2025年12月28日
本日は山梨県に1泊2日で遠征に来ました。
新宿から高速バスで移動!
高速バスは約2時間、片道2300円なので割とお得。
甲府駅にある武田信玄像。
やはり、山梨といえば武田信玄のイメージが強いです。
武田信玄は徳川氏、北条氏、上杉氏など戦国時代を代表する横綱のような武将と幾度も戦った大武将。
武力だけではなく、治水工事など領国の整備も行いました。
その武田信玄の居城が甲府でした。
武田氏滅亡後は豊臣秀吉の支配となり、江戸時代は甲府は幕府直轄領となり甲州街道の抑えの拠点となりました。
そんな武田氏の居城は甲府の躑躅ヶ崎館でしたが、武田信玄の後を継いだ武田勝頼は、現在の韮崎市に新府城を新たに築城し居城を移しました。
甲府駅からレンタカーで新府城へ移動します。
車で30分程度でした。電車だと20分程で最寄りの新府駅に着きます。
無料駐車場から登城口に向かう途中、道の左手に何やら土塁のような盛り上がりを確認しました。
特に説明の看板がある訳ではなかったのですが、どう見ても土塁です。
マップを見ると、城郭東側の曲輪と枡形虎口がこのあたりにあったようです。
遺構と分かれば行かないと気が済みません。笑
先ほど見た土塁跡からさらに道沿いを歩くと、曲輪のような広い敷地が広がっています。
影で分かりずらいため写真を加工。
土塁の中央部に切込みがあります。
この切込みが枡形虎口の入口になるかと思われます。
上から見ると正方形の枡形になっており、90度折れ曲がって、さらに門跡のような土塁の切込みがあります。
マップにも詳細がないので、あくまでワタクシの予想ですが、枡形虎口が形成されているような造りを確認できました。
土塁が低いように思えますが、当時は間違いなくもっと高さのある土塁だったと思われます。
東側の曲輪の道を挟んだ目の前には新府城の看板と、新府藤武神社の鳥居があります。
こちらを登れば本丸まで最短ルートで行けるのですが、ここはスルーしましょう。
当時の道はもっと先にあります。
正規のルートから登城すると整備された道が続きます。
比較的緩やかなので登りやすいです。
5分ほど登ると南大手門跡が現れます。
あまり道は良くありませんが、南大手門跡の内部にも行ってみました。右側の土塁をまわり込むように90度折れ曲がります。
左側の高い壁はこの次に周る大手門の土塁になります。
近くには大手門もあるので、どういった意味合いで造営された門なのかは不明ですが、遺構としては残っています。
南大手門跡の向かい側には帯曲輪があります。帯曲輪が城郭の大半をぐるりと囲んでいます。
南大手門をさらに登ると広い敷地が広がり、すぐに大手枡形虎口が現れます。
発掘調査を元に整備され、高さ3.4mの土塁が待ち受けます。
奥には富士山が綺麗に見えます。
土塁の上からのショット。
右側の開けた枡の形をした箇所が枡形で攻めてきた相手を三方向から攻撃ができます。東西20m・南北15mという巨大な桝形です。
石垣造りの近世城郭ではデフォルトの防御設備となりました。しかし、新府城の築城は1581年なので石垣の近世城郭は普及していない時代。土造りでこれだけの設備を造営したのは凄いです。
枡形虎口の先端には半円状の丸馬出が設けられています。甲州流築城術とも呼ばれ武田氏が築城した城に多く見られるのが丸馬出。
主に重要な虎口の前に設けられ、兵を駐屯させる防御施設の一つ。半円状にすることで死角を減らし、どこからでも攻撃できるように工夫されています。
東西約30m・南北約15mでやや低めの土塁で半弧を囲んでいます。
新府城の歴史背景を考えると戦国時代のとても緊迫した城跡なのですが、富士山がとても綺麗すぎてつい見惚れてしまいます。
400年以上前には武田勝頼もきっと同じ景色を見ていたことでしょう。
丸馬出を囲むように堀が設けられており三日月のように半弧を描いています。
丸馬出と併せて三日月堀が甲州流築城術の特徴です。
再び登城路に戻り本丸を目指します。
道中には南三の丸と西三の丸がありますが、草が多すぎて全く遺構を確認することができない状態でした。
二の丸を囲む土塁。
二の丸の虎口。二の丸にも虎口の前には馬出が設けられています。
馬出も草木が多くてあまり良い感じの写真が撮れず。
二の丸は本丸の次に高い位置にあり、東西55m・南北75mの長方形の曲輪。
二の丸と向かい合う形で本丸が展開されています。
本丸の虎口。喰違いになっており、90度折れ曲がってさらに90度折れ曲がる構造になっています。
本丸は新府城で一番広い曲輪となっています。
東西90m・南北150m。本丸には築地塀や礎石が発掘調査で発見されています。
新府城は天正9年(1581年)に築城され、短期の突貫で造られた城でした。築城には真田昌幸なども深く関わっていると伝わります。
しかし、織田・徳川連合軍の侵攻を受け、完成からわずか68日後の1582年3月に勝頼自身が火を放ち岩殿城へ脱出。
武田勝頼は名家の武田家20代目当主でしたが、武田氏は脱出後に滅亡します。
新府城は未完成だったそうで、さらには僅か68日間の短命の城だったので今でも謎が多い城と言われています。
一度、下山して北側に周りさらなる遺構を見に行きます。
北側には大きな堀跡が残ります。堀の中で出構という突起があります。
新府城の北側は全面的に堀で防備していますが、東と西に二か所に設けられています。
写真は県道からも見ることができる東出構。
ただ、造成された目的は今だ不明で、北側からの侵入者を迎え撃つ施設という説もあれば、堀の水の調整をする施設という説もあります。個人的には敵を迎え撃つための施設であって欲しいなと思ってしまいます。
こちらは西出構。東出構と西出構の間には堀があったことが調査で発見されています。
西出構には帯曲輪から行くことができます。
牛タンのように長く突き出しているのが分かります。
西出構から見た東出構方向。
こちらに堀があり北側を防備していました。
堀沿いは農道になっていて整備されています。この道から見る山脈はとても美しい。
八ヶ岳もバッチリ見えます。
西出構を進むと高い土塁と水堀が現れます。この土塁の裏側が乾門桝形虎口となります。
わかりやすい程の土橋。
左手は深い空堀になっており、右側は七里岩という有名な断崖絶壁になります。
土橋の左側は見事な深い空堀。
新府城の西側は七里岩という天然の要害で守られています。
七里岩の由来は長野県の蔦木から山梨県の韮崎市まで絶壁が七里(27.3㎞)続いていることからと伝えられています。
乾門桝形虎口が城の最西端になるので、目の前で七里岩を見下ろすことができるのですが、ほぼ垂直に切り立っていてかなり危険です。
西側から新府城を攻めることは間違いなく不可能です。
乾門枡形虎口。大手枡形と同様に四角の枡形を形成していて、防御力を高めています。
大手枡形には建築物の遺構が確認できなかったようですが、乾門枡形においては柱の跡や礎石が発見されたことで、大きな門が構えられていたと考えられています。
門の柱は焼け落ちた状態だったことから、武田勝頼が最後に自ら火を放ったという史実は現実味が出てきます。
北側の土塁は綺麗に残っており高さもあります。この土塁の反対側には深い堀があります。
城の北西側は幾つもの空堀や土橋で複雑な造りをしています。
土橋から見た空堀。乾門枡形から二の丸までのエリアが個人的には山城らしさが満載で好きです。
本丸の景色を見て帰ってしまう方もいますが、是非このエリアを見逃さないで頂きたい。
空堀で突き出ている場所には木製の橋が架けられていたと考えられています。
水堀から見た木製橋跡がある堀。ここだけ複雑な形状をしています。
発掘調査で土が突き固められて強固な造りになっていることから、橋が架けられていたと推測されています。
さらに二の丸方面は上がっていくと井戸跡があります。
すり鉢状に深く窪んでいるのを確認できます。七里岩台地の岩盤で地層が硬いことから、染み出した水や雨水を溜めていたと考えられています。
新府城は謎が多い城なので、発掘調査次第では新たな発見も期待できる城とも言えます。
車の移動であれば、城郭の近くに韮崎市民族資料館があります。
ここで、新府城のマップをもらうことができます。
城内にはパンフレットがないため、こちらでパンフレットマップをゲットしてから登城することをお勧めします。
城郭内は比較的綺麗に整備されているので、周りやすいと思います。草木がなければもっと多くの遺構を確認できたのかなと思いますが、今後に期待したいと思います。


























































































