つぶやき城ー。訪城記録

つぶやき城ー。訪城記録

まだまだ初心者の、城をどこまでも愛する男。

旅のついでに行った城が、今では城に行くための旅が何よりの楽しみ。

一つとして同じ城はなく、全ての城に歴史と個性がある。

見る角度、見る季節、見る天気によって表情が変わるその姿に恋をした。

2026年6月13日


東北遠征4城目は秋田県の秋田城に初訪城です。

秋田城は続日本100名城で、脇本城からは車で30分ほど。秋田県の続日本100名城をセットで攻略することができます。


秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側に置かれた地方官庁で、当時は出羽柵と呼ばれていましたが、760年頃から秋田城と呼ばれるようになりました。


現在は高清水公園として整備され、国の史跡にも指定されています。

秋田城跡歴史資料館に車を停め、御城印を購入してから攻城スタートです。

資料館の脇から外郭東門方面へと向かうと、外郭西門跡にでます。

礎石を使用しない掘立柱式の八脚門で、今は一般道が走っているため、通路は破壊されて橋が架けられています。


外郭西門は秋田城の海側からの玄関口となる門で、建て替えが何度かありながら200年間に渡って設置されていたと考えられています。

西門跡を通過して橋を渡ると政庁正殿跡に続きます。

周囲は塀で囲まれており、奈良の平城宮に倣って建物が配置されているようです。


正殿は出羽国の政務や来客を迎え宴をする、秋田城における重要な場所でした。

東脇殿跡も政庁正殿と同じく、支柱位置が復元されています。


秋田城は二重構造になっており、東西94m 南北77mの政庁と東西南北550m 総延長2.2kmの外郭によって構成されていました。

政庁がある場所は築地塀と政庁東門が復元されています。

東門を抜けると東大路にでます。

東大路側からのショット。

東大路と東門。

再現度も高く、古代の雰囲気を味わうことができます。

城内東大路。

政庁から外郭東門、さらに外側までほぼ直線的に伸びた、秋田城のメインロードです。


奈良時代には幅12m、平安時代には幅9mであったことが発掘調査で判明しています。


現在、東大路の脇には護国神社が建立されています。

東大路の先にあるのが外郭東門。

平成元年の発掘調査を元に、平成10年に創建時をイメージして復元されました。

接続された築地塀。

当時はこの築地塀が外郭を取り囲んでいました。

発掘調査で築地塀は、後に木材を並べた塀に変わったことが判っています。

外郭東門は秋田城のシンボルになっています。

間近で見て瓦屋根に何か違和感があったのですが、後に調べてみたところ軒瓦が無い珍しい造りをしているようです。


何となく感じた違和感はこれだったのですね。

外郭東門の脇にはブルーシートが掛けられていました。

発掘調査の真っ最中なのでしょうか。

外郭東門には復元された古代沼があります。

この沼は神聖な場として利用されていたようです。

古代沼と外郭東門。

このポジションからのショットはおすすめ。

外郭東門の外側にあたる古代沼の一帯は鵜ノ木地区と呼ばれ、建物跡などが発見されています。

古代沼の周辺は綺麗に整備されており、建物跡の柱脚跡が復元されています。

同じく鵜ノ木地区の建物跡。

一際大きな建物跡は歴史書に伝わる秋田城の附属寺院、四天王寺で渤海使などをもてなす迎賓館施設もかなていたと考えられています。


秋田城はストリートミュージアムでAR映像をスマートフォンで見ることができます。

この鵜ノ木地区をAR映像で見てみると、三重塔のような四天王寺を見ることができました。

鵜ノ木地区には古代水洗トイレが復元されています。

このトイレがとても優れもので、下部にある沼に接続されており、排出される構造をしています。

全国的にも珍しいトイレで、この時代にこんな先進的なトイレがあったことに驚きました。

古代水洗トイレの近くには竪穴式住居の跡も復元されています。


遺構の範囲はあまり広くはありませんが、随所で復元がされていることで、まるでタイムスリップしたようなゆったりとした空間となっています。


前日に多賀城に行ったので、平安時代の歴史に濃く触れることができました。

秋田城から車で5分の場所にある、道の駅秋田港ポートタワー・セリオン。

展望台からは秋田市内を一望。

手前側に広がる森が、秋田城のある場所になります。

秋田市は海に面しており、古代から交易の場になっていました。


晴れていたので男鹿半島も綺麗に見えました。
海に浮かぶ風車。この風車が男鹿半島の方まで続いており、今まで見たことのない特別な景色です。

道の駅で稲庭うどんを食べてエネルギーをチャージです。

秋田はご当地グルメも豊富でお土産も多く、素晴らしい街でした。

2026年6月13日


東北遠征 3城目は秋田県の続日本100名城に選定されている脇本城です。


個人的には秋田県に初上陸でもあります。


仙台から車で約4時間ほど。道の駅に寄りつつ、ゆったりと脇本城へと向かいました。


脇本城は秋田県の男鹿市にあり、海に突き出すような形状になっている男鹿半島にあります。

公共交通機関を利用する方は脇本駅から歩いて約30分で到着します。

脇本城は巨大な城郭で幾つかの地区に分かれています。メインは内館地区と呼ばれるエリアになります。

脇本城の規模は150haで実に東京ドーム32個分という規格外の規模で、東北を代表する戦国期の城です。


天正5年の1577年に安東愛季によって大規模な改修が行われました。江戸時代の初めには廃城になったと考えられています。 

駐車場には脇本城跡案内所があります。

脇本城の標高は100mで、駐車場からはすぐに曲輪に到着できます。


案内所の脇からは整備された道がありますが、駐車場の目の前には古道階段があり、この階段を登れば天下道と呼ばれる古道へと接続されています。

土を掘り込んで造られた古道。

周りの土は高さがあり圧迫感があります。


戦国期の城郭雰囲気を味わいたいのであれば、古道がオススメです。

階段から古道を出てすぐに、尾根を分断する堀切があります。

登頂開始早々、魅せられます。

古道を振り返っての一枚。

狭い道で90度の折れ曲がりは、戦国期の山城感を存分に体現できます。

古道を進むと分岐点があります。

大土塁がある東端の曲輪を目指します。

分岐から見た脇本城の南側。

右側が南端の曲輪で、左側は生鼻崎。

堀切のように緩やかに曲輪が分断されています。

同じく分岐から見た西側の曲輪。

壮大な城郭の規模を目の当たりにします。


古道を登り切ると東端曲輪があり、大土塁があります。

大土塁の前には城主の館が建っており、門跡も発見されています。

この土塁は海風の強い脇本城における、風よけの役割も果たしていました。

東端曲輪から見た脇本海岸。

脇本城が半島であることが見て取れます。

大土塁の下にも曲輪が展開されており、こちらには主殿や会所があったと想定されています。


土塁は6mもあり、脇本城における最大規模で良好に残っています。

奥の土塁の上が城主の館が置かれた曲輪、手前の平場が会所や主殿があった曲輪


この二つの曲輪は脇本城にとって重要な場所だったと考えられます。

そして、この場所から眺める脇本城の西側はとても美しい!

曲輪が連続して展開され、綺麗に整備もされているので、城郭の形状がハッキリと理解できます。

脇本城の見どころポイントの一つとなる空堀。

南側と西側をこの空堀が分断しています。

堀底からのショット。

幅広の空堀となっています。

離れた場所から見た空堀。

地形が複雑に形成されており、廃城になってからそのままの状態で曲輪が残っていると思われます。

空堀から反対側の曲輪へと移動します。

喰違いになっている掘り込みは虎口のようです。

空堀の堀底は広いのですが、堀の斜面は割と急斜になっています。

虎口も堀底から眺めると、見上げるような高さです。

虎口から見た空堀と南端曲輪方面。

空堀から南端曲輪までは250m以上あります。

空堀と東端曲輪方面。

対面には会所や政庁が置かれ、さらに奥の一際高い曲輪に城主の館がありました。

東端曲輪方面と奥には日本海がチラリと見えます。

西側には井戸跡が2つ残っています。

木の下には普通の規模の井戸が一つ。

もう一つの井戸跡はかなり大きめです。

曲輪の斜面を削り取るように井戸が設けられています。

井戸というよりは溜池レベルの大きさです。

反対側からも井戸跡を見てみます。

山城でこの規模の井戸はなかなか目にすることはできないので、とても貴重な遺構です。

井戸跡上にある曲輪。

あまり大きくはありませんが、土塁で囲まれているのが特徴です。

西側の土塁。

西側の南北250mに渡ってこの土塁が続いています。

土塁の上からのショット。

左側は海になっており、ほぼ崖です。


それでも土塁を設けたのは、防備の意味合いもあるかもしれませんが、やはり海風から守る意味合いもあったのかなと思われます。

西側の曲輪から見た脇本海岸。

反対側も海です。

脇本城は海に突き出した場所に造られているので、見渡す限り最高のロケーションとなっています。

西側の曲輪と南端曲輪を分断する竪堀。

南端曲輪からみた竪堀。

こちらもかなり幅広の堀となっています。

南端曲輪の土塁。

南端曲輪は三方が土塁で囲まれた設計になっています。

南端曲輪から見た生鼻崎。

緩やかですが堀切のように下って上がるこの形状。


これは自然地形というより、人工的に掘られて造られた形状にも思えます。

横から見てみると、まさに堀切のようです。

何よりも奥のオーシャンブルーの海が最高です。


山城×海の破壊力が半端ないです。

南端曲輪から生鼻崎に行ってみました。

草が綺麗に刈られていたので、スムーズに行けました。

生鼻崎から見た曲輪。

奥には寒風山がそびえています。

生鼻崎から見た大パノラマ!

目の前には脇本海岸。脇本城で1番良い景色が見れる場所です。

右手にも雄大な日本海が広がります。

この場所は海の監視の役割もあったのだと思います。

生鼻崎を後にして、帰り際に西側の曲輪の下から脇本城を見上げます。

登城路から生鼻崎を見上げます。

独立した山になっているので、360度見渡すことができ、監視には絶好の場所になっているのが分かります。


本来、北側には馬乗り場という地区があり、そちらにも曲輪が展開されているので、行く予定でしたが今回は断念しました。


行政の放送が流れ、熊の目撃情報があったとのことでした。


男鹿市は過去30日間の熊情報では90件以上の目撃情報があるようなので、普通に熊が生息している地域と思われます。


さすがに熊は怖いので、放送が流れた以上は早期に撤退をしました。

最後に御城印だけは入手したかったので、古道の下にある菅原神社に立ち寄り、参拝も兼ねて向かいました。

菅原神社は学問の神、菅原道真、天照皇大神などを御祭神とした神社です。


鎌倉時代に安東氏の氏神として創建されたそうです。凄い歴史のある神社。

久保田藩の佐竹氏も参拝したとされています。

社殿の前に置かれた牛。

長い階段を登っている時、この牛の顔がチラリと見え、まるで熊に見えて焦りました。

社殿の中で御城印が購入できます。


今回は市内に熊の出没があったことで、メインとなる内館エリアしか周ることができませんでしたが、それでも最高な時間となりました。


海風が心地よく、この場所が戦国期の城であったことを忘れてしまうほど壮大な城跡でした。


中国の陶磁器や、中国で造られたお金など出土しているので、この広大な海を利用した交易が行われていたと思われます。


秋田県初の城めぐりは最高な思い出となりました。

2026年6月11日


2023年11月以来となる、宮城県利府町にある利府城に再訪城しました。


利府城は伊達政宗の叔父となる留守政景の居城として知られており、豊臣秀吉による奥州仕置きで廃城になったと考えられています。


留守政景は後に伊達一門となり、水沢伊達氏の祖となりました。


現在の利府城は館山公園として整備されており、城としての遺構があまり残っていないと言われています。お城ファンの中では、何もないというのが大半の感想のようです。


前回訪城から、この利府城について調べていました。

理由としては、留守政景は利府城を居城とするまでは、岩切城を居城としていました。

岩切城は堀切や土橋など、中世城郭を象徴するような遺構が残る県内屈指の巨大な城郭です。


なぜ、岩切城には中世的な防御機能が備わっているのに、岩切城の後に居城とした利府城にはないのか不思議でした。


今回は赤色立体図を元に、東京で事前に調べた内容を調査していきます。

利府城には、利府たてやま霊園側から入城するルートと、利府小学校の脇から入城するルートの2つがあります。


今回は霊園側から向かいます。

墓地の前には前回来た時に見つけた竪堀のような窪みがあります。

草と木で隠れていていますが、かき分けて森に入るとハッキリと形状が分かります。

これが竪堀であるかは謎ですが、間違いなく人工的に掘られているのは間違いないと思われます。

看板に沿って進みます。

道路が綺麗に整備されているので、初めて来た方も分かりやすいと思います。

車で主郭の下まで行くことができます。

ワタクシは今回も自転車で登りました。

地図の左側、桜の園が利府城の主郭だったと考えられています。

そして、右下の冒険の丘がハッキリと曲輪が残っています。

赤色立体図で利府城の全体を見てみます。

一般的な連郭式のタイプで、主郭と冒険の丘(郭2)の周りを腰曲輪が囲んでいるのが分かります。


今回、調べたかったのは調査1の窪み。

そして、調査2の平場。

この平場は公園外となっており、城跡として扱われていません。


しかし主郭よりも標高が高く、堀もしくは堀切のような掘削した跡が確認できることから、ここも利府城における曲輪の一部ではないかと気になっていました。

右側が主郭方面、左側が謎の平場がある調査1のエリア。

左側は草が生い茂っているので、もしかしたら行くのが難しい可能性があります。

坂を登りからと駐車場があり、一際高い山の上が主郭となります。

赤色立体図では、ちょうど段々になった辺りから上の平場に行こうと計画していました。

早々ですが断念しました。

草が多いしマムシがいるので、公園外にあたる平場に関しては秋か冬に再度トライすることにしました。

仕切り直して主郭を目指します。

赤色立体図で見ても主郭は色が濃くなっている通り、削り落とされたような切岸になっているのが特徴です。

公園としての整備もされていますが、ある程度は当時の残った形状が生かされていると考えられます。

主郭部に到着です。居住空間としては十分なスペースの曲輪が広がります。

階段を上がると、さらに曲輪が展開されています。

最頂部には利府城の石碑が建てられています。

とくにこの辺りに遺構は残っていません。


昔は景色も良く、利府町を一望できたのですが、今は木が邪魔して景色は綺麗に見えなくなってしまいました。


周りは木に囲まれて写真ではわからないのですが、下を覗くと360度急な崖によって、この曲輪が造られているのが確認できます。

主郭部を降りて郭2方面に進みます。

急な斜面下の整備された道を進みます。

右側が先ほどいた主郭部。

このあたりは木もなくて、主郭がいかに高い防御性を持っているか実感できます。

主郭と郭2の間にある広場。この辺りも間違いなく当時は何かしらの曲輪であったと思われます。

膝上以上の草が一面を覆います。

郭に向かう坂道。背の高い草で分かりにくいのですが、この場所が利府城では唯一の土橋のように見えます。

振り返っての一枚。

公園整備で造られた可能性もあるので断言ができませんが、深い崖と一段下がった広場によって土橋のように見えます。

郭2も削り取られたような急な崖になっており、岩盤が剥き出しになっています。

明らかに人工的に守りを固めたと思われます。

左側は完全に崖になっており、右側は郭2となります。

振り返っての一枚。

何となく山城感があります。

坂を登った先は突き出した平場になっており、現在は木が生えていた何も見えませんが、物見的な役割があったと想定できます。

この平場から周りを見てみると、腰曲輪がのような細長い平場が展開されています。

利府町はあくまで公園として活用しているので、城の遺構を示す看板などはありません。

しかし、山全体の残存度は非常に高く、当時のまま森も山も残っています。

赤色立体図を見ながら、物見と想定する場所の淵を歩いて調査ポイントを見下ろします。

薮になっていて写真では分かりにくいですが、赤色立体図通り、堀切がありました!

あまり高さを感じませんが、手前側がかなり急な角度で削られていて、深さ5mくらいはある立派な堀切です。

これはテンション上がりました。

物見からは降りることができないので、なんとか堀底に行けないかと考えたのですが、今回は17時も過ぎていたので断念しました。


しかし、遺構らしきものが何もないと評価されてきた利府城にとって、かなり大きな収穫でした。

物見からさらに一段上がると郭2となります。

何となく、このあたりの造りは岩切城に似ていると感じます。

郭2は細長い形状の曲輪です。

その辺に生えている雑草に見えるこの草も、自転車のタイヤが半分埋まるほど生い茂っています。

次回来た時に、もっと周囲も調査してみたいと思います。

郭2から見た登城路。

角度も急で上から見下ろせる為、敵を迎え打つには十分な設計。

上からは狙われ、左側は崖になっているので、逃げ場が全くありません。


一般的な戦国期の中世城郭の定番である堀などが無いので、防御機能が薄いと思っていた利府城でしたが、この切岸を巧みに利用して曲輪を独立させる設計ゆえに、堀が必要なかったと考える方が現実的かもしれません。


そう考えると、郭2の物見周囲は陸上と繋がっているので、堀切を設けてこの場所の防御機能を高めたと考えれば、非常に理にかなった設計だったと見えてきます。


それでは、発見した堀切の下には何があるのか気になり、自転車で回り道をして麓まで行ってみました。

麓にはなんと神社がありました。

今回は社殿までは行かなかったのですが、以前に雷神社には行ったことがあります。

まさか雷神社の背後に利府城の堀切があるとは思いませんでした。


雷神社は創建は不明とされていますが、永禄2年の1559年に社殿を修復したと言い伝えがあるので、利府城が機能していた時には既に雷神社はあったことになります。


つまり、この方面は鉄壁の堀切と神によって守られていました。

遠くから見ると山がなだらかに地上に伸びているのが分かります。

この尾根を分断するために堀切が設けられたことになります。


面白いのが雷神社を含めたこの辺りは利府町館(りふちょうたて)という住所になります。

家臣の館があったのでしょうか。その他にも近くには利府町堀切という住所も存在します。

木の高さが一段低くなっている場所に堀切があると思われます。

利府小学校の隣の登城口だけ見にいきます。

小学校の脇には利府城についての看板もありました。

こちらの登城口は利府街道側にあり、公共交通機関を利用する方は、こちらの登城口から登るとスムーズです。


JR東北本線 利府駅からは歩いて15分ほど。

こちらには車を停める場所がないので注意です。

赤色立体図を見ていると、利府城の尾根続きに怪しげな地形を発見。

利府街道の「惣の関ダム」の入口あたりで、利府城からは自転車で10分もかからない近い場所です。


明らかに2つの堀切が確認できます。

いつか専門家の方に検証して頂きたいですね。最後に利府町

最後に利府町堀切近辺にある堀切っぽい一般道を撮影。

こちらも利府城から近く、尾根続きだった場所です。

探り始めると妄想が止まりません。


今回、調査するための前調査という形でしたが、郭2で見つけた堀切は素晴らしいものでした。

前回訪問から2年以上が経過し、色々な城を訪れたことで知見が広がり、利府城が違う見え方をしました。


松島、多賀城、大崎、仙台に向かう交通の要衝なので、ここを居城にしたと考えられます。

1590年に小田原に参陣しなかった留守政景は所領を没収されたことで利府城は廃城となったと伝わります。


公園としての整備されても、山自体はかなり良い状態で残っているので、調べれば新しい発見がありそうな城です。また秋か冬に調査します。