2026年6月11日
2023年11月以来となる、宮城県利府町にある利府城に再訪城しました。
利府城は伊達政宗の叔父となる留守政景の居城として知られており、豊臣秀吉による奥州仕置きで廃城になったと考えられています。
留守政景は後に伊達一門となり、水沢伊達氏の祖となりました。
現在の利府城は館山公園として整備されており、城としての遺構があまり残っていないと言われています。お城ファンの中では、何もないというのが大半の感想のようです。
前回訪城から、この利府城について調べていました。
理由としては、留守政景は利府城を居城とするまでは、岩切城を居城としていました。
岩切城は堀切や土橋など、中世城郭を象徴するような遺構が残る県内屈指の巨大な城郭です。
なぜ、岩切城には中世的な防御機能が備わっているのに、岩切城の後に居城とした利府城にはないのか不思議でした。
今回は赤色立体図を元に、東京で事前に調べた内容を調査していきます。
利府城には、利府たてやま霊園側から入城するルートと、利府小学校の脇から入城するルートの2つがあります。
今回は霊園側から向かいます。
墓地の前には前回来た時に見つけた竪堀のような窪みがあります。
草と木で隠れていていますが、かき分けて森に入るとハッキリと形状が分かります。
これが竪堀であるかは謎ですが、間違いなく人工的に掘られているのは間違いないと思われます。
看板に沿って進みます。
道路が綺麗に整備されているので、初めて来た方も分かりやすいと思います。
車で主郭の下まで行くことができます。
ワタクシは今回も自転車で登りました。
地図の左側、桜の園が利府城の主郭だったと考えられています。
そして、右下の冒険の丘がハッキリと曲輪が残っています。
赤色立体図で利府城の全体を見てみます。
一般的な連郭式のタイプで、主郭と冒険の丘(郭2)の周りを腰曲輪が囲んでいるのが分かります。
今回、調べたかったのは調査1の窪み。
そして、調査2の平場。
この平場は公園外となっており、城跡として扱われていません。
しかし主郭よりも標高が高く、堀もしくは堀切のような掘削した跡が確認できることから、ここも利府城における曲輪の一部ではないかと気になっていました。
右側が主郭方面、左側が謎の平場がある調査1のエリア。
左側は草が生い茂っているので、もしかしたら行くのが難しい可能性があります。
坂を登りからと駐車場があり、一際高い山の上が主郭となります。
赤色立体図では、ちょうど段々になった辺りから上の平場に行こうと計画していました。
早々ですが断念しました。
草が多いしマムシがいるので、公園外にあたる平場に関しては秋か冬に再度トライすることにしました。
仕切り直して主郭を目指します。
赤色立体図で見ても主郭は色が濃くなっている通り、削り落とされたような切岸になっているのが特徴です。
公園としての整備もされていますが、ある程度は当時の残った形状が生かされていると考えられます。
主郭部に到着です。居住空間としては十分なスペースの曲輪が広がります。
階段を上がると、さらに曲輪が展開されています。
最頂部には利府城の石碑が建てられています。
とくにこの辺りに遺構は残っていません。
昔は景色も良く、利府町を一望できたのですが、今は木が邪魔して景色は綺麗に見えなくなってしまいました。

周りは木に囲まれて写真ではわからないのですが、下を覗くと360度急な崖によって、この曲輪が造られているのが確認できます。
主郭部を降りて郭2方面に進みます。
急な斜面下の整備された道を進みます。
右側が先ほどいた主郭部。
このあたりは木もなくて、主郭がいかに高い防御性を持っているか実感できます。
主郭と郭2の間にある広場。この辺りも間違いなく当時は何かしらの曲輪であったと思われます。
膝上以上の草が一面を覆います。
郭に向かう坂道。背の高い草で分かりにくいのですが、この場所が利府城では唯一の土橋のように見えます。
振り返っての一枚。
公園整備で造られた可能性もあるので断言ができませんが、深い崖と一段下がった広場によって土橋のように見えます。
郭2も削り取られたような急な崖になっており、岩盤が剥き出しになっています。
明らかに人工的に守りを固めたと思われます。
左側は完全に崖になっており、右側は郭2となります。
振り返っての一枚。
何となく山城感があります。
坂を登った先は突き出した平場になっており、現在は木が生えていた何も見えませんが、物見的な役割があったと想定できます。
この平場から周りを見てみると、腰曲輪がのような細長い平場が展開されています。
利府町はあくまで公園として活用しているので、城の遺構を示す看板などはありません。
しかし、山全体の残存度は非常に高く、当時のまま森も山も残っています。
赤色立体図を見ながら、物見と想定する場所の淵を歩いて調査ポイントを見下ろします。
薮になっていて写真では分かりにくいですが、赤色立体図通り、堀切がありました!
あまり高さを感じませんが、手前側がかなり急な角度で削られていて、深さ5mくらいはある立派な堀切です。
これはテンション上がりました。
物見からは降りることができないので、なんとか堀底に行けないかと考えたのですが、今回は17時も過ぎていたので断念しました。
しかし、遺構らしきものが何もないと評価されてきた利府城にとって、かなり大きな収穫でした。
物見からさらに一段上がると郭2となります。
何となく、このあたりの造りは岩切城に似ていると感じます。
郭2は細長い形状の曲輪です。
その辺に生えている雑草に見えるこの草も、自転車のタイヤが半分埋まるほど生い茂っています。
次回来た時に、もっと周囲も調査してみたいと思います。
郭2から見た登城路。
角度も急で上から見下ろせる為、敵を迎え打つには十分な設計。
上からは狙われ、左側は崖になっているので、逃げ場が全くありません。
一般的な戦国期の中世城郭の定番である堀などが無いので、防御機能が薄いと思っていた利府城でしたが、この切岸を巧みに利用して曲輪を独立させる設計ゆえに、堀が必要なかったと考える方が現実的かもしれません。
そう考えると、郭2の物見周囲は陸上と繋がっているので、堀切を設けてこの場所の防御機能を高めたと考えれば、非常に理にかなった設計だったと見えてきます。
それでは、発見した堀切の下には何があるのか気になり、自転車で回り道をして麓まで行ってみました。
麓にはなんと神社がありました。
今回は社殿までは行かなかったのですが、以前に雷神社には行ったことがあります。
まさか雷神社の背後に利府城の堀切があるとは思いませんでした。
雷神社は創建は不明とされていますが、永禄2年の1559年に社殿を修復したと言い伝えがあるので、利府城が機能していた時には既に雷神社はあったことになります。
つまり、この方面は鉄壁の堀切と神によって守られていました。
遠くから見ると山がなだらかに地上に伸びているのが分かります。
この尾根を分断するために堀切が設けられたことになります。
面白いのが雷神社を含めたこの辺りは利府町館(りふちょうたて)という住所になります。
家臣の館があったのでしょうか。その他にも近くには利府町堀切という住所も存在します。
木の高さが一段低くなっている場所に堀切があると思われます。
利府小学校の隣の登城口だけ見にいきます。
小学校の脇には利府城についての看板もありました。
こちらの登城口は利府街道側にあり、公共交通機関を利用する方は、こちらの登城口から登るとスムーズです。
JR東北本線 利府駅からは歩いて15分ほど。
こちらには車を停める場所がないので注意です。
赤色立体図を見ていると、利府城の尾根続きに怪しげな地形を発見。
利府街道の「惣の関ダム」の入口あたりで、利府城からは自転車で10分もかからない近い場所です。
明らかに2つの堀切が確認できます。
いつか専門家の方に検証して頂きたいですね。最後に利府町
最後に利府町堀切近辺にある堀切っぽい一般道を撮影。
こちらも利府城から近く、尾根続きだった場所です。
探り始めると妄想が止まりません。
今回、調査するための前調査という形でしたが、郭2で見つけた堀切は素晴らしいものでした。
前回訪問から2年以上が経過し、色々な城を訪れたことで知見が広がり、利府城が違う見え方をしました。
松島、多賀城、大崎、仙台に向かう交通の要衝なので、ここを居城にしたと考えられます。
1590年に小田原に参陣しなかった留守政景は所領を没収されたことで利府城は廃城となったと伝わります。
公園としての整備されても、山自体はかなり良い状態で残っているので、調べれば新しい発見がありそうな城です。また秋か冬に調査します。