つぶやき城ー。訪城記録

つぶやき城ー。訪城記録

まだまだ初心者の、城をどこまでも愛する男。

旅のついでに行った城が、今では城に行くための旅が何よりの楽しみ。

一つとして同じ城はなく、全ての城に歴史と個性がある。

見る角度、見る季節、見る天気によって表情が変わるその姿に恋をした。

2026年2月6日

 

前日に小諸城と上田城を攻略し、上田市内で一泊。

2日目は朝から同じく長野県の日本100名城 松代城へと向かいます。

 

真田家にとって上田城が戦国時代の激動を生き抜いた城であれば、松代城は江戸時代に真田家の繁栄と太平を象徴する城です。

上田城を築城した真田昌幸の息子で真田幸村の兄である真田信之は、1622年に上田城から10万石の大名として移封となり松代藩主となります。

以降は幕末まで真田家が藩主を務めます。

 

松代駅は2012年に廃線となっており、公共交通機関で行く場合は路線バスの利用が必須となります。

ワタクシは しなの鉄道「屋代駅」から路線バスで旧松代駅まで向かいました。約30分程で到着できます。

長野駅からも路線バスが走っていますが、上田城とセットで周るのであれば、上田駅と屋代駅は電車で20分ほどなので、屋代駅からの方が到着が早いと思われます。


バスの本数には限りがあるので注意が必要です。

旧松代駅。

廃線になってもレトロな駅舎が残っており、今はバスの停留所になっています。舎内はそのままの状態で残っています。

駅のホームもそのまま残っています。

旧松代駅のすぐ裏手が松代城になります

早速、二の丸を囲む土塁が現れます。

松代城は明治の廃城令後、本丸と二の丸を残して、市街地となり堀も埋められてしまいました。

石場門から二の丸に入城します。

東側の二の丸と馬出を繋ぐ門となっており、現在は堀と馬出は埋められ平地となっています。

二の丸側から見た石場門。

石場門の石垣は土塁の土留めの為と考えられています。礎石は保存のために地中に埋められ、レプリカの礎石が設置されています。

東側の二の丸は広場となっており、土塁で全体を囲んでいます。

土塁は復元整備されました。

二の丸東側から見た景色。

上田と松代は距離としては近いのに、松代は明らかに寒かったように思えます。

上田には全く雪が無かったのに対して、松代は日陰には雪が残っていました。

新潟方面は美しい雪景色を見ることができました。

本丸の南東側。

右側に見えるのは本丸と二の丸を繋ぐ東不明門前橋。

橋の先には櫓門形式の東不明門がありました。

基本は本丸南側の太鼓門から出入りをしていたようですが、東不明門は太鼓門が崩落した際の緊急の門で、通常は閉じていました。

続いて本丸南側の太鼓門から入城します。

太鼓門橋と橋詰御門、奥には太鼓櫓が復元されています。

横から見た太鼓門橋と橋詰御門。

内堀の調査で堀の中から30本以上の折れた橋脚が発見され、災害の度に橋が崩落して破損したという当時の記録が裏付けされました。

 

江戸時代末期の絵図を元に忠実に復元されています。

太鼓門橋からみた水堀。

この橋から攻めてくる敵を狙い撃つ狭間も再現されています。

反対の左側は出隅になってクランクしています。

橋詰御門と塀。

2004年に太鼓門と共に復元されました。

塀は下見板張りの仕様となっています。

橋詰御門は高麗門形式。

珍しいのは松代城にある城郭の建築物には、瓦葺きではなく、板張りが採用されていること。

橋詰御門を抜けると桝形になっており、石垣には所々に巨石が使われています。

現在も松代城のシンボルとなっている太鼓門。

門の礎石が良好だった為、そのまま利用され復元されたようです。

 

松代城では最も大きい門で、藩士に登城の時刻を知らせたり、緊急連絡を知らせる太鼓が設置されていたことで、太鼓門と呼ばれました。

太鼓門の先には本丸が広がります。

反対側の本丸北側には北不明門が復元されています。

本丸側から見た太鼓門。

間柱や長押が外壁にむき出している真壁造り。古風な造りが何故か心落ち着きます。

板張りの屋根も特徴的ですが、屋根構造も独特。

入母屋ではなく切妻屋根が採用されています。

何となくこの角度から見上げると、神社で見られる建築物のように見えてきます。

 

城郭建築の城門は、入母屋が多いので是非他の城と見比べて頂きたいです。

本丸に建てられた石碑。

海津城跡の石碑と書いています。戦国時代に武田信玄が支配している時は海津城という名前でしたが、江戸時代に幕府の命によって松代城と名称が変わりました。

本丸東側の石垣。

二の丸など、基本的には土塁など土造りの城ですが、本丸は石垣で形成されています。

本丸北西の戌亥隅櫓跡は整備されて、階段で上に登ることができます。

きっと石垣好きには、たまらないショット。

幾つも屏風の様に折れ曲がった石垣。

北西の戌亥隅櫓の石垣。

松代城には4隅に二重櫓が建っていたとされていますが、そのなかでも戌亥隅櫓は一際大きな櫓台です。

自然石を巧みに積み上げた野面積み。

松代城の中でも古い時代の石垣らしく、勾配が緩やかです。

櫓台というより天守台並みの大きさ。

戌亥隅櫓の上部は展望台のように整備されています。

事前にコンビニで買っていた朝食のおにぎりをここで食べました。× 3倍くらいに美味しく感じます。

戌亥隅櫓跡から見た妻女山。

上杉謙信は第四次川中島の戦いで妻女山に陣を敷いたとされています。

そして戦国史上最大の戦 上杉謙信VS武田信玄による第四次川中島の戦いが勃発。

 

諸説ありますが勝率90%を超える横綱大名同士の戦いは熾烈を極め、死傷者は1万人を超えたとも言われています。

天下分け目 関ヶ原の合戦よりも死傷者が多い戦となりました。

 

松代城からバスで15分ほどの場所に、川中島古戦場があるので、時間がある方は行ってみると川中島の戦いについて深掘りして学ぶことができます。

戌亥隅櫓から見た北不明門。

本丸北側の石垣は複雑な折れを駆使した造り。

一応、外枡形になるのかなと思いますが、少し変わった造り。防御力はあまり高くないように見えます。

戌亥隅櫓から見たら二の丸西側の土塁。

およそ高さ3mくらいで、二の丸の西側と北側を仕切るように土塁が形成されています。

北不明門から一度、本丸を出て内堀の周りを歩きます。

北不明門は太鼓門と同じ二重の櫓門形式ですが、石垣の上に乗らない独立した門の造りが特徴。

北不明門も枡形を形成。目の前で見ると城郭の威厳を感じます。

今残っている松代城はコンパクトですが、バリエーションある門を見ることができます。

北不明門の入口は高麗門。

橋詰御門と同じ高麗門ですが、やや小ぶりな造り。しかし、横塀も折り返しが付いておりゴツく重厚感があります。

当時は千曲川の河川敷に位置していた門なので、水ノ手御門とも呼ばれていました。

城内の案内板より。

松代城の全体図。本丸と二の丸全体を水堀で囲んだ造り。武田信玄の時代には土造りの城でしたが、随所に武田氏らしい甲州流築城術が駆使されています。

北不明門の前の広場には井戸跡があります。

平成の大普請の名の下に、崩れた石垣や土塁が修復・復元が行われた松代城ですが、この立派な石垣を持つ戌亥隅櫓は積み直しがされることなく、欠落した小石を詰める程度で当時の原型を留めています。

松代城の石垣を楽しむなら、二の丸から見る戌亥隅櫓がおすすめ。

北側虎口から見た二の丸と本丸。

雄大な山々と復元された二つの門が同時に見ることができる、ナイスアングルです。

北側虎口の左には新堀跡と土塁があります。本来は千曲川がこの辺りまで流れており、北側を防備していました。

右側は住宅地になっていますが、当時は百間堀という水堀が北側半分と西側の二の丸を囲んでいました。

現在は土塁のみが残ります。

二の丸の北側と西側は土塁で仕切られており、土塁を貫通させた埋門があります。

緊急時には埋めて通路を遮断する目的がありました。当時は二の丸に同じ様な門が二つ存在していました。

現在の埋門は絵図を元に復元されました。

埋門の前から見た土塁と戌亥隅櫓。

当時の姿が見事に再現されています。

二の丸南側の土塁。

現在、南側は大工事中。

半円の曲線を描いた土塁。

甲州流築城術の代名詞の一つ、丸馬出と三ヶ月堀を現在復元中。

今後の松代城が楽しみです!

工事が完了したら、また是非来たいと思います。

明治の廃城令で城は取り壊され、姿形すら残っていない城は全国に多くあります。

遺構を復元するには並々ならぬ時間と労力と努力を費やします。城門一つを復元するにも、調査を含めて数十年の時間を要します。

 

城の文化的価値を見い出し、次の時代に繋げている自治体に感謝です。

松代城から歩いて5分くらいの場所に真田邸があります。

松代の魅力は城だけにあらず。

真田邸の前には松代藩主 真田信之像が鎮座。
関ヶ原の合戦では父の真田昌幸と弟の真田信繁(後の幸村)は西軍、真田信之は東軍として戦いました。
東軍が勝っても西軍が勝っても真田家が生き残る為の選択でした。
 
大坂の陣でも徳川軍についた真田軍は、豊臣軍の真田幸村と戦うことになります。
 
結果としては10万石の大名として、250年近く真田家はこの地で繁栄したので、戦国時代の選択は思惑通りだったことになります。

九代藩主・幸教が、義母・貞松院の住まいとして1864(元治元)年に建築した松代城の城外御殿が現存しています。
当時は「新御殿」と呼ばれていました。


後に隠居後の幸教もここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。
1966(昭和41)年、十二代当主・幸治氏により代々の家宝と共に当時の松代町に譲渡されました。

真田邸は主屋、表門、土蔵7棟、庭園が江戸末期の御殿建築の様式が残っており、建築史の視点からも貴重な建物とされています。

松代城と一体のものとして国の史跡に指定されています。

鬼瓦には真田家の家紋 六文銭が刻まれています。

玄関口は間口や軒の天井が高く、さすが藩主の邸宅!と感じる格式の高さ。

藩主のプライベート空間となる「奥」と、対面や政務を行う場の「表」があります。

写真は表で来客の対面する場として使われていました。

庭園を楽しむ縁側。

軍事施設の城郭建築とは対照的に、古き良き日本の伝統的な文化を感じる御殿建築。

日本人の中に流れている、心落ち着くDNAが発動します。

朝イチの青天から一転して曇り空となり、かなり冷え込んできました。

風情を感じる美しい庭園。かなり広いです。

真田邸を見た後は真田邸の裏側に位置する「松代藩 文武学校」に向かいます。

左は真田邸の塀。

真田邸と道を挟んで向かい側に樋口家住宅があります。

松代城のすぐ東南に位置し、樋口家はその中でも中心的な位置にあり、藩の目付役なども務めた家柄です。
主屋、土蔵、長屋の3棟が長野市の文化財(建造物)に指定されています。
 

時間の都合上、今回は内部に入ることができませんでした。

樋口家住宅や松代藩校 文武学校があるあたりは、歴史的な建造物が密集しており、当時の面影が色濃く残ります。

城の正面口にあたる大御門(大手門)や新御殿(真田邸)に近いこの界隈は、上級武士が多く住む武家屋敷町でした。

松代藩 文武学校の交差点にあるのが旧白井家表門。

松代町内の表柴町(現在地の東南)にあった松代中級藩士・白井家の表門を、2000(平成12)年に現在の場所に移築復元されました。


1846(弘化3)年に建てられた三間一戸形式の長屋門で、20メートルもの広い間口、出窓、見張り窓など、門とは思えない大きさと造り。

長屋の家にしか見えません。

旧白井家表門の向かい側には旧真田勘解由家住宅主屋があります。
旧真田勘解由家のある清須(きよす)町は、元和8年(1622)の真田家移封後に形成された武家町です。

異様なオーラを放つ薬医門は松代城 花の丸御殿から移築された城門です。移築前は茅葺だったそうです。

 

松代藩二代藩主真田信政の長男信就(1634寛永11年~1695元禄8年)は大名家に入るのを好まず、名を真田勘解由とし、末弟である幸道が三代藩主となりました。その後、信就は勘解由家の家督を長男の信方に譲り、弟幸道には子がなかったため、信就の六男信弘が四代を継ぎました。

そしてお目当ての松代藩 文武学校。

この交差点には見どころが密集しています。

真田邸・樋口家住宅・松代藩文武学校・真田宝物館の共通券がありますので、時間がある方は共通券の方がお得です。

全て近距離にあるのがポイント。

入口の冠木門から入ります。

文武学校は松代藩8代藩主真田幸貫により発案。9代藩主真田幸教によって嘉永6年(1853)完成されたもので、安政2年(1855)に開校しました。

文武学校は文学所・教室2棟(東序・西序)・剣術所・柔術所・弓術所・槍術所・文庫蔵・番所・門などからなり、ほとんど開設当時そのままの構造と面影を残している貴重な遺構です。

まずは剣術所から見ていきます。

各地で藩校を見たことはありますが、剣術所は初めて見ました。

道場のような空間に、両サイドには畳が敷かれています。

広く高さのある空間。

剣術所の天井組み。エグいほど横架材が重なり合って支え合っています。

文学所は文武学校の中でも一番大きな面積の建築物。

文学所内部。

畳の廊下は藩主専用とされていました。

暗くて見え辛いのですが弓術所にもサイドに畳が敷かれています。

その他、槍術所や砲術所なども見ることができます。

鬼瓦の真田六文銭も写真に納めます。いつの間にか再び晴れてきました。

真田宝物館の近くには小山田家の黒塗りの冠木門があります。横にある建築物は番所。

小山田家は藩主の真田家と縁戚関係にあり、代々家老職を務めていました。

 

番所は冠木門(後設のもの)の脇に設けられたもので、江戸期のものを現在地に移築されました。

国登録有形文化財に指定されています。

 

その他にも真田宝物館に行きましたが、外観の写真は撮り忘れました。

大きな建物で、真田家の貴重な遺物がたくさん見ることができます。

関ヶ原の合戦の際に石田三成とのやり取りの書状など、かなり貴重な品々を見ることができます。

 

松代には他にも見る場所が多くあるのですが、半日では時間が全く足りず今回はこれで打ち切りとしました。

旧松代駅から長野駅までアルピコ交通の路線バスで移動。

長野駅までは約30分程で到着できます。

長野駅前の「そば亭 油や」さんで遅めのランチ。

やはり長野に来たら蕎麦を食べないと後悔すると思い新幹線の時間まで休憩。

天丼のセット。最高でした。


続いて、新幹線で新潟に移動です。

2026年2月5日

 

信州遠征の2城目は上田城。小諸駅から上田駅までは、しなの鉄道に乗って約20分で到着できます。

 

上田城にはワタクシが好きだった大河ドラマ「真田丸」が放送されていた2016年に一度訪城しています。しかし、その頃は城に関してほぼ無知だった為、今回は小諸城と同様に深掘りして見て周るために再訪城することにしました。

 

上田駅からは歩いて15分ほどで上田城に着きます。

上田駅には真田家の家紋、六文銭が大きく飾られています。

この他にも街の至る所に、とにかく真田家の家紋を目にします。

 

真田家は主に真田幸隆・真田昌幸・真田信之&信繁(後の幸村)の親子3世代が歴史の表舞台に出てきます。

真田幸隆は武田信玄の家臣として活躍。攻め落とすのが困難だった「砥石城」を調略で奪取するなど、真田家の基盤を築いた武将です。

 

そして、上田城を築城した幸隆の三男 真田昌幸。

武田家滅亡後、織田・徳川・上杉・北条といった大国に囲まれながら、巧みな外交と軍略で生き残りました。

この上田城で2度にわたって徳川軍と激突した上田合戦では、2度とも徳川軍を退けたことで、一気に戦国を代表する武将となりました。

駅前には大坂の陣で活躍した武将の1人、真田幸村の銅像!

 

真田昌幸の息子達で、兄が信之、弟が信繁(後の幸村)になります。

関ヶ原の戦いでは、家を存続させるために兄・信之は徳川方(東軍)、父・昌幸と弟・信繁は石田三成方(西軍)に分かれて戦いました。

特に真田幸村は「大坂の陣」で真田丸を築いて奮戦。徳川家康をあと一歩まで追い詰め、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と絶賛された超人気の武将です。

オール真田家の、このアングルは最強です。

真田幸村推しの方にとっては、上田市は聖地のような場所です。

 

ワタクシも大河ドラマ真田丸を見て、堺雅人さんが演じた真田幸村がカッコよすぎて好きになり、まだ歴史に詳しくない時期でしたが、2016年に上田まで来ました。

 

街と歴史が一体となったこの雰囲気、とても好きです。

現在の上田城は上田城公園として整備されており、城内には幾つかの入城ルートがあります。

ワタクシは尼ヶ淵の広場から入城します。

 

早速 目に飛び込んでくるのは南櫓と西櫓。ちなみに城郭に沿って新幹線の線路が走っているので、この櫓2棟の景色は新幹線内からも見ることができます。

当時はこの尼ヶ淵と呼ばれる崖の辺りまで千曲川が流れていました。

現在は新幹線の線路に沿う形で若干離れた場所を流れています。

尼ヶ淵の広場から見た西櫓。

1626年に真田氏の後に城主となった、仙石氏の時代に創建した貴重な現存建築物になります。

尼ヶ淵の石垣下部で興味深い箇所が確認できます。

自然石を使った野面積みの石垣の中に、算木積みの箇所があります。

何かしらの理由で増築し、拡張したと考えられます。

西櫓の脇から主郭に向かう階段の道があるので、その道から登っていきます。

西櫓の脇に突如石垣が出現。

この箇所は二の丸西側と本丸を繋ぐ土橋で、石垣は土橋の部分にのみ積まれています。

真田氏時代の上田城は徳川家康によって徹底的に破壊された為、仙石氏は真田氏時代の縄張りを基本として、虎口などの重要な箇所を石垣に変更しました。

登城路を振り返っての一枚。

堀切のように本丸と二の丸は深く掘削され分断しています。

この道は当時は無かったと思われますが、ダイナミックな堀の中を間近で見ることができます!

先ほど下から見上げた土橋からのショット。

今はアスファルト舗装されていますが、道の両側が堀となっており、土橋となっています。

整備されたことで姿は変わっても、形状は完全に当時のままです。

土橋の右側は水堀となっており、本丸は二の丸よりも高くなっており攻撃しやすくなっています。

1626年に創建後、建て直した記録がないことから当時のまま現存していると考えられています。

1階は桁行9.85m、梁間7.88m、2階は桁行8.64m、梁間6.67m。シンプルな造りですが、寒冷地特有の下見板張りの木と白漆喰のコントラストに見惚れてしまいます。

西櫓があるこの場所には本丸西虎口があり、櫓門が本丸へのルートを防備していました。

 

手前側の土の部分にも石垣があり、西櫓のような二重の櫓があがっていました。

本丸西虎口の模型写真。

右側の櫓が現存している西櫓。90度折れ曲がって櫓門となります。

本丸西虎口に残る、櫓門の痕跡。

石垣上部に切り欠きが二つ確認できます。

この箇所に櫓門の横架材が乗っていました。

 

明治の廃城令によって破壊された上田城ですが、この場所に大きな櫓門があった確かな痕跡は残っています。

本丸を囲む土塁。高さは3m〜4mくらいでしょうか。かなり高めの土塁です。

土塁は整備されており、登れるようになっています。

本丸全体をこの高い土塁が囲んでいます。

現在は広場になっていますが、当時は西櫓と同じ規模の櫓が7棟 築造されました。

本丸北東は隅欠(すみおとし)と呼ばれる土塁のクランクがあり、2つの櫓がこの土塁の上に建っていました。

現在は心柱の礎石だけが残ります。

本丸土塁の上を歩くと、本丸東虎口の北櫓を目の前で見ることができます。

北櫓も江戸時代から残る櫓ですが、明治の廃城令で一度、別の場所に移築されました。

さらに、本丸には真田神社が鎮座しています。

「真田」「仙石」「松平」の歴代城主を御祭神とした神社です。

御城印は真田神社で頂くことができます。

神社の本殿の裏手にあるのが真田井戸。

本丸唯一の井戸で、深さは16.5mもあります。

 

この井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じていたという伝承があります。

そして真田井戸の前にあるのが、本日2体目の真田幸村像。

上田城にいた頃と思われる、若き日の幸村像となります。

真田神社から西櫓の入口に行けるのですが、冬季は閉鎖されています。

真田神社から見た尼ヶ淵。現在は広場になっており、切り立った崖になっています。

 

当時はこの下を千曲川が流れていました。

真田幸村の大兜と本丸東虎口。

真田家で一番人気があるのは、やはり真田幸村。豊臣軍と徳川軍が激突した大坂の陣で活躍した武将と言えば、真っ先に出てくるのはやはり真田幸村です。

真田神社の前にあるのが本丸東虎口。

北櫓、櫓門、南櫓が本丸の東側を防備します。

外に出て土橋からのショット。

本丸東虎口の櫓門は1994年に木造で復元されました。

横幅、高さ共に12mで風格が漂う門です。

右から南櫓、櫓門、北櫓。そして二の丸と本丸を繋ぐ土橋。

南櫓と北櫓は現存櫓ですが、日本が辿ってきた城郭の歴史を象徴する櫓です。

 

明治の廃城令で全国の城は一部を除いて取り壊されたり、安い金額で売却されました。

上田城も同じく西櫓だけが残り、南櫓と北櫓は移築され、他の建築物は全て取り壊されました。

 

移築された櫓は上田市内の遊郭の建物として使われ、古写真が今でも残っています。

まさか遊郭で使われていたとは驚きの歴史です。

市民の熱意で昭和に買い戻されて、再移築という形で元のこの位置に復元されました。

鉄砲狭間の付いた遊郭って・・・ある意味すごい。

南櫓は西櫓とほぼ同じ大きさ、同じ造りをしています。

櫓門脇の石垣にある鏡石は「真田石」と称され、高さ約2.5m、横約3.0mほどの巨石です。

天正11年(1583)、真田昌幸が上田城を築くときに据えられた城内で最も大きな石です。真田信之(幸村の兄)が松代へ移る時に、この石を父の形見に持って行こうと したが動かなかったという伝承があります。

 

実際は仙石氏の時代に造られた石垣と言われていますので伝承と思われますが、上田の地の方々の真田氏への強い思いが伝わります。

本丸北東から見た内堀と本丸土塁。

上田城の宣材写真は、ほぼ100%で櫓門か尼ヶ淵から見た櫓の写真なので、石垣の城というイメージを持ってしまいますが、上田城は土造りの美しい城です。

虎口や櫓台などのピンポイントで石垣が使われていますが、基本的には土で造られています。

コーナー部分がクランクしているのは、横矢掛かりかなと思ったのですが、隅欠(すみおとし)という鬼門除けで設けられました。

 

真田氏の時代からこの隅欠は造られていたとされています。

本丸北側の水堀と本丸土塁。

上田城は本丸を起点として三方を二の丸が囲んだ梯郭式の縄張りなので、この水堀が本丸の東・北・西を囲み、南側は尼ヶ淵の天然の要害となっています。

二の丸東側から一度 城外に出て二の丸の空堀を見にいきます。

現在、上田城は至る場所で工事をしており、上田城再生計画が進行中。

 

二の丸東側にも市民会館を解体し、兵を駐屯させるための武者溜まりの復元を目指しています。現在は仮囲いをされて解体中でした。

二の丸橋の石垣。

現在は石垣のみが残りますが、形状から見ると櫓門があったと思われます。

もしくは二の丸は未完のまま明治時代を迎えたようなので、造る計画はあったが築造されなかった可能性もあります。

本丸と二の丸東側を繋ぐ二の丸橋。

当時は木橋で形成されていましたが、公園化に伴ってコンクリートの橋に架け替えられました。

二の丸の堀底は整備されていて、歩くことができます。

かなり深い空堀となっており、城郭の三方を堀で防備しています。堀底を歩くことができるのは二の丸東側の堀だけなので、時間があれば是非歩いて頂きたいスポット。

 

そして、何故この堀底だけが歩けるように整備されているのか。

写真左側はコンクリートで形成されています。実はこの堀底には昭和2年に線路が敷設され列車が走っていたのです。

左側がちょうど停車駅でした。歴史が分かると確かに駅に見えてきます。

ここに列車が走っていたと考えると、二の丸橋がトンネルになっている理由も納得です。

廃城令後、市街地化が進んだことで堀は埋められることが多かった中で、線路になったことで逆に埋められることなく、堀の形状が守られたという見方もできます。

現に二の丸北側の堀は破壊されています。

堀底を北方面に進むと、土塁の上に平和の鐘が現れます。

平和の鐘が建つ石垣は、先ほど通過した二の丸橋の前にある虎口の石垣です。

堀底から180度折り返して土塁の上を歩き、下から見上げた平和の鐘を見に行きます。

土塁からは雄大な山々を見ることができます。

テニスコートは櫓復元整備のために撤去工事が行われていました。

今後の上田城が非常に楽しみです。

1702年に鋳造された鐘は、上田藩が時刻を伝えたとされる鐘で、現在は市街地化で失われた三の丸にありました。

江戸時代から続く時の鐘は、世界大戦中に供出され失われました。

 

その後、昭和期の1972年に市民の協力で復元され、今の場所に移築されました。その歴史から平和のシンボルとなっています。

二の丸の北側は駐車場や児童施設、子供が遊ぶ遊具のある公園、陸上競技場などに変貌を遂げています。

 

建物や堀は破壊されていますが、ひっそりと遺構が残っているので、意外と注目スポットです。

二の丸の北虎口跡には石垣を確認できます。

一部しか残っていなかった石垣を、発掘調査を行い現在の姿に復元されました。

礎石も発見されているので、ここには櫓門を建造する予定だったと考えられています。

実際は築城中に仙石忠政は病死したことで、この場所には櫓門が建つことはありませんでした。

北虎口からは陸上競技場。

この陸上競技場はかつて百間堀という巨大の水堀でした。

堀をそのまま活用して競技場になっているので、ある意味ではかつての形状のまま残っています。

百間堀の脇には陸上競技場に入る為の細い路地があります。

競技場の中には入ることはできませんが、この細い路地は遺構のポイントです!

 

右側が百間堀、左側が北虎口前の土橋です。

北虎口前の土橋は石垣が積まれた貴重な遺構です。

この土橋に設けられた水抜き石樋も見逃せない遺構。

石垣から飛び出した石材は1702年に仙石氏が修復工事を行った際に、木の樋から石の樋に変わりました。

ここから百間堀に水を流していたと考えられます。

石がズレることがないように、石同士を切り欠いてジャストフィットさせています。

この細かな芸を楽しむことができたら、間違いなくお城マニアの仲間入りです。

 

当時は機械もない中で、知恵と工夫と人力によって造られていたことを考えると、巧みな技術に感動します。

 

土橋は百間堀と本丸北側の堀を隔てるように造られていました。

百間堀は姿を変えて形を残していますが、反対側は公園や児童施設となり堀は破壊されてしまいました。

しかし、微かな堀の片鱗は確認することができます。公園のフェンスを沿うように、堀の落ち込み部分を見ることができます。

 

失われた遺構は残念ではありますが、市街地などに埋もれた遺構はマニア心をくすぐるものがあります。

 

続いて城内から二の丸西虎口に向かいます。

公園入口となっている二の丸西虎口も土橋跡になっており、橋の両側は堀の片鱗が残ります。

土橋の左側。

野球場になっていますが、よく見ると不思議な造りをしています。

 

野球グラウンドが地上面よりも低いのです。

これは、百間堀から繋がった巨大な水堀でした。

陸上競技場と同じく、堀底に野球グラウンドを造ったので、このような形になっています。

 

そして、ポイントは観客席。魔改造によって土塁の傾斜に沿って観客席が造られています。

土橋の右側には堀が残ります。二の丸は堀の奥でクランクしています。

何気ない普通の道。

左側はクランクした二の丸、右側は小泉曲輪があったとされる場所で現在は体育館。

ここも堀の一部を改造して道路になっています。

 

目線を変えれば何気ない道に、遺構の面影を感じることができます。

二の丸土塁の上から見た体育館。

対面にあるグラウンドと体育館が小泉曲輪跡で、土塁下を貫通している道路は、当時は堀であったと考えられます。

土塁上からの景色。

再び尼ヶ淵から東側へ移動します。

夕方になり少し冷え込み空気が澄んできました。

写真は西櫓。

下から見上げる南櫓も美しい。

本日 3体目の真田幸村像。

二の丸橋の前の一般道を渡ったところに上田市観光会館があります。

 

2Fで日本100名城スタンプを押しました。

上田市観光会館に飾ってあった甲冑。

なんと大河ドラマの真田丸仕様のスペシャルバージョン甲冑。

真田丸を今でも見ているワタクシとしては痺れる逸品。

 

1Fの売店には真田神社とは別バージョンの御城印や、日本100名城カードも売っています。

すっかり夕方になってしまいました。

上田市観光会館の裏には上田市立第二中学校や、上田高校があります。

現在は学校になっているあたりが、上田城の三の丸でした。

 

ほぼ垂直に切り立っている土地の形状は、おそらく当時の名残かなと思われます。

グラウンドと住宅地の間には謎の切れ込みがあります。

気になって近くに寄ってみました。

これって堀跡では?と考えながら、ネットで昔の城郭絵図を調べたら、この辺りに堀がありました。

 

グラウンドや住宅を造るのに、わざわざこんな鋭い崖を作る必要性も無いから、遺構の形状を生かしたのかなと考えます。

あくまで個人的な憶測です。

上田高校のグラウンドから、学校の正面に移動。

高校なのに土塁と土塀、そして明らかな水堀を発見。

現在の上田高校がある場所は、元々 上田藩主の居館がありました。

門もそのまま活用されています。

この土塁や豪は真田氏の時代に造られたと伝わります。

 

本丸からはだいぶ離れていますが、真田幸村の兄となる信之は、破壊された本丸ではなく、この三の丸を城郭の中心部としました。

 

時間が遅くなり暗くなったので、次の日の朝に再度写真を撮りにきました。

薬医門形式の立派な門。

近くに寄ることができませんが、ここからでも十分感じる格式の高さ。

この門を毎日通過して通学する学生さんが羨ましい。

 

約9年以上ぶりの上田城でしたが、今回はかなり深掘りして楽しむことができました。少しの知識があれば、少し違った角度で城を見ることができれば、城めぐりはもっともっと楽しくなります。

 

食事も楽しみの一つ。真田氏一色の街の雰囲気も最高でした。

 

約4時間ほど見て周りましたが、それでも時間が全く足りませんでした。

城内の市立博物館も行きたかったのですが、次回に持ち越しです。

今晩は上田城近くの八木旅館で一泊。

旅館近くにある大祭さんで食事。

数あるメニューの中で、野菜の巻き串が本当に美味しかった。

地酒も楽しめます。

 

エネルギーをチャージして、明日は同じ真田氏ゆかりの松代城を目指します。

2026年2月5日

 

今回は2024年1月以来、2年ぶりに長野県の小諸城に再訪城しました。

 

小諸城は日本100名城で、桜の名所でもあります。前回も存分に楽しんだのですが、より深く小諸城を巡りたいと思っていたので、このタイミングで決行しました。

 

バスタ新宿から軽井沢駅まで高速バスで2900円。軽井沢駅から、しなの鉄道線で約25分。

電車との接続が悪く、1時間ほど待ちました。

 

 

見たことのない景色を見ながら行く、ローカル線の旅はとても楽しいものです。

 

小諸城は武田信玄の命を受けた重臣が縄張りをし、城郭を整備したと伝わっています。
武田氏が滅びると、小諸城は織田信長の将・滝川一益の持城となりましたが、信長が倒れると北条氏が滝川勢を倒して小諸へ侵攻。
以降は徳川、北条、上杉に真田も加わり争奪戦が展開、やがて豊臣秀吉の仲裁もあり徳川氏の所領となりました。

豊臣政権下では千石秀久が小諸五万石の大名として小諸城主となります。現在の小諸城は千石氏時代のものとされています。

名だたる大名が取り合った城ということからも、どの時代においても重要視された城といえます。

 

小諸駅に着いて二の丸方面から周っていきます。小諸城は主に本丸、二の丸、三の丸からなる連郭式の城郭ですが、二の丸と三の丸の間には線路が貫通していて分断されています。

 

 

二の丸方面に向かうには三の門を通過します。

現在、城址は懐古園として整備されています。

三の門は1615年に創建、しかし1742年に水害によって流失してしまいました。

 

1765年に再建され、現在に至ります。

 

 

城郭内部からのショット。

江戸時代からの現存城門として、国の重要文化財に指定されています。

 

 

後ほど周る城内の石垣に比べて、三の門の石垣は加工された打込接となります。

間柱や長押が外部に出ている真壁造り。

 

 

門の上部に「懐古園」と掲げられた額の文字は、徳川家16代の徳川家達公の筆によるものです。

 

 

三の門を抜けると懐古園のチケット売り場があり、料金を支払って城内に入ります。

 

まずは二の丸の石垣が現れます。かなり大きい石が使われており、迫力あります。

 

 

振り返ると三の門と二の丸石垣が綺麗に見えます。

ちなみに、明治の廃城令によって小諸城も解体され、二の丸の石垣も解体されましたが昭和に今の姿に復元されました。

 

 

二の丸の石垣沿いに進むと二の門跡に出ます。

二の門は喰違いの枡形になっています。

 

 

現在は石垣しか残っていませんが、礎石も確認できます。

 

 

振り返っての一枚。

当時は三の門のような櫓門形式の城門でした。

 

 

二の門跡の抜けるとすぐに、二の丸に上がる階段があります。

 

 

二の丸は割と小さめな曲輪ではありますが、先端が突き出しており、三の丸方面から攻めてくる敵を一望することができます。

 

真田軍と徳川軍は2度にわたって上田城で戦いますが、第二次上田合戦の際に二代将軍 徳川秀忠がこの二の丸に本陣を置きました。

 

 

二の丸から見た二の門跡。反対側の石垣は南の丸。

二の丸と南の丸の橋のように架かっており、互いの曲輪を行き来する役目もありました。

 

 

二の丸の向かいにある南の丸に向かいます。

階段の脇には一際大きな石材の鏡石を確認できます。

 

 

南の丸も二の丸同様に防衛の為の曲輪なのかなと思われます。

 

 

南の丸から見た二の門跡。

対面の曲輪は二の丸。この曲輪を繋ぐように櫓門形式の二の門がありました。

 

 

南の丸は通り過ぎてしまいそうな小規模な曲輪ですが、南の丸からは巨大な谷を見ることができます。

 

 

この崖が本丸を防備しています。



下から見ると、こんなに垂直に切り立った崖になっています。

間違いなく、ここから攻めることは不可能です。

 

 

続いて本丸に向かうと中仕切門跡があります。

石垣も一部しか残っていませんが、この直線に道を仕切る門がありました。

 

左側は南の丸の石垣。

中仕切門の先の右側には北の丸跡があり、現在は弓道場となっています。

 

 

黒門橋を渡ると、いよいよ本丸となります。

しかし、敵視点で見るとここから先が難関です。

 

当時の小諸城はこの黒門橋が、本丸への唯一の入口でした。本丸は完全に分断されて隔離された曲輪となっています。



黒門橋から見た堀切。人工的に掘削して深い堀切を設けて、本丸は分断して防御力を高めています。

 

 

黒門橋から見た反対側。

 

 

橋を渡ると黒門跡の石垣が残っています。

敵が攻めてきた際は橋を落として、敵が侵入できないような設計だったと思われます。

それでも攻めてきた敵をこの黒門が最後の防御として本丸を守っていました。

 

 

逆光で黒い右側の高い石垣は本丸石垣。

奥の石垣は黒門の石垣になります。

 

 

現在、本丸には懐古神社が鎮座。

 

 

本丸内にある庭園の池には噴水?が凍結して神秘的な氷に変貌を遂げていました。

 

長野県は雪が多いイメージですが、寒さはあっても小諸市には全く雪はありませんでした。

 

 

懐古神社の社務所側に階段があり、ここから天守台に向かいます。

 

 

本丸石垣の上は綺麗に整備されているので、上部を歩いて天守台まで行くことができます。

 

 

本丸北西の隅に天守台があり、西側が張り出しています。

 

 

レアな角度からの石垣。

自然石を積み上げた野面積み。1600年前後に仙石秀久によってこの石垣は積まれたとされています。

 

 

本丸石垣よりも天守台はやや高く、階段を登り天守台跡に登頂。

 

 

現在は石柱が残るのみとなりますが、この天守台には仙石秀久によって創建されたと考えられている、三重の天守が建っていました。

 

一部の大名にのみ許された金箔瓦が使用されていたそうです。

 

 

天守台の北側。下には藤村記念館があります。

北側の石垣 中腹部が少しはらんでいるように見えたので、崩落しないか心配。

 

 

天守台から見た本丸北側の石垣。

 

 

本丸から見た景色。

雄大な山々に囲まれており一望できます。

 

 

同じく天守台から見た景色。

木があり限定的ですが、北アルプスも見ることができます。

 

 

天守台から見た本丸西側の石垣。

このショットはお気に入り。ただ、手すりなどの安全設備はないので注意が必要です!



本丸石垣の上から見た馬場。

城郭西側で本丸の下に位置しています。

現在は多くの桜が植えられているので、春はまた違った景色を望めます。

 

 

本丸南側より馬場方面に出て、本丸西側の石垣を今度は下から見ていきます。

 

 

美しい野面積み。隅はまだ発展途上ですが算木積みになっています。

 

 

続いて天守台。

天守は1626年に落雷によって焼失してしまい、以降は再建されることなく明治を迎えました。

 

 

本丸近辺は石垣が多用されている為、近世城郭らしさを感じます。当時の最新技術で築城されたのかなと思われます。

 

 

天守台と本丸西側の石垣。

このアングルも個人的には好きで、2年前も全く同じアングルで写真を撮っていました。

良くも悪くも変わらない感性。

 

 

天守台の隅石。絶妙なバランスで400年以上、この姿を保っています。卓越した石垣技術!

 

 

天守台の前にひっそりと建っている建築物。

これは武器庫で、廃藩後に東京に移築され、現在の地に当時の姿に近い形で復元されました。

 

 

城郭西側は大きな空堀のような切込みを確認できます。
これを見たら行ってみたくなります。千曲川まで降りるハイキングコースとして整備されています。

 

 

尾根の脇が整備されています。この道を進むと千曲川に出ることができます。

 

 

山の尾根は細く、城郭側となる右側は崖になっています。

 

 

南側と西側は切り立った谷になっており、合流します。小諸城はとんでもない場所に築城されているのが分かります。
この壮大なロケーションを目の前で見ることができます。

 

 

尾根を分断した堀切も確認できました。
尾根が細いのでここまで分かりやすい堀切も珍しいです。

 

 

下から堀切の全体を撮影。
山のてっぺんを切って分断することで敵の侵攻を食い止める役割があります。
本丸は近世城郭の風貌をしていますが、城郭を取り巻く全体的な立地は完全に戦国期の山城です。

 

 

城郭の北西の隅には水の手門跡があり、現在は通路が造られ展望台があります。

 

 

水の手門の石垣。当時は石垣をくり抜いた埋門のような形をした門が、現在の通路の場所にありました。

 

 

展望台からの景色。
小諸城は深い谷とこの千曲川によって守られています。

 

 

最高の景色。城郭の隅にあるのでスルーされがちですが、この展望台は絶対に寄って頂きたいです。

 

 

展望台からの城郭西側。
崖は崩落を防ぐためにコンクリートで補強されていますが、崖になっているのが確認できます。

 

 

水の手門跡の展望台に行った後は酔月橋へと移動。
城郭北側の谷に架かった橋なので、酔月橋からの景色は谷のど真ん中から見れるので圧巻です。



城郭北側の谷となる地獄谷。
左の崖の上に見えるのは、先ほど見た水の手門跡にある展望台。

小諸城は北側・南側・西側の三方向をこのような崖と谷の天然の要害によって守られていました。

 

それにしても一体どのようにしたら、大地を切り裂いたような谷が出来るのでしょうか。

 

 

ひと通り懐古園内の城郭遺構は見て周りましたので、三の丸跡にある大手門に向かいます。
先述した通り、現在の小諸城は道路と線路で分断されていますので、自由通路を潜り抜けて移動することができます。

 

 

江戸時代から残る現存の城門 大手門。

創建は仙石秀久時代の1612年と伝わります。大工は江戸から招き、当時としては珍しい瓦葺の門だった為に瓦門と呼ばれていました。

 

 

大手門と脇の石垣。

桁を左右の石垣の上に乗せずに、その間に独立して建設しており、日本の城門発展の過程を知る重要な建物である。

櫓門よりも脇の石垣のほうが高いのが特徴です。

 

 

脇の石垣は高さもあり、勾配が美しく立派です。

隅の算木積みを見ると、天守台よりも発展した積み方をしているように思えます。

 

 

内部には今回も入ることができませんでしたが、二階の内部は居室風の畳敷になっている大変珍しい造りをしています。

 

 

控え柱も太い材料で構築されており、両脇には番所のように人が駐屯できるような部屋のようになっています。

 

 

脇の石垣と城門の隙間は、塞ぎ板で間仕切られています。

 

 

大手門から旧北国街道の城下町を歩きます。

大手門から城下町に向かって上り坂になっています。

何気ない坂道ですが、城下町よりも城郭が低い位置にあるこの構造こそ「穴城」と呼ばれる所以です。

 

本来は軍事的な防御の観点から見ても、街のシンボルや権威という観点から見ても、エリアで一番高い場所にあるのが城なので珍しいです。

ちなみに、全国で穴城は小諸城しかありません。

 

情緒あふれる街並みも、とても素敵です。

 

 

旧北国街道の突き当りには光岳寺があり、こちらには小諸城の城門が移築されています。

足柄門は二の丸と三の丸の間あたりに建っていた門になります。

 

 

奥に見える山門とのコラボショットは絵になります。

 

 

内側からのショット。

高麗門形式の門ですが、珍しいのは高麗門の特徴でもある、張り出した切妻の屋根が表にも裏にもあること。

高麗門でもこの形式は初めて見ました。

 

今回は二度目の小諸城でしたが、前回気付くことができなかった遺構も見ることができました。さらに、複数訪城だからこそ気付ける城の全体像を知ることもできました。

 

中学生の時に良いなと思っていた歌を大人になって聞いたら、この歌詞って本当はこうゆう意味なのかな?当時と違う感性によって違う歌に感じるように、お城は同じ城に何回行っても新しい発見や見え方が変わります。

 

だから城めぐりはやめられないし、何回 同じ城に行っても楽します。

再び電車に乗って今度は上田城に移動します。