つぶやき城ー。訪城記録

つぶやき城ー。訪城記録

まだまだ初心者の、城をどこまでも愛する男。

旅のついでに行った城が、今では城に行くための旅が何よりの楽しみ。

一つとして同じ城はなく、全ての城に歴史と個性がある。

見る角度、見る季節、見る天気によって表情が変わるその姿に恋をした。

2026年3月29日

 

九州遠征3日目 2城目は鹿児島県志布志市志布志町の志布志城です。

インパクトが強い城です。

 

鹿児島城からは車で1時間30分ほど。予定通りに志布志市に到着しました。

志布志城は内城・松尾城・高城・新城の4つ山城の総称です。


その中で内城が主城となり、高城と新城は立入ができないと情報を得ていたので、今回は内城と松尾城を攻めることにしました。

 

志布志城を攻める上で、まずは埋蔵文化センターに行きパンフレットを入手して志布志城の模型を観覧します。

志布志城は巨大城郭なのでパンフレットは必須です。

模型はとても詳細に造られているので、攻める前に頭にイメージを叩き込みます。

模型を見るだけでも、ただならぬ城郭です。

この模型は4つの城の内の1つ、内城です。

 

続日本100名城のスタンプは埋蔵文化センターで押印することができます。

 

その後、JR志布志駅に行き駅構内にある総合観光案内所に行き、御城印を購入しました。

 

志布志城には麓に無料の駐車場があります。観光案内所の方にルートと駐車場を確認していたのでスムーズでした。

駐車場から歩いて数分ほどで松尾城の登城口に到着です。

民家の細い脇道を進むと早々にシラス台地を削った切通を見ることができます。

登城路を進んで早々に、山を切り裂いたような巨大な空堀が出現!

志布志城はこの土地特有のシラス台地に造られた城です。

シラス台地とは鹿児島県と宮崎県に広がる約3万年前の巨大噴火によって堆積した、火山灰や軽石でつくられた台地です。

垂直に削られており迫力ある空堀になっています。

松尾城は初期の志布志城の主城であったと考えられています。

松尾城は本丸までの道のみが整備されています。周りには曲輪のような平場や、堀が見受けられますが基本的には藪になっています。


しかし、曲輪と思われる平場は規模が小さいように思えました。

本丸までは歩いて約10分ほどで本丸に到着です。

尾根の上部に位置しており、本丸も小さな曲輪となっています。

そして小さな神社があります。

神社の裏には土塁が確認でき、この裏には堀切があるようです。

 

整備されているのは本丸までで、実際は連郭式に尾根上に曲輪が展開されているようです。

登城して来た道を戻り、今度はメインとなる内城に向かいます。

内城の登城口から見た松尾城。

内城と向かい合うように松尾城は位置しています。

内城も民家脇の通路から登城します。

内城には説明看板もあるので、松尾城よりも整備がされています。

登城口から見た内城。

内城は標高50m程で、外から見ると普通の山にしか見えませんが、森の中はとんでもない仕掛けが満載です!

文章だけで説明するのは難しい為、手書きのマップを書きました。

大手口から入城します。

大手口の民家脇を進むと松尾城と同様に、垂直に削られた切通の登城路が現れます。

ワタクシが見たこともない凄まじい山城の入口です!

南九州では白い砂を「しらす」と呼ぶことから、シラス台地と呼ばれるようになりました。

削った箇所は火山灰の白い地層が見えます。

入城してすぐに矢倉場と呼ばれる曲輪1があります。

この曲輪からは柱穴や杭跡が発掘調査によって発見されています。また中国産の磁器や陶器も出土しています。

矢倉場の先端部。

志布志城には各所に解説板とQRコードが設置されています。

QRを読み込むと360°ビューのCG映像を見ることができます。

映像には城を守る武装した城兵もいて、かなり緊張感があり面白いコンテンツでした!


矢倉場では縄文土器も発見されていることから、遺跡があった場所に築城したと考えられています。

城郭東側を見て周るには、矢倉場から階段をおります。

階段を下りるとT字路となり、大規模な空堀が現れます。

空堀の右方面は志布志小学校に繋がります。

T字路を左に進みます。

大迫力のスケールに誰もが圧倒されること間違いなし!これが序盤の序盤です!この先どんな遺構が待ち受けているのか・・・

城郭東側を空堀の中を進むと搦手口が出現。

搦手口の切通はさらに圧巻!

ワタクシは普段は関東をベースに活動しておりますが、関東ローム層で造られた土の城とはまた違ったテイストに、ボルテージが上がりっぱなしです。

ほぼ垂直に削られた台地は、高さ10m以上は余裕であります。写真に納まりきらないほどの高さ。

人工的に造られた遺構に神秘性すら感じます。


このスケールの城は、お目にかかることができません。鹿児島県に来たら志布志城は絶対に行って欲しい城!

一眼レフで撮影しつつ、動画も撮影して忙しなくも搦手口を堪能しました。


基本的に毎回一眼レフで撮影しており、写真整理と色彩を調整してから写真を上げているので、いつも城めぐりをした後は、膨大な時間を要するので大変なのです。


それでもやはり素晴らしい景色や遺構は、なるべく綺麗に残して魅力が伝わるようにと拘っています・・・

搦手口から引き続き東側の空堀を進みます。

美しい遺構に見惚れてしまいますが、敵なら絶対に攻めたくないなと終始考えてしまいます。

志布志城 内城の北側にはの大野久尾と呼ばれる曲輪6があります。

しかし、途中で草木が多くなったので断念しました。

続いて曲輪5にあたる中野久尾に向かいます。

中野久尾曲輪5と曲輪4を分断する堀切。

中野久尾は堀切で分断されており、曲輪5上段・下段と曲輪4上段・下段で分かれています。

写真の下の道は曲輪4と曲輪5を分断する堀切。左側は曲輪5(中野久尾)に向かうための通路。

曲輪5(中野久尾)の虎口。

細い通路でぐるりと周り込んでいるため、敵の侵攻を阻んでいます。

削られた地形を周り込むため先が見えず、攻める側としては恐怖しかありません。

振り返っての一枚。

大勢で攻めても一人しか通れないような細い道の先には、この圧迫感のある切通の虎口となります。

虎口は90°折れ曲がり、ちょっとした枡形のようなスペースとなっています。

右側は曲輪で左側は土塁。

曲輪5の中野久尾は広めの曲輪になっています。

曲輪の周囲には土塁をめぐらせています。


続いて堀切に戻って城郭西側に移動します。

曲輪4と曲輪5の堀底を歩いて西側に出るとT字路になっており、志布志城の見どころ、西側の大空堀を見ることができます!

写真は本丸方面の大空堀。

大野久尾方面の西側大空堀。

こちらの道を進んでみました。

左側が大野久尾(曲輪6)、右側が中野久尾(曲輪5)を分断する堀切。


途中まで進みましたが、やはりこちらは草が多かったので、大空堀を通って本丸方面に向かいます。

やはり西側の大空堀は圧巻です。高さ10m以上の垂直に切り立った空堀。城郭西側は、このスケール大空堀で守られています。

中野久尾(曲輪4)と本丸の堀切。

堀底を歩いて東側から西側に再び移動。

堀の中間くらいは盛り上がっており、スムーズには進めないようになっています。

堀底と曲輪までの高低差が凄まじく、本丸と曲輪4の両方から狙われたら一貫の終わりです。

再び城郭東側の搦手口付近に戻ってきました。

東側から本丸に向かいます。

本丸には登山道のような狭く勾配のある道を進みます。

いよいよ本丸跡に到着です。

志布志城は1336年には存在していたと記録が残っています。


1336年は鎌倉時代が終わり、南北朝時代に突入した時期です。

志布志城は楡井氏、新納氏、畠山氏、島津氏(豊州家)、肝付氏など、度々 城主が変わっていますが、最終的には島津氏(宗家)が領有します。


その後、志布志城は争奪戦が幾度か繰り返されますが、島津氏が支配していた江戸時代の一国一城令によって廃城になったと考えられています。

本丸に祀られた三宝荒神。

写真は撮りませんでしたが、三宝荒神はかなり高い土塁?矢倉場?に建っており、この祠の裏側が中野久尾(曲輪4)との深い堀切になっています。

本丸は50mくらいの広場になっており、CG映像では建物が並んでいました。

本丸には、まるで聖域のように明るい日差しが降り注ぎます。

本丸には上段と下段があり、三宝荒神がある曲輪が本丸の上段となります。

階段を降りると本丸下段となります。

本丸下段の曲輪。

この先には展望スポットがありますが、草木が生い茂っているのと、霞んでいたのであまり綺麗には見えませんでした。


しかし、本来であれば志布志港が一望できます。

志布志城は海に近い城で、志布志の港は990年前に開かれた島津荘の港として発展。


交通の要衝であり、海外との貿易拠点、海運物流など、軍事・物流・商業の重要拠点だったことで、争奪戦が繰り返されたと考えられます。

発掘調査では中国産の陶磁器、東南アジアの陶器、国内各地の陶器が出土しています。


その他にも中国の銭貨や朝鮮や琉球の銭貨も出土しているので、志布志港が広い貿易の拠点だったことを示しています。


発掘調査での柱穴跡から、最低でも2棟以上の建物があったと推測されています。

本丸下段から曲輪2上段に移動します。曲輪間は空堀で仕切られていますが、堀底を通って移動することができます。

曲輪2と本丸を分断する、断崖絶壁の堀切!

曲輪2上段。

この曲輪では多数の柱穴と土杭から複数の建物があったと考えられています。

さらに礎石のような石が置かれている箇所もあったので、大規模な建物だった可能性があります。


今は時が止まったような、静かな平地です。

曲輪2と本丸の堀切

上から見ると完全に崖です!立っている方も恐怖を感じるほど高く垂直。


掘ったというよりは、山を削り落としたと言う方が表現的にはしっくりきます。


どこを歩いても深い堀を巡らせているので、どの場所の写真か分からなくなってきました。

曲輪2下段もありますが、草が多くて断念しました。

西側からの本丸登城口。左側は本丸下段です。

ワタクシはなるべく広範囲を攻めたいので、遠回りをして本丸まで到達しましたが、大手口から真っ直ぐ西側を直進すればこの堀切にでます。


本丸への最短ルートになります。


写真や動画を撮りながら周っているので、松尾城と内城で2時間半ほどでした。

今まで見たことがないスケールの空堀や堀切を楽しむことができました。

他に高城と新城があると思うと、志布志城は相当な巨大城郭です。


廃城になり、そのままの状態で時が経過したような遺構の数々。鹿児島市から距離はありますが、行く価値は十分あります。


引き続き車に乗って、宮崎県の飫肥城へと移動します。

2026年3月27日

 

九州遠征2日目 2城目は佐賀県の肥前名護屋城に初訪城です。

唐津城からは車で30分なので、セットで攻城する人も多くいます。

 

名護屋城は豊臣秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役の際に大陸侵攻の軍事司令本部及び、前線基地として築城したのが始まりです。

全国の大名が集結し、名護屋城の周辺に150以上もの陣屋を構えたことで、一大軍事シティが完成しました。

城の周りには城下町が築かれて、最盛期には20万人を超えるほど繁栄しました。

在城期間は日本経済の中心地だったとも言われています。


築城は1591年から始まり、全国の諸大名が普請をして僅か5ヶ月で築城したと伝わります。

大陸侵攻は国家プロジェクトだったことがデータから見ても理解できます。

名護屋城は日本100名城で国の特別史跡です。

 

 

名護屋城には大手口付近に無料の駐車場があります。


そして駐車場から早速見えてくる東出丸の石垣。突き出した形状をしていて、まるで駐車場から登城してくる観光客を見張っているようです。

駐車場からチケット売場方面に歩くと、大手口の井戸跡があります。

石垣で構成された井戸で通路よりも低い位置にあるので、埋まっていた井戸跡を一般に見れるように整備したのでしょうか。


入城チケットを購入すると、城内のパンフレットをもらうことができます。名護屋城は広大な城郭なので地図は必須です。

名護屋城に集結した大名の看板。

豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、伊達政宗、黒田官兵衛・長政、石田三成、島津義弘、上杉景勝、直江兼続、真田昌幸、真田信繁(幸村)、加藤清正、福島正則、宇喜多秀家、長宗我部元親、津軽為信、藤堂高虎、細川忠興、毛利秀頼などなど、まるでゲームのような戦国オールスターズが集結しました。


これだけの大名が陣を構えた城は全国でも名護屋城のみです。

チケット売り場から見た大手口。

この時点で既に名護屋城の凄さをヒリヒリ感じます。

大手口。左側は三ノ丸の石垣で、右側は櫓台になります。

内部から見た大手口。

想像を超えた迫力の石垣になかなか先に進むことができません。

石垣の上部や隅石は失われていますが、綺麗に残っています。

大手口の櫓台。

櫓台には二重櫓が建っていました。階段など綺麗に残っています。

現地の解説看板の写真。

大手口を抜けると登城坂を上る設計となっています。

大手口の三ノ丸側石垣は石垣が崩れていますが、形状を留めており、模型の通り大手口の箇所が突き出した形状になっているのが分かります。

登城坂を上って三ノ丸→本丸の順で周ります。

登城坂の左側には三ノ丸があり、三ノ丸を囲むように石垣が形成されています。

登城坂はおよそ幅8m、距離100m。この長い距離全てが石垣です。

登城坂に鏡石のような大きな石垣を確認。

加工された石材で石が積まれており、豊臣期の石垣技術における、最終形態の先進的な積み方です。

登城坂の右側は広場となっており、建物の跡が発見されています。

そして、東出丸は突き出した形状の曲輪で、駐車場から見えた石垣がこの東出丸の石垣となります。


登城坂を上りきると、T字路になり分岐します。

右側が東出丸、左側が三ノ丸に続く道。

東出丸の櫓台石垣。

櫓台の石垣は自然石を使った野面積みです。

櫓台石垣。

ここには二重櫓と門がありました。

東出丸の櫓台も上部は壊れていますが、綺麗に石垣が残っています。

裏側に櫓内部に入るための階段も残っています。


櫓台の上から見た東出丸。

東出丸からは三方角を望むことができ、名護屋城の東側を監視と警護する曲輪でした。

櫓台から見た門跡と三ノ丸の石垣。

門脇には平屋建ての多聞櫓が建っていました。

東出丸から見た大手口脇の曲輪。防御力の高い高低差を感じることができます。

東出丸から見た駐車場と名護屋城博物館。

続いて三ノ丸に入っていきます。

登城坂から180°回り込むような設計となっています。

三ノ丸の門跡の石垣は特に壊れてしまってますが、櫓門形式の立派な門が三ノ丸を守っていました。

門跡を抜けると三ノ丸が広がります。

三ノ丸は本丸を守る重要な曲輪でした。

三ノ丸には井戸も残ります。現在は深さ2mほどですが、当時はもっと深く掘られていたと考えられます。

三ノ丸はから見た本丸の石垣。

崩れた石垣でさえ愛おしく感じてしまいます。

そして本丸に行くには本丸大手門跡を抜けます。名護屋城は廃城後に石垣は人為的に破壊され、他の城に転用されたりしました。

本丸大手門も大部分が意図的に壊されたように思えます。

本丸大手門の桝形部分。

石垣は崩れていても、その形ははっきりと残っています。

本丸大手門は二層の豪壮な櫓門であり、後に仙台城主 伊達政宗が仙台城の大手門に移築したと伝わります。

仙台城の大手門は国宝でしたが残念ながら仙台空襲によって焼失しました。

仙台城で撮った解説板。

仙台城の大手門は日本最大規模だったそうです。


この豪壮な門が名護屋城のこの場所にあった可能性があると考えると、より一層 仙台城の大手門が焼失したことが悔やまれます。

本丸大手門からから三ノ丸を眺めると、三ノ丸櫓台を見ることができます。

名護屋城で最大規模の櫓です。二ノ丸方面から攻めます。

本丸の南側には、本丸旧石垣があります。

名護屋城は築城後に大規模な改造が行われていることが発掘調査で判明しています。


本丸は南側と西側への拡張が行われており、伴って完全に埋められていた石垣が発見されました。


埋められている高さは10m以上と推定されています。埋められている規模も規格外!

ここでは一部を掘り下げて観覧できるようになっています。

本丸の南側の拡張されたエリアには新しく櫓が建てられました。

城が破却された際に、併せて櫓台も崩されたようで、今は建築物を支えていた土台の石列が残ります。

新石垣櫓台がある本丸南側から撮影した姫のかげ溜池。

同じく本丸南側から見た弾正曲輪の石垣。弾正曲輪の石垣が名護屋城の中でも迫力ある石垣の一つです。

本丸南側から見た馬場と馬場櫓。

馬場は本丸南側の下に設けられた腰曲輪のような細長い曲輪です。後ほど周ります。

本丸南西隅櫓跡。

隅櫓の隅石が発見されています。天守と同様に物見としての役割がありました。。東西南北10mの規模で二階の櫓だったと推定されています。


地面が赤くなっているのは、名護屋城が破却された際に石垣を崩しただけでなく、30㎝ほど土を盛って礎石は埋められていたそうです。

 

盛土されていた範囲を赤く分かりやすくして、礎石の遺構は土に埋めてレプリカの礎石を表面に出しています。


礎石がL字になっていることから付櫓があったと考えられています。

そして本丸南西隅櫓の脇には多聞櫓がありました。

礎石から推定すると全長55m、幅8mほどの巨大な多聞櫓でした。


イメージとしては規模的には福岡城の現存している多聞櫓と同規模くらいです。

多聞櫓周辺から見た二ノ丸跡。

多聞櫓周辺から見た弾正丸。石垣も確認できます。

本丸跡。

本丸の広さは東西130m、南北125mで標高は約90mです。

本丸には御殿が立ち並んでおり、北西隅には天守が建っていました。

天守台の隅部と遊撃丸。

天守台の直下には遊撃丸という曲輪が配されていました。

そして、名護屋城のシンボルでもある天守が建っていた天守台。

名護屋城の天守は望楼型5重7階で、高さは25m〜30mと推測されています。


金箔瓦も出土していることから、豊臣大坂城のような豪壮な天守だったと思います。

天守台には16個の礎石が現存。24個の礎石で高層建築の天守を支えており、穴蔵となる地階には玉石が並べられていました。

天守台から見た遊撃丸。

崩された石垣と土塁が残ります。水手曲輪と二ノ丸の中間にあり、武器や兵糧を格納していた建物がありました。

天守台から見た景色。やや霞んでいるものの晴天で美しい玄界灘を見ることができました。

間違いなく豊臣秀吉も見た景色。

この先には朝鮮半島があります。まさに名護屋城とこの景色は豊臣秀吉の夢の跡です。

霞が無い時は対馬も見えるようです。

天守から見た呼子大橋。

ベンチに座って、ただただ美しい海を眺めていました。

天守台から見た多聞櫓跡。

多聞櫓と天守の間はスリットになって引っ込んでいます。

天守から見た水手曲輪。

水手曲輪は本丸の北側の下に設けられた曲輪で、水利の悪さが欠点だった名護屋城は、水手曲輪に貯水池を造って雨水を貯めて使用していました。


この水手曲輪を通過することで遊撃丸に繋がります。

本丸北口門から水手通路を下り、上山里丸方面に行きます。

水手口に向かって坂道を下ると、水手曲輪や本丸の石垣を見ることができます。

雛壇状に段々になった石垣が特徴です。

水手通路を下りきると民家があります。

こちらの民家の下には高さ8m〜10m程の立派な石垣を見ることができます。


絵図では水手通路の麓には櫓門形式の水手口門があったので、この民家のあたりかなと思います.

水手通路の下には山里曲輪、下山里曲輪、上山里曲輪が展開されています。

上山里丸の階段を上ると、草庵茶室跡と井戸跡があります。

この上山里丸は豊臣秀吉が日常を送った場所です。

絵図には御殿などが描かれており、草葺の櫓門と草庵茶室と思われる建物が描かれています。


発掘調査で明らかになった、茶室跡、井戸、石段、柵列を盛土をして遺構保存した上に新たな石で遺構表示をしています。


秀吉の茶室は全国に複数あったと考えられていますが、実際に茶室の跡地が見つかったのは現段階では名護屋城のみだそうです。

茶室跡の石垣。

続いて、上山里丸から二ノ丸に移動します。

二ノ丸には船手口から入城します。

船手口には櫓門と二重櫓が接続していました。

左側が櫓台となります。

歴史博物館に展示されている模型は細かく再現されており分かりやすいです。

この場所に櫓門が立っており、道の反対側が櫓が建っていた石垣です。

船手口から見た遊撃丸と天守台。

奥の高くなっている曲輪が本丸の天守台になります。

船手口を抜けると二ノ丸が広がります。

名護屋城の幾つもある曲輪の中で、広大な敷地を誇る曲輪です。

二ノ丸の西側には二ノ丸合坂と呼ばれる階段付きの石垣が立ち並びます。


総延長110mに合坂と呼ばれる相対する石段が3か所あります。城の西側を防御する施設と思われ、模型では土塀と多聞櫓があがっていました。

随所で失われた石垣は人為的かつ徹底的に破壊されています。

また、発掘調査では階段の最下部から大量の瓦や軒丸瓦が出土しています。


瓦を捨てた後に石垣を破却したことが判っています。

迫力ある石垣に見惚れて記述していなかったのですが、桜も見頃を迎えており至る所で綺麗に咲いていました。


完全に花より石垣。

武器や兵糧を補完する施設として二ノ丸は機能しており、長屋建物跡が見つかっています。

分かりやすく礎石の位置を表しています。

船手口から見た遊撃丸の石垣と天守台。

遊撃丸の石垣はV字型に破壊されていますが、綺麗に残っています。

秀吉の死後、1602年には唐津城に建物は移築され、一国一城令で徹底的に破壊されました。


その後は歴史の表舞台から消えて長い眠りについていましたが、そのままの状態で残っています。

遊撃丸の虎口跡。

天守台の直下にある曲輪なので、本丸が綺麗に見えます。

遊撃丸では1593年に明国との講和使団の遊撃将軍が滞在してもてなしを受けた曲輪として伝わります。

この講和によって日本は朝鮮半島から撤退。しかし慶長期に再び出兵することになります。

遊撃丸から見た天守台。

天守台は特に石垣が崩されており、石垣の原型は残っていません。やはり城のシンボルを壊すことで廃城の証となったのでしょうか。


もしくは、天守台には質の良い石と技術が盛り込まれていたので、他の城で転用するにはちょうど良かったのか。

理由は謎ですが、それも全て含めてロマンです。


水手曲輪から見た天守台は見上げるほど大きく、この上に25m以上の高層天守が上がっていたことを妄想を膨らませます。

遊撃丸から本丸沿いを歩き、本丸石垣を堪能しながら馬場方面に向かいます。

同じく二ノ丸から見た本丸石垣。

もはや崩れた石垣さえアーティスティックです。

馬場は本丸の南側にあり、南西の隅には先ほど見た本丸南西隅櫓の石垣を見ることができます。

崩落の危険性があり、一部修復がされています。

馬場に設けられた馬場櫓跡。

鏡石のような大きな石材も使われているのが特徴。

平成7年に馬場櫓は解体修理がされています。

馬場から見た本丸南側石垣。

馬場と本丸は高低差が12m程で、馬場も崩落の危険がある箇所は、積み直しの修復をしています。


あくまでこの崩れた姿が、名護屋城にとっては正の姿なので、崩れた姿のままに修復されています。


少し不思議な感覚です。

馬場は三ノ丸と二ノ丸の連絡路のように繋いており、馬場の三ノ丸側には三ノ丸櫓台があります。

三ノ丸櫓台には名護屋城で最大規模の櫓で、石垣は破壊されていますが鏡石が今でも残ります。

櫓台の脇には門の礎石もあり、馬場と三ノ丸を仕切っていた門があったと思われ、枡形空間になっています。

左側が三ノ丸櫓台、正面は本丸の石垣。

三ノ丸櫓台の鏡石。

ど迫力な巨石で、この鏡石も城内最大規模となります。この櫓台の上には二重の櫓が上がっていました。


名護屋城に幾つもあった櫓の中でも、ここは櫓台の大きさが別格。

三ノ丸櫓台の入口階段。

馬場から見た弾正丸の石垣。弾正丸の石垣は迫力があります。

馬場から弾正丸に移動します。

弾正丸には秀吉の姻戚関係にあった五奉行の筆頭、浅野弾正長政が住居していた曲輪です。

弾正丸から見た本丸石垣と、本丸南西隅櫓跡。

弾正丸から見た馬場と本丸南側。

何とか身体を乗り出して、弾正丸の石垣のも写真に映るように頑張って撮影しました。

弾正丸には名護屋城の搦手口が設けられています。

搦手口は桝形になっており、堅い守りの虎口となっています。

弾正丸は二ノ丸と接続した重要な曲輪なので、信頼のおける浅野長政に守らせていたと考えられます。

模型では櫓門形式の城門と続櫓、二重櫓が一体化した造りになっています。

かなり防御力高めの設計です。

下から見た搦手口。

ここに模型のような城門があったと考えると、敵だけではなく、この地に集められた大名も反旗を翻す気は起きなくなります。


名護屋城には有力大名に力を見せつける役割もあったと個人的には考えています。


搦手口から下におりて最初に登城した大手口に戻ります。

下から見た弾正丸の石垣

現在発掘調査をしているのでしょうか。


弾正丸の下には至る所にブルーシートが掛けられていました。

下から見た馬場の石垣は1番迫力あります。

幾つもV字になって石垣が崩れているのは、破却された跡になります。

石垣だけが残る名護屋城ですが、豊臣秀吉の権威を感じる迫力。

名護屋城に訪れる人は皆、壮大な石垣を目の当たりにして驚いたと思います。


現代の我々が見ても重機が無い時代に、これだけの土木工事と石垣を運んで積んだ労働力に驚かされます。

再び大手口に戻りました。

三ノ丸の南東隅の石垣。


大手口の近くには名護屋城博物館があるので、マストで行くべき施設です。

御城印も博物館で販売しています。

秀吉のプライベート空間だった山里丸にあった草庵茶室が博物館の1Fに復元されています。

床や壁も竹で作られた空間で、全面的にグリーンで奥ゆかしさを感じます。

派手好きな秀吉のイメージとは真逆な落ち着いた雰囲気。

展示されている出土した瓦や皿なども展示されています。

博物館に展示されている模型は、広大な名護屋城の全体をイメージできるので必見です。

大陸侵攻で使用された軍艦。

軍艦に城郭建築の櫓が鎮座した豪勢な造り。狭間も設置されており、海に浮かぶ城というイメージです。

博物館の展示品で目玉は、やはり復元された黄金の茶室です。

先ほど見たプライベートな草庵茶室とは180°異なる秀吉らしい派手な空間。

政治・外交上の重要な場面で披露された黄金の茶室は、秀吉の権威と財力を見せつけ圧倒するツールの一つでした。

この眩しすぎる空間に秀吉がいたら、まるで神か仏の様に見えたのかもしれません。

それくらい神々しく輝いています。

博物館を観覧した後は、山里口に向かいました。

山里口は現在、独立した場所にある為一度城外に出る必要があります。


駐車場から遠くはないのですが、山里口の前にも駐車場があったので、車で来た方は効率よく車で周った方が良いかもしれません。

上山里丸に通じる虎口が山里丸で、自然石をふんだんに使った野面積みを見ることができます。

山里口はかなり防御力が高い造りになっており、何度も折れ曲がる連続枡形になっています。

平成に最小限にとどめた解体修理が行われ、階段も整備されました。当時の様子を一番残しています。

この連続枡形は見ものです。

秀吉のプライベート空間に繋がる上山里丸に繋がっているからでしょうか。至る所に鏡石の様な巨石も使われていて威圧を感じます。

枡形の上部。本来はここから上山里丸に繋がりますが、現在は広沢寺の敷地のため階段の先には進むことができません。

熊本城の連続枡形をコンパクトにしたような造り。

難攻不落の熊本城を築城した加藤清正は、後の唐津城主となる寺沢広高と共に、名護屋城の普請奉公を担当していました。

普請奉公とは現在の工事責任者です。


熊本城の築城における設計のヒントは、この名護屋城にもあったと思われます。

山里丸の前にある畑。

堀下がった平場となっており、堀の跡だったと思われます。


まだ太閤井戸など見るべき箇所はありましたが、おおよそ名護屋城を周ることができました。

この時点で既に3時間が経過。

本来は大名の陣屋も周りたかったのですが、時間の都合上何とか前田利家陣屋だけは周りました。


名護屋城の駐車場からは歩いて5分ほどで到着できます。

前田利家陣屋では発掘調査が進められているのかブルーシートが被せてありました。

前田利家陣屋の居館にあった大手虎口。

陣屋なのにこの石垣。最大で高さ5mで、名護屋城に劣らぬ造り。

立派な城レベルの枡形虎口です。

加工された石材で積まれており、先進的な石垣は徳川家康の陣屋など、限られた大名の陣屋でしか見ることができません。

前田利家陣屋は名護屋城からも近いのでオススメです。専用駐車場もあります。

前田利家陣屋から見た名護屋城。

東出丸の石垣が見えます。


また名護屋城には再城して、陣屋めぐりをしたいと思います。

計画より時間オーバーしましたが、それでも十分に楽しむことができました。


豊臣秀吉が築いた大坂城に継ぐ巨大城郭だったと言われている名護屋城。


今の大坂城は、徳川幕府によって築かれたもので秀吉時代の大坂城は幻の城として地中に眠っています。

しかし、この遠い佐賀の地に確かな片鱗を見ることができました。

九州遠征2日目 1城目はレンタカーを借りて博多から佐賀県の唐津城に向かいました。

今日はハードスケジュールですが、念入りに計画していたので、あとはトラブルが無いことを願いながら向かいます。

 

博多から高速で1時間ほど。朝6時半にホテルを出発して7時半には唐津市に到着。

唐津城の麓に広めの有料駐車場があります。

 

車を乗っていて、舞鶴橋を通過している時点で美しい唐津城が見えていました。

完全に別世界で海と天守が美しく朝日に照らされています。

 

唐津城は寺沢広高が初代藩主となり、関ケ原の戦い後の1602年より7年の歳月をかけて唐津城と城下町の整備、松浦川の改修などを行い唐津の基盤を造りました。新設もあるので後ほど!

駐車場は松浦川に面しているので、爽やかな朝焼けを見ることができました。

左側に見える大きな橋が、先ほど車で通過した舞鶴橋。

予定通り早く着いたので、9時の天守開館の時間までは各所で写真を撮りに行きます。

写真は舞鶴橋からの写真。唐津城は海に浮かぶ軍事要塞です。

唐津城の対岸にあたる満島漁港からのショット。

唐津城は東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更する大工事を行いました。

櫓台や城郭を取り囲む石垣が、海から生えたように聳え立ちます。

再び舞鶴橋を渡り城郭内部に入ります。

先ほど見た海沿いの石垣を歩いてみます。

 

入口には石垣と土塀、奥には本丸腰曲輪櫓があり城郭の雰囲気を楽しむことができます。

海沿いは腰曲輪になっており、細長い曲輪が主郭部を取り囲んでいます。腰曲輪には仕切りのような石垣もあります。

海に面して涼所櫓跡があります。

絵図では二重櫓が建っているように見えました。解説板などは無いので詳細は分からないのですが、立派な石垣を目の前で見ることができます。

石垣の中に石樋も確認できます。

涼所櫓跡からのショット。

海に聳える石垣の城は珍しく、有名なのは山口県の萩城があります。

 

石垣の前に転がる石材も、おそらく当時の石だと思われます。

唐津湾と満島漁港。

先ほどは、先に見える漁港から写真を撮りました。

海に浮かぶ石。

なぜ海の中に石が浮かんでいるので不思議に思っていましたが、後ほど入手したパンフレットにしっかり記載がありました。

初代藩主 寺沢氏が海からの侵略防備のため、廃城になった名護屋城の石垣を用いて築かれた設備のようです。

 

腰曲輪を歩くと早稲田佐賀中学校・高等学校が見えてきます。

学校の脇は「石垣の散歩道」として、風情あるスポットになっています。

穴太衆によって積まれた、野面積みの石垣が数キロに渡って続きます。

偶然、猫ちゃんにも遭遇。より一層、風情を感じます。

当時は二の丸御殿があった場所に学校が建設されています。

二の丸御殿では藩の政治が行われており、城主の居城でもありました。

学校の裏手口も石垣で堅固に守られています。

唐津城の城主には初代藩主の寺沢氏→大久保氏→松平氏→土井氏→水野氏→小笠原氏と、度々変わりました。

石垣の散歩道は砂浜に面しており、真ん中に高島と右側には姫島も見えます。

海に浮かぶ唐津城も美しいのですが、城と砂浜とのコラボレーションも素晴らしい!

砂浜から見た腰曲輪の石垣。

砂浜に立ち並ぶ石垣も珍しく、状態よく石垣が残っています。

砂浜から見た海に面した腰曲輪の石垣。

隅は算木積みになっており、石垣の散歩道とは異なって加工した石が使われています。

やはり海に面している石垣の前には、同じ種類の石が転がっています。

波のエネルギーを分散させるために置かれたのでしょうか。

加工して石垣に使われる予定だったのか、線が入っているのが気になります。

いよいよ本丸に向かいます。

大手登城路の入口には多宝塔が置かれています。

大手上り口は階段や手すりなど整備されています。

この水路は当時のものでしょうか。

途中には雛壇状の平場もあります。

90度折れ曲がると総締門跡が現れます。

地面には礎石も残っており、本丸に繋がる重要な門でした。

総締門跡の左側はニノ曲輪の石垣。

加工された石材を使用した、先進的な打込接で積まれており、迫力ある石垣を見ることができます。

櫓門だったのでしょうか。

門跡の幅を考えても大きな門だったのかなと思われます。

階段を上るとニノ曲輪が広がります。

唐津城の築城には、名護屋城の解体資材を用いて造られたと伝わります。

 

名護屋城は豊臣秀吉が文禄・慶長の役で前線基地として築いた城で、同じ唐津市内にあります。

全国から大名を集めて150以上の陣屋を築き、一大軍事シティでした。

そして、ニノ曲輪には本丸石垣と天守が聳え立ちます。

唐津城の天守は模擬天守で、昭和41年に造られました。豊臣秀吉によって築城された名護屋城の天守をモデルに造られました。

 

築城当初は天守があった説もあるが、1627年に江戸幕府の記録には天守台のみ描かれているので、天守は築城されなかった説が有力です。

しかし、この天守台は当時から残る遺構で、約12m程の唐津城で1番迫力ある石垣を見ることができます。

唐津城の天守台は、はらんでしまった為に近年 修復工事が行われました。

最近、他城でも石垣修復の際に使用されているグラウンドアンカーを使用しており、石垣内部で斜面崩落を防ぐ補強が施されています。

先進的な技術で積まれた石垣ですが、石垣を解体した際に築城当初と思われる古い石垣が、現在の石垣の内部から発見されています。

 

実は唐津城は1602年から7年の歳月をかけて築城されたとされてきましたが、発掘調査で古い時代の石垣が発見されたことで定説が覆りました。

名護屋城と同時期に築城され、文禄・慶長の役の補給拠点の一つとして有力大名によって築城。役が終わった後に寺沢広高が入城したと、新たに唐津市教育委員会は推測しています。

ニノ曲輪の井戸跡。

天守台から続櫓風の建物が接続しており、櫓門へと繋がっています。

天守は模擬ですが、本丸完成系の構想はきっとこのような形であったのだろうと想像を膨らませます。

櫓門を下から眺めます。

正確な形は不明ですが、絵図には当時もこの場所に櫓門が建っていました。

本丸へのもう一つの入口が西門。

左側は化粧櫓、右側が天守。化粧櫓の石垣も修復が行われており、下層から旧石垣も発見されています。

本丸跡。

現在、本丸は広場となっており大パノラマを一望できる展望台となっています。

本丸から見た松浦川と唐津湾。

上から眺めると島の形状がよく分かります。

天守の脇に置かれた旗竿石。

名護屋城の鍋島陣屋にあった旗竿石が、名護屋城内に移設され、その後唐津城に移設されました。

天守台石垣の切れ目から入城します。

続日本100名城スタンプや御城印は天守内部に設置されています。

天守入口。

唐津城の天守台は穴蔵形式で、石垣内部に地階があります。

天守から見た唐津湾と松浦川。唐津城のある満島山と本島を繋ぐ舞鶴橋。ロケーションが最高すぎます。

天守から見た唐津市内。

麓にある唐津城の駐車場もよく見えます。

天守から見た本丸。

先端が突き出た形状になっており、唐津湾を一望できます。

奥には姫島が見えます。

天守から見た化粧櫓。

化粧櫓裏の森になっている場所にはエレベーターがあり、誰でも唐津城を楽しめるように整備されています。

天守から見た砂浜。

鶴が翼を広げたように砂浜が見えるため、舞鶴城とも称されました。

天守から見た二の丸御殿跡。

今は学校になっていますが、校舎のあたりに御殿があり、グラウンドあたりに藩校がありました。

 
学校の奥には三の丸があり、武家屋敷などがありました。現在の唐津城はごく一部が残るのみで、広大な城郭は市街地化によって失われています。
 
それでも街の中には遺構が残っているので周ってみます。

今でも学校に残る立派な石垣。

山を下りて学校方面に歩くと、二の門堀が遺構として残っています。

二の門堀は二の丸と三の丸を区切る水堀でした。

二の門堀の前には「時の太鼓」があります。

唐津城址整備計画の一環として、唐津藩絵図に基づき再現したものです。

櫓の中には、からくり仕掛け時計が設置されており、午前7時から午後7時までの毎正時、当時がしのばれる「時」を告げます。

橋を挟んで松浦川に面して見える二の門堀。

櫓台のような石垣も確認することができます。

二の門堀の水路。橋の下を水が流れるようになっており、石垣で形成されています。

松浦川には石垣で造られた水門があります。

水の流入を調整するための施設でしょうか。街に埋もれた遺構ですが、城好きの方であれば是非 この辺りも見て頂くと良いかと思います。

続いて松浦川を歩きます。松浦川にも石垣が積まれています。

松浦川の対岸から見た唐津城。

このまま川沿いを歩いて城内橋まで向かいます。

松浦川の架かる城内橋から見た唐津城。

対岸の橋の下あたりには、当時は舟入門がありました。船入門は藩主の参勤交代の際の出入り、御蔵への納入物品の出入に利用されました。

現在は船入門公園として整備されています。

城内橋からのショットは唐津城の写真スポットです。

当時はこの場所に橋は架かっていなかったとされています。

海から見る唐津城、砂浜から見る唐津城、川から見る唐津城。

見る角度によって全く異なる姿を見ることができます。城めぐりの醍醐味を存分に詰め込んだ城でした。

 

三の丸には肥後堀なども残りますが、今回は時間が足りず周ることができませんでした。

唐津城は今では街のシンボルとして愛され、観光スポットとしての新しい役目を担っています。

 

続いて、唐津城から名護屋城に移動です。