の城とはまた違ったテイストに、ボルテージが上がりっぱなしです。

ほぼ垂直に削られた台地は、高さ10m以上は余裕であります。写真に納まりきらないほどの高さ。

人工的に造られた遺構に神秘性すら感じます。


このスケールの城は、お目にかかることができません。鹿児島県に来たら志布志城は絶対に行って欲しい城!

一眼レフで撮影しつつ、動画も撮影して忙しなくも搦手口を堪能しました。


基本的に毎回一眼レフで撮影しており、写真整理と色彩を調整してから写真を上げているので、いつも城めぐりをした後は、膨大な時間を要するので大変なのです。


それでもやはり素晴らしい景色や遺構は、なるべく綺麗に残して魅力が伝わるようにと拘っています・・・

搦手口から引き続き東側の空堀を進みます。

美しい遺構に見惚れてしまいますが、敵なら絶対に攻めたくないなと終始考えてしまいます。

志布志城 内城の北側にはの大野久尾と呼ばれる曲輪6があります。

しかし、途中で草木が多くなったので断念しました。

続いて曲輪5にあたる中野久尾に向かいます。

中野久尾曲輪5と曲輪4を分断する堀切。

中野久尾は堀切で分断されており、曲輪5上段・下段と曲輪4上段・下段で分かれています。

写真の下の道は曲輪4と曲輪5を分断する堀切。左側は曲輪5(中野久尾)に向かうための通路。

曲輪5(中野久尾)の虎口。

細い通路でぐるりと周り込んでいるため、敵の侵攻を阻んでいます。

削られた地形を周り込むため先が見えず、攻める側としては恐怖しかありません。

振り返っての一枚。

大勢で攻めても一人しか通れないような細い道の先には、この圧迫感のある切通の虎口となります。

虎口は90°折れ曲がり、ちょっとした枡形のようなスペースとなっています。

右側は曲輪で左側は土塁。

曲輪5の中野久尾は広めの曲輪になっています。

曲輪の周囲には土塁をめぐらせています。


続いて堀切に戻って城郭西側に移動します。

曲輪4と曲輪5の堀底を歩いて西側に出るとT字路になっており、志布志城の見どころ、西側の大空堀を見ることができます!

写真は本丸方面の大空堀。

大野久尾方面の西側大空堀。

こちらの道を進んでみました。

左側が大野久尾(曲輪6)、右側が中野久尾(曲輪5)を分断する堀切。


途中まで進みましたが、やはりこちらは草が多かったので、大空堀を通って本丸方面に向かいます。

やはり西側の大空堀は圧巻です。高さ10m以上の垂直に切り立った空堀。城郭西側は、このスケール大空堀で守られています。

中野久尾(曲輪4)と本丸の堀切。

堀底を歩いて東側から西側に再び移動。

堀の中間くらいは盛り上がっており、スムーズには進めないようになっています。

堀底と曲輪までの高低差が凄まじく、本丸と曲輪4の両方から狙われたら一貫の終わりです。

再び城郭東側の搦手口付近に戻ってきました。

東側から本丸に向かいます。

本丸には登山道のような狭く勾配のある道を進みます。

いよいよ本丸跡に到着です。

志布志城は1336年には存在していたと記録が残っています。


1336年は鎌倉時代が終わり、南北朝時代に突入した時期です。

志布志城は楡井氏、新納氏、畠山氏、島津氏(豊州家)、肝付氏など、度々 城主が変わっていますが、最終的には島津氏(宗家)が領有します。


その後、志布志城は争奪戦が幾度か繰り返されますが、島津氏が支配していた江戸時代の一国一城令によって廃城になったと考えられています。

本丸に祀られた三宝荒神。

写真は撮りませんでしたが、三宝荒神はかなり高い土塁?矢倉場?に建っており、この祠の裏側が中野久尾(曲輪4)との深い堀切になっています。

本丸は50mくらいの広場になっており、CG映像では建物が並んでいました。

本丸には、まるで聖域のように明るい日差しが降り注ぎます。

本丸には上段と下段があり、三宝荒神がある曲輪が本丸の上段となります。

階段を降りると本丸下段となります。

本丸下段の曲輪。

この先には展望スポットがありますが、草木が生い茂っているのと、霞んでいたのであまり綺麗には見えませんでした。


しかし、本来であれば志布志港が一望できます。

志布志城は海に近い城で、志布志の港は990年前に開かれた島津荘の港として発展。


交通の要衝であり、海外との貿易拠点、海運物流など、軍事・物流・商業の重要拠点だったことで、争奪戦が繰り返されたと考えられます。

発掘調査では中国産の陶磁器、東南アジアの陶器、国内各地の陶器が出土しています。


その他にも中国の銭貨や朝鮮や琉球の銭貨も出土しているので、志布志港が広い貿易の拠点だったことを示しています。


発掘調査での柱穴跡から、最低でも2棟以上の建物があったと推測されています。

本丸下段から曲輪2上段に移動します。曲輪間は空堀で仕切られていますが、堀底を通って移動することができます。

曲輪2と本丸を分断する、断崖絶壁の堀切!

曲輪2上段。

この曲輪では多数の柱穴と土杭から複数の建物があったと考えられています。

さらに礎石のような石が置かれている箇所もあったので、大規模な建物だった可能性があります。


今は時が止まったような、静かな平地です。

曲輪2と本丸の堀切

上から見ると完全に崖です!立っている方も恐怖を感じるほど高く垂直。


掘ったというよりは、山を削り落としたと言う方が表現的にはしっくりきます。


どこを歩いても深い堀を巡らせているので、どの場所の写真か分からなくなってきました。

曲輪2下段もありますが、草が多くて断念しました。

西側からの本丸登城口。左側は本丸下段です。

ワタクシはなるべく広範囲を攻めたいので、遠回りをして本丸まで到達しましたが、大手口から真っ直ぐ西側を直進すればこの堀切にでます。


本丸への最短ルートになります。


写真や動画を撮りながら周っているので、松尾城と内城で2時間半ほどでした。

今まで見たことがないスケールの空堀や堀切を楽しむことができました。

他に高城と新城があると思うと、志布志城は相当な巨大城郭です。


廃城になり、そのままの状態で時が経過したような遺構の数々。鹿児島市から距離はありますが、行く価値は十分あります。


引き続き車に乗って、宮崎県の飫肥城へと移動します。