つぶやき城ー。訪城記録

つぶやき城ー。訪城記録

まだまだ初心者の、城をどこまでも愛する男。

旅のついでに行った城が、今では城に行くための旅が何よりの楽しみ。

一つとして同じ城はなく、全ての城に歴史と個性がある。

見る角度、見る季節、見る天気によって表情が変わるその姿に恋をした。

2026年5月17日


本日は千葉県松戸市にある小金城に初訪城です。

小金城は千葉氏の家老だった原氏の重臣 高城氏の居城で、上杉氏の下総侵攻を防ぐ拠点として配置したと考えられています。


1537年に築城され、3代53年に渡って高城氏がこの地を治めました。

後に高城氏は関東に勢力を誇った北条氏の配下となります。


北条氏の勢力圏になったことが、城郭としても歴史的にもターニングポイントになります。


小金城の最寄駅は流鉄流山線 小金城趾駅となります。

ワタクシは武蔵野線でJR新松戸駅から歩いて向かいました。


現在の小金城は宅地開発によって、ほとんどの遺構が失われていますが、大谷口歴史公園に遺構が残っていると情報を得ていましたので、最終到着地を大谷口歴史公園としました。


寄り道をせず進めば、歩いて20分〜30分ほどで到着できると思います。

小金城は川や自然地形の縁(へり)を巧みに生かした平山城で、城郭の南側から西側あたりを流れる新坂川沿いを歩いて向かいました。

左側には新坂川が流れ、右側には流山線が走っています。

長閑な景色の中を歩くのはとても気持ちが良く、新松戸駅から多少離れていますが、全く苦になることがありませんでした。

まずは城郭跡となる大谷口より登城開始です。

とはいえ、ほぼ住宅地になっています。


しかし、当時の城郭形状が残っているのが小金城のポイントです。


航空写真を見ると所々に森林が残り、城郭全体図が何となく見えてきます。


小金城は東西800m、南北700mにも及ぶ当時としては巨大な城郭でした。

城跡に掲示されている縄張り図。

幾つかのポイントに絞って周っていきます。

大谷口馬屋敷緑地という広場があります。

普通の広場のようですが、右側の森はおそらく台地の縁になっており、切岸のようになっています。

広場の道路には土塁があり、おそらく現在の道路は堀だったのではないかと想像できます。

公園整備によって盛られた可能性もありますが、この辺りは城の西側外郭あたりになるので、何かしらの防衛設備はあったと思います。

大谷口馬屋敷緑地の道を挟んで向かいにも森がありますが、私有地によりフェンスがあって立ち入ることはできません。

しかし、フェンスの奥には横堀のようなものが確認できます。

大谷口の坂を登り切ると神明神社があります。

この一帯では1番高い場所に位置しています。


当然この場所も元は城郭の一部で、小金城が廃城となり江戸時代の1676年に神明神社は創建されました。

神明神社の前から見た一般道の坂道。

この土地の起伏こそが城郭の名残といえます。


Googleマップでは、このあたりが小金城中心地とでています。縄張り図的には馬屋敷にあたります。

神明神社から南の方へ歩くと、交差点に城跡の石碑があります。

縄張り的には南西の本城という曲輪あたりになります。石碑の前には本城公園という名の付いた小さな公園があります。


この本城跡と、隣接する内城跡が小金城の主郭だったようです。

近年までは残っており、土塁などの遺構もあったようですが、今は宅地開発によって失われています。

続いて、本城跡から1番遺構が残る大谷口歴史公園に向かったのですが、途中で怪しい森を発見。


フェンス越しに見ると横堀のようなものが確認できるので、よく見えるポイントがないか近くを徘徊。

周辺は住宅地なので、明らかに怪しげな人物であったことは間違いありません。

なんとフェンスの1箇所だけ小さな開口がありました。この開口を見つけた時は嬉しくて、心の中でガッツポーズでした。

入口には解説板もあります。

この場所は私有地でしたが、ワタクシが生まれた1986年に松戸市教育委員会に寄贈された事で、一般開放に至っています。

解説板の脇から森の内部に潜入することができます。

ここだけが完全に別世界となっています!

堀切のように土塁が分断されています。

かなり高さのある土塁で迫力があり素晴らしい!

堀切というよりは、おそらく虎口かなと思われます。

上に登ることができるので、この一画を存分に楽しみます。

深さは10mはありそうです。


寄贈された土地ということもあり、開発を免れたのでしょうか。

狭い範囲ではありますが大切に保管されています。

続いて大谷口歴史公園に移動します。

大谷口歴史公園は当時の縄張りですと番場に位置します。

大谷口歴史公園に残る金杉口跡。

小金城には4つの虎口があり、その中の1つとなります。

階段を上がると虎口門があります。

この辺りには門柱を建てたと思われる跡が4箇所発見されています。

虎口門の先にある曲輪。

斜面に人工的に土を盛って造られたことが分かっています。何かしらの防衛施設であった考えられます。

曲輪の周りを歩くと竪堀のような斜面に沿った窪みもあります。

上からは良い写真が撮れなかったので、一度下に降りて写真撮影しましたが、やはり下から撮っても分からないですね。

虎口門の曲輪の先には北条氏の城郭特徴でもある、畝堀が復元されています。

堀幅は7mで、写真を撮っている地表面からは深さ3mの規模。

3mの堀はそれほど深くはありませんが、右側の曲輪と土塁の高さがあるので、効果的な防御機能となっています。

発掘調査で、堀底には高さ90cmの畝が連続して設けられていることが発見されています。

これこそが北条築城術!


説明板には発掘調査時の写真もあります。

1996年の復元当時は、畝もあったようですが現在は埋もれて見えなくなっています。

畝堀の先にある左側に土塁があり、より幅の広い横堀になっているように見えます。


北条氏の配下になったことで、小金城は北条氏の築城術が取り入れられていると思われます。


しかし、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐によって、小金城は浅野長政らによって攻撃を受け、落城・開城して、その後廃城となりました。

畝堀のある曲輪から、さらに階段を上がることができます。

階段の上は広場となっており、番場という曲輪でした。

L字型に土塁が設けられており、防衛機能を高めています。

土塁の上から見た畝堀。

先ほど写真撮影した曲輪も見渡すことができ、攻撃しやすい設計です。

金杉口の反対側には障子堀が復元されています。

こちらも経年によって畝の部分が埋もれてしまっています。

発掘調査をした上で宅地開発が行われ、新たに遺構が発見されても市街地化が進み、消失した城は全国に多くあります。


小金城もその一つですが、この大谷口歴史公園と達磨口の僅かな遺構が残されたことで、小金城は今でも生き続けています。

大谷口歴史公園と住宅地の境目。

城郭であった形状が何となく生かされているのが分かります。

歴史公園の近くには番場公園があり、小さくもこの地が番場という曲輪で、城の一部であったことを名称で残しています。


当時の城郭範囲内は、ほぼ住宅が立ち並んでいますが、ダンジョンになっていて初めて行く人は方向感覚が失われます。


ワタクシもどこを歩いてるのか分からなくなり、何度もGoogleマップで検索しながら歩きました。

大谷口歴史公園から常真寺方面を目指すと、急な坂になっています。

絵図で見るとこの辺りは中郷という曲輪の境目くらいにあたると思われます。


坂には縁と思われる一部が残っています。

常真寺の前から撮った写真。

かなり高低差のある形状をしているのが分かります。

常真寺は小金城の南にあたる場所に位置しており、この高低差が城郭の端部となります。


およそ2時間半ほど歩き、周れる範囲で歩き尽くしました。


遺構という遺構は、ほぼ失われていると言っても過言ではない城跡ですが、この地が巨大城郭であった片鱗は確実に残っています。


住宅地の中に眠る遺構の面影を感じながら歩くのも楽しいと思います。


近くには根木内城という城跡があり、小金城主であった高城氏が、小金城の前に居城とした城が僅かに残っているようです。


今後、そちらも攻めてみたいと思います。

2026年5月12日


2024年12月以来の訪城となる滝の城。

埼玉県所沢市にある城で、関東一円では戦乱の時期だった15世紀後半に築城されたと考えられています。


享徳の乱の中で扇谷上杉氏が、江戸と河越を結ぶつなぎの城として、整備と拡張されたという説が、出土品から有力視されています。


やがて、小田原北条氏が関東で勢力を拡大すると、北条氏康の三男、北条氏照の支配下に入ります。


1590年に豊臣秀吉による小田原征伐で、浅野長政によって北方から攻撃を受けて1日で落城したと伝わります。

滝の城まつりの開催が近いので、ポスターと幟が至る所にあります。

特に幟は広範囲に、見た限りでもかなり多く掲げられていたのが印象的でした。


幟には北条氏の家紋で、まつりの大名行列も北条氏なので、滝の城は北条氏の城としてPRしています。


滝の城まつりは「滝の城跡」を広く知ってもらいたい後世に残そうと、地元の有志によって2012年から開催されてきた祭りです。


城郭保存のモデルケースのような取り組みです。

後世にどのように歴史を伝えて、どのように城郭を活用していくのかは、自治体や地元の方々の力があってこそ。

天気も良かったので今回は自転車で向かいました。

自宅からは自転車で片道18km、1時間少々で滝の城周辺に到着です。

背後の山が滝の城となります。

周辺は、のどかな風景が広がります。

滝の城の近くには柳瀬川が流れています。

城郭南側は柳瀬川が天然の堀のように、川に沿って城が造られています。

橋には城郭の雰囲気が取り入れられています。

このちょっとした自治体の取り組みがとても重要です。

滝の城址公園として麓は整備されており、野球場やテニスコートになっています。

駐輪場や無料駐車場も完備されており、トイレも公園にあるので整備は完璧です。


自転車を停めて登城開始です。

七曲坂から城山神社方面に向かうと霧吹きの井戸跡があります。


この井戸には伝承があり、昔この井戸には竜が住んでおり、度々悪さをしたことから村人たちは竜を退治するため柳瀬川の対岸に舞台を作り、お祭り騒ぎをして竜をおびき出して弓を射いたという伝説があります。

滝の城の本郭には、城山神社が鎮座しています。


城山神社の鳥居を抜けて本丸に直接行くこともできますが、遺構を見ながら行くには北側から入城するのがベストです。

霧吹きの井戸跡もある七曲坂は、江戸時代から呼ばれていたことが記録されています。


堀切のように尾根が分断されているのが気になるところ。

尾根が分断された場所には稲荷神社が鎮座します。

道を挟んだ対面が城山神社です。

稲荷神社の前には堀跡が残ります。

このあたりには、神社や石碑などが密集しており、何となく聖域のような場所です。

堀の隣には山のように盛り上がった土塁が残ります。

さらに土塁の脇にはもう一つの堀が残ります。

道路側の土塁は、道路整備で削られた可能性がありますが、綺麗に形が残っています。


カーブになっている土塁には「血の出る松」があり、戦国時代に落城した際、城兵の血を吸って赤色の樹液が出るようになったという伝承がありました。


今は枯死して伐採されています。石碑が建っているのですが、何故か写真がピンボケしたので掲載できず。

七曲坂を回り込むと平地となり、城山神社のもう一つの入口となります。


公園化されていることで、至る所から滝の城には入城可能ですが、こちらから入った方が遺構を順序良く見ることが出来ます。

看板の裏側には先ほど稲荷神社側から見た堀跡が見えます。

ここは二重の堀となっており、土塁の反対側も堀となります。

こちらの横堀は深さもあり見応えあります。


切れ目から堀底に下りることもできます。

奥の神社社務所がある平場が二の郭で、その周りを囲むように横堀が設けられています。

堀底を直進すれば七曲坂と、先ほど見た稲荷神社になります。


左側が二の郭跡、右側が二重の堀を挟む土塁。

主郭が近いこともあってか、防御力が高めです。

稲荷神社方面の堀底からも撮影。

見事な横堀です!

空堀堀底から見た二の郭北側の横堀。

高めの土塁と正面には二の郭に入るための土橋が確認できます。

角度を変えて、もう一枚。

土橋の先にある鳥居が二の郭の入口となります。

二の郭に繋がる土橋。

先ほど空堀から見た土橋となり、鳥居の先が二の郭。

土橋から見た右側には二重の堀。

角度を変えてもう一枚。

迷路のように横堀を張り巡らせています。

土橋から見た左側の二の郭を囲む横堀。

左側の二の郭は、攻めてくるを横からも攻撃できるように張り出した設計になっています。

二の郭をぐるりと囲む半円を描いた横堀になっています。

張り出した左側の二の郭跡。

今週予定となる滝の城まつりの準備が進められています。

二の郭北側の土塁。

二の郭から見た横堀。

深く掘り込まれており、上から見ると迫力があります。

二の郭から本郭に入る土橋。

土橋の先が城山神社となり、本郭跡になります。

土橋の右側。

左側が本郭となり右側が二の郭で、隔てる横堀は深く堀底が狭くV字型の薬研堀になっています。

堀底からのショット。

鋭いV字型状であることが見てとれます。

滝の城には幾つも空堀がありますが、堀底が広い箱堀が基本となります。

土橋の左側も横堀で防備されています。

こちらは本郭を攻めた跡に向かいます。

本郭には城山神社の本殿が置かれ、この地を守り続けています。


1908年に愛宕社、熊野社、天神社を合祀してできた神社ということですが、その前にあった神社はいつ創建されたのかは、調べても分かりませんでした。


熊野社は平安時代末期から鎌倉時代に武士の間で武士に厚く信仰され、戦勝に所縁があることから特に東国武士に参詣が盛んになりました。

城の近くに熊野神社を勧請して信仰したので、逆に言えば熊野神社の近くには城があることが多いです。

北条氏に所縁のある城の周りにも、熊野神社は多いので注目です。

本郭から見た景色。

標高は約50m、一帯には平野が広がるので低い山でも景色が良いです。

本殿の裏側に回ると、横堀を上から見ることができます。

三の郭と本丸の横堀は滝の城で1番深く、防御力が高くなっています。

本殿裏に残る四脚門跡。

馬出と本丸には橋が架けられており、本丸側には門が建てられていました。


城山神社の社殿改修に伴って、平成2年に本郭で発掘調査が行われました。


その際に四脚門の跡が検出されました。

焼土が広がっていたので、焼失したことが判明しています。

四脚門跡から見た対面の馬出方向。

深い空堀でこの一部だけが土が盛られています。


四脚門の跡が検出されたことで、この場所に橋が架かっていたと考えられるようになりました。

本丸の空堀に沿って三の郭方面に向かいます。

右側が本郭と横堀、左側が馬出です。

本郭の空堀は現状でもしっかり形状が残っているように思えますが、現状よりも3m以上深い堀だったようです。

V字に土が盛られている箇所に、橋が架けられていたと推定されています。


発掘調査で柱穴跡と、炭化物や礫が検出されているので、四脚門同様に焼失したと考えられています。

角度を変えてみます。

奥には本郭があり城山神社の本殿が見えます。

この場所に橋が架かっており、対面に四脚門がありました。

橋の前には馬出が広がります。

馬出と二の郭を仕切る横堀。

左側が二の郭、右側が馬出になります。


左奥の堀底の発掘調査で、作業途中に水が湧き出たことで掘り下げが中止になりましたが、ピンボールを刺して測量した結果、現状の地面から3.4m下に堀底があることが判っています。


かなり深い空堀だったと考えられます。

角度を変えてもう一枚。

手前には馬出の横堀があり、さらに奥にせり出した二の郭の横堀に接続されているので、堀が複雑にクランクします。

三の郭跡。

北条氏照が家臣と茶の湯を楽しんだと伝わる郭で、茶呑み郭とも呼ばれています。

三の郭から見た本郭の横堀。

こちらも三の郭と本郭を仕切る横堀。

とにかく滝の城は遺構の残存度が、非常に高い城跡です。

三の郭には大井戸跡が残ります。

発掘調査で6段の階段と井戸跡が検出されました。


驚きなのが、深さ8.4mまで掘り下げられましたが、井戸底まで到達することが出来ず、安全上の観点から調査が終了しています。


かなり深い井戸跡であったことが分かっています。


三の郭は四方を深い空堀を巡らせて完全に独立した郭なので、籠城戦を考えると何がなんでも水が必要であったと考えられます。

三の郭と馬出の間にある門跡。

発掘調査で1列の石敷きと7本の柱穴が発見されています。


炭化材が出土していることから、門は焼失したことが判明しています。

三の郭から見た門跡。

対面に見える郭が馬出。


この門跡からは扇谷上杉氏の城でよく見られる「ウズマキかわらけ」が出土していることから、扇谷上杉氏が滝の城を使用していたことは間違いないようです。

門跡を進んで三の郭の周りを歩きます。

門の先は土橋になっています。

土橋から見た左側の横堀。

左は馬出で正面が二の郭となります。

この馬出は、三の郭前に建てられた門と、本郭に架けられた橋を防備するために設けられたと考えられます。

土橋から見た右側は、横堀が三の郭を囲みます。

振り返った土橋。

左側が三の郭の横堀、この土橋の先に門跡があります。

三の郭の横堀沿いに進み、東郭へと向かいます。

三の郭東側の堀底は、整備されて通路となっています。

右側の、三の郭が高いので、迫力ある通路となっています。

三の郭の南側下には東郭があります。

東郭から本郭の堀底に行くことができるのですが、草が生い茂っているので今回は撤退しました。

公園を出て推定大手口に向かいます。

城郭北側にあたる、この先が大手口と推測されています。

今は普通の空き地になっていますが、縄張り図を見ると、このあたりが大手口だと思われます。

大手口付近の脇には、立ち入りができませんが城址公園の森があります。

草木が生い茂って見えないのですが、下はかなり掘り込まれた段差になっています。


発掘調査では深さ5mもあるクランク状の堀が、約40mに渡り検出されています。


そして、堀底は北条氏築城術の代名詞ともいえる障子堀となっていたようです。

城山公園の周りは企業の建物や一般住宅が建っており、城の雰囲気は失われています。

この写真のあたりには外堀があったようで、発掘調査で外堀には大手口と同様に障子堀が発見されています。


滝の城は民間開発に伴う発掘調査を11回、史跡整備を目的とした学術調査を10回も行っていることから、かなり遺構が明確です。

城山神社の社務所付近に、令和8年3月発行の発掘調査のパンフレットが置かれていました。


前回、訪城した際は無かったのですが、このパンフレットがとても充実した内容で、分かりやすいシロモノでした。

前回よりも理解度を深めながら周ることができました。

前回訪問した際も同じことを感じましたが、滝の城は埼玉県の指定史跡ですし、これだけの遺構が残っているので、もっと注目されて欲しい城です。


城郭範囲は宅地開発などで狭くなっていると考えられますが、北条氏による築城の特徴がよく残っています。


草が生い茂った時期だったので、また冬の時期に来て、大手口付近と出郭付近を周りたいと思います。

2026年5月6日


昨日の世田谷城に続き、本日は東京都八王子市にある初沢城に訪城しました。


八王子市には北条氏照が居城にしていた滝山城、八王子城が有名で、初沢城はあまり聞き慣れない城です。

八王子一帯には城跡が多く残っているので、今後も少しずつ攻めていきたいと思っています。


中央線に乗って「高尾駅」で下車。

登城口までは約10分ほどなので、電車でも気軽に行ける好アクセスがポイント!


京王線も走っているので抜群です。


初沢城の歴史は、鎌倉時代に片倉城を居城としていた高乗寺開祖の長井氏によって築城されたと伝わります。


不明点が多く謎だらけの城ではありますが、後北条氏の時代には、北条氏照の居城 八王子城の支城でした。


豊臣秀吉による小田原征伐で豊臣軍と激突した北条氏。1590年6月23日に八王子城は陥落。支城となる初沢城も落城しました。

近くには浅川小学校があり、学校の敷地沿いを進むと到着できます。


少し小高い山が初沢城となります。

初沢山の尾根沿いに造られた城で標高は294m。

麓からの比高は100m程度です。

城に近づくと、高尾みころも霊堂という霊園の建物があるので、こちらを目指すと迷うことがなく高尾駅から進むことができます。

初沢城の登城口は大きく2つあります。

駅から近いのは高尾天神社から登る北側のルート。山の反対側に南ルートがあります。


今回は駅からも近いので、北側ルートから登城します。

急な階段を登ると高尾天神社があり、初沢城の登城口となります。

階段上からの景色。

時間は14時で天気は曇り。気温は暖かく悪くないコンディションです。

まだまだ登城口の入口ですが、割と市街地との高低差があるのが、写真でお分かり頂けると思います。

階段の上には高尾天神社のある敷地が広がります。

高尾天神社は1983年に、福岡県の太宰府天満宮から分霊して創建されました。

神社の近くには学問の神と呼ばれる藤原道真の銅像が建っています。

この平場からは高尾の街並みを一望できる、絶好のポイントになっています。

藤原道真の銅像の脇にある階段から登城を開始します。

左側は急な斜面で、神秘的に生える木を潜り抜けて進みます。

初沢城には縄張りが分かる解説板やマップが無いので、赤色立体図を元に縄張りを説明。


廃城から年数が経過しているので、明確にどこまでが城域で、どこまでが当時の形状であったかは謎なので、完全に個人的な妄想と思い込みで書き綴ります。

坂を進むとワイドな空間となります。

正面は一段高く赤色立体図の「神社上の平場」となっており、何となく枡形のようにも見えます。

上から見ると攻撃しやすい造りになっているようにも思えます。

当然、個人的な妄想なので遺構かは不明です。

高尾天神社から一段上がって、広めの平場となります。

このあたりも個人的には何かしらの曲輪だったのでは?と感じます。


この場所が当時の曲輪であるとはネットで調べても、特に書いてはないので確証は無いのですが、城郭らしい造りをしています。


その観点を念頭に置きながら、検証していきます。


至る所から高尾市街が一望できます。

高尾天神社側には腰曲輪のような平場が配置されています。

個人的に気になったのは、神社脇の登城路との合流地点付近。

土塁と堀のような形状をしています。

もちろん後世に改変された可能性もあります。

木を伐採したばかりで、見やすくなったからでしょうか。やはり土塁や堀のように思えてしまうのです。


続いて山の山頂となる郭1を目指します。

神社付近は穏やかな雰囲気でしたが、登城開始早々、テイストが変わって城郭の雰囲気が増します。

山の尾根に沿って進みます。尾根の脇は割と深い谷となっています。

自然地形を活かした城であったと考えられます。

中間には幾つか分岐点があります。

看板がないので注意が必要です。


ネット情報では案内板があるので迷わないと書いてることが多いのですが、現在は分岐点には道を示すものは見当たりませんでした。

分岐がある場所には登城口と同じく平場が設けられています。

振り返ってのショット。

左側が登ってきた登城路で、右側が平場になっています。

上から見ると登城路を見渡せるようになっています。

攻撃するには絶好の造りで、このような平場が仕掛けが幾つか確認できます。

途中、急な斜面もあります。

しかし、登城路は綺麗に整備されているので登りやすく、ハイキングにも最適なコースです。

ゆっくり写真を撮りつつ、周囲の遺構を確認しながら15分ほど歩くと、道が急に狭くなります。

右側は郭1となります。

道が分岐して、真っ直ぐ進むと郭2方面へ。

180度回り込むと郭1方面に進むことができます。

まずは郭1方面に向かうため、180°ターンしてさらに登ります。

山頂部の郭1はかなり細い曲輪となっています。

ベンチが置いてあり、ひっそりと静寂な空間が流れます。

木が多いので景色を望むことはできませんが、おそらく城郭や城下を一望できると思われます。

居住する空間としては小さすぎるので、考えられるのは物見の監視的な役割、または狼煙台だった。


もしくは登城路から攻めてくる敵を迎撃するための施設だったのかなと感じます。

赤色立体図で見る郭1。

十字が山頂部の郭1。周りには腰曲輪が幾つも展開されています。

ベンチがエモい。

右側の窪んだ場所から下に降りることができます。

郭1の虎口であったかは謎ですが、山頂部から腰曲輪の方面に降りて、下から郭1を見てみたいと思います。

左側の一段高い場所が郭1となります。

斜面は人工的に削られています。

振り返っての一枚。

右側が郭1、左側は急な斜面となります。


一眼レフのレンズフィルターを変えたので調子良き。

登城路から見た郭1。

下に進むと郭1は見上げるほど高くなります。

やはり、郭1は防御的な施設だったのかなと感じます。


続いて郭2と郭3を目指します。

郭2の入口となる尾根には、かなり小規模ですが土橋のようになっています。

両脇が削り込まれているのが確認できます。

反対側もかなり浅めではありますが、斜面に沿って削り込んで竪堀となっています。

振り返ってのショット。

奥に見える坂道が郭1に繋がる登城路です。


この角度から見ると土橋のように見えます。

両脇に竪堀を設けて尾根をスリムにしてあります。


今のところ、遺構らしい遺構を初めて見ました。

郭2も、郭1同様に細長く小さな平場です。

こちらも居住地としては狭すぎるので、防衛施設と考えられます。

郭2の先には、一段低い場所に郭3が連続しています。

郭2と郭3が接続する箇所は、両脇をうっすら削り落としているのが確認できます。

振り返ってのショット。

土橋のようになっています。

郭3も小さな郭です。

突き出した形状をしているので、物見の役割や防衛的な役割があったように思えます。

郭3から貯水槽方面に下ります。

下から見た郭2と郭3の接続部。

石塁は土留めの役割で後世に積まれたものです。

真下からも撮影。

左側は郭2、一段下には郭3。

中間部は削り落として土橋になっています。


郭2と3は細長い郭でしたが、下から見ると狙われている感があり、防御的な能力値は高めです。

郭2と郭3の下には貯水槽があり、この場所が一番大きな平場となっています。


個人的にはこの大きさのスペースなら兵も駐屯できるし、建物も建てれるかなと思い貯水槽近辺を徘徊。

消えかかった文字が書かれた、とても小さな白い板が柵の前に立てられています。


よく見ると初沢城二の丸跡と書いています。

この場所が二の丸であったかは不明ですが、広さからすると何かしら城の一部であったことは十分に考えられます。


山の上部はこの貯水槽の平場以外は、兵を駐屯させる場所も見当たりませんでした。

貯水槽の設置による改変はあるようですが、土塁のような土盛りもあります。

フェンスを見ると形状がハッキリと分かります。

左側がかなり盛り上がっているのが分かります。

下からも確認してみます。

貯水槽の設置と管理の為に、後世に通された道の可能性もあるので判断するのは難しいですね。

南側から一度下山。写真は下から見た初沢城です。

そして、初沢山の麓にある髙乘寺に向かいます。

初沢城南側の登城口から髙乘寺までは、歩いて15分ほどでした。

1394年に開創された髙乘寺は、臨済宗から曹洞宗へと改宗を経て1505年に改めて開山。


開創には当時の片倉城主だった長井髙乘が深く関わっており、お寺の名前も長井氏が由来となっています。

ちなみに寺の紋ですが、かなり有名な家紋です。

鬼瓦にも紋が型取られています。


これは長井家の家紋ですが、西国の大大名 毛利家の家紋と同じです。

長井家は毛利家の系譜ということで、同じ家紋が使われています。

ここで、赤色立体図で初沢城を見てみました。

なんと、先ほどまでいた山頂の郭1付近に気になるポイントを見つけてしまいました。


下山したばかりなので、また戻るのは気が引けたので、もし堀切に近い北側にも登城口があればと微かな望みにかけて麓を歩きました。

初沢城の西側は、かなり急な崖になっています。

ちょうどこの角度くらいから見える山の上の平坦部に堀切があるはずなのですが、草木が生い茂っており、形は判断できません。

麓には初沢城のある山に沿って初沢川が流れており、天然の要害になっています。


川がとても綺麗で絵になります。

初沢川が城郭の西側と北側を流れているので、城としての立地は適していると思われます。


豊臣軍の大軍勢には太刀打ちできなくとも、中世城郭としては防御力が高そうな、地形を生かした城です。


城郭の北側。

右側の突き出した山の尾根にポイント2があり、こちらから登り口があればと思ったのですが、麓はテニスコートで立ち入りができず、登り口を確認することができません。

赤色立体図を元に歩き、遺構は目の前の山上にあるはずなのに全く近づけない!


きっと戦国時代もこのような感覚だったのだと思います。


致し方なく歩いてきた道を戻り、下山した南側から本日2度目の登城開始です。

貯水槽の脇を進み、郭1方面を目指すと赤色立体図通りに道が分岐していました。

右側が郭1方面、ポイント1とポイント2方面は左側を進みます。

早速、倒木があり行く手を阻んできます。

道になってはいるのですが、倒木が凄くかなり険しい道のりです。

登城路から見上げると、かなり急な斜面になっています。


倒れた木を避けながら進むと、ポイント1に到着!

写真では普通の道に見えますが・・

明らかに人工的に掘削して横堀になっています。

尾根続きのようにも見えるので堀切になるのかな。いずれにしてもポイント1は攻略できました。

ポイント1から郭1の方向を見上げた写真。

赤色立体図ではこの上には腰曲輪があり、さらにその上に郭1があります。

ポイント2は堀底を進んだ、さらに先にあります!

しかし倒木が行く手を阻み、明らかに今までより険しい道であると予想できます。


無理は良く無いので、危険と感じたら引き返すことを念頭において進むことにしました。

細い通路が崩れています。

微かに道になってはいますが、明らかに人は通っていないと思われるほど荒れています。

山の中にフェンスが現れるので、フェンス沿いに少し下ると遂に発見!

赤色立体図の通り、そしてワタクシの予想通り堀切でした。

しかも、かなり状態が良い遺構。

苦労した分だけ喜びは倍増です。


初沢城における最大の見どころだと思います。

上からも見てみます。

堀切のお手本のように、尾根を見事に断ち切っています。

童心に帰るようなワクワクと、宝を探し当てたような達成感。これが山城の醍醐味です。


ただ、とてもオススメできる登城路ではないので、本当に注意が必要です。

行かれる方は、安全第一で行きましょう。

この細い尾根に堀切があるということは、北側の侵入を警戒していたことになります。

謎は深まります。


登城しながら思っていたことは、何となくコンパクトな八王子城のように感じていました。


誰から見ても山頂部には居住空間があったとは考えにくいのと、南側は防御機能が薄すぎるので、もし居館があるなら北側の高尾天神社あたりかなと推測してしまいます。


八王子城も麓に居館エリアがあり、背後に詰城となる山城があります。

高尾天神社にて、無事の帰還に感謝を込めて手を合わせて終了です。


今回は赤色立体図の凄さを肌で感じました。

GPSも付いているので自分の位置もわかりますし、何よりも初沢城のように縄張り図が無い城では、大活躍です。


最後に「高尾浅川の自然を守る会」による文書を一部を引用。

「この山は八王子城外部戦国の山城跡で、この40年程の間にも幾度となく開発の危機にさらされました。

しかし、市民の皆さん、歴代の八王子市長、都知事、多くの方々のご尽力により、落城をまぬがれ今日の姿が残りました。」


この山は別名 やすべえの森と呼ばれ、山を買ったやすべえさんは、立入禁止にせずに誰もが散歩できるように道をつくったそうです。


初沢山の麓は宅地開発で住宅が密集しています。

初沢山は当たり前の景色ではなく、守るために尽力された方のお陰であることは間違いありません。

東京都指定史跡ですし、もっとこの城が認知されることを願っています。


少しサバイバルな1日でしたが、およそ3時間ほど楽しむことができました。