動物が生きてゆくのなら、食物があればいいだろう。食物と眠ることのできる場所があれば。しかし、人間はそうじゃない。衣、食、住を満たされていれば、何も考えずに、何も行動せずに生きてゆけるというものではない。人間が生きてゆくというのは、もっと、それ以外のもの、もっと高い場所にあるものを求めてゆくことではないか。(森田勝)



憧れのエベレスト。ピークを目指すのはまだ先の事になりそうだが、一度はネパール、そしてヒマラヤの雰囲気を肌で感じておきたかった。そんな折にエベレストマラソンを知った。標高5350mのエベレストベースキャンプ(BC)から3440mのナムチェ・バザールまでの42kmを一気に駆け降りるというエクストリームなレースだ。僕にとって過酷で劣悪な環境はウエルカムだ。いままでも人が苦しむ環境でこそ良いリザルトを残して来られた。


優勝選手は4時間を切るタイム。下り基調とは言えこの標高で300m級の登り返しがいくつもある難コース。ゴール手前の数kmを並走したが驚きのスピードだった。

ところがどうにも日程が合わない。エベレストマラソンは高度順応のために12日間でエベレストBCまで登り、13日目にレースが開催される。前後行程を含めると約3週間の旅になる。1日のレースなのに、1週間もあるサハラマラソンよりも旅程が長い。そんなに会社を開けられない。いや仕事は決断さえすれば何とかできるから言い訳に過ぎない。最大のネックは今年から代表を務める、東海道五十七次ウルトラマラニックの5月大会と日程が重なることだった。


サハラマラソン仲間で運営している大会。東海道を毎月第四土日、全15ステージで(7カ月)で踏破する旅イベント

東海道五十七次ウルトラマラニックを5月21、22日の二日間で終え、翌23日に大会の片づけと残務整理、24日早朝の飛行機に飛び乗った。同日カトマンズに入り、翌25日朝に標高2840mのルクラへ飛んだ。29日のレースまで残り4日。この限られた時間で如何に最大のパフォーマンスを発揮するか。全ては事前準備にかかっていた。準備こそ全て。スタートラインに立った時にはレースの9割は決まっている。レースは今まで自分がやってきたことの検算でしかないのだ。


3年連続出場したサハラマラソンでは毎月500kmを越える走り込みをやった

5月15日。エベレストマラソンの一団がカトマンズに着いた朝、僕は富士山の山頂にいた。土曜深夜に大阪からクルマを走らせ、夜明け前に山頂に上がった。3776m。今季2回目の富士はこの時期にしては珍しく昼寝ができるような陽気だった。そして19日、一団がナムチェ(3440m)で連泊して高度順応している折に、再び富士に登った。日の出前に東京を発ち、9時には山頂出勤。パソコンを持って上がり、ツエルトを張り1日デスクワークをした。風は強かったが充分に高度順応はできていると思った。正月の北岳(白根三山縦走)から始まり、八ヶ岳、西穂高、中央アルプス縦走、槍ヶ岳など、定期的に山に入っているから3000m級の山には自信があった。しかし相手は5000mを越える未知の領域。凍てつく寒さの中、パソコンに向き合い、寒さに耐えられなくなると、火口をぐるりと一周走った。少し不安が和らぐ気がした。


今年は異常に雪が少ない。スキーヤーにとっては辛いが、高度順応には最高だった

今回の準備の目玉として「低酸素テント」を自作した。廃棄になる酸素濃縮器を逆配管にしてテント内から酸素を排気するのだ。13年間相棒だったモンベルのテントをビニールで密閉し、酸素濃縮器を起動すると1時間足らずでテント内の酸素は富士山山頂レベル(酸素濃度約14%)に、2時間もするとエベレストBCレベル(酸素能動約10%)にまで達した。自作の低酸素テントは危険が伴うため、常に人気があるオフィスの中に設置し、SPO2(血中酸素飽和度)75%未満、心拍数140以上で警報が鳴るように設定した。エベレストBCを想定して酸素濃度を9%台まで落とすと、苦しくてすぐにテントを飛び出してしまう。SPO2は70%台前半を示していた。


最終型の携帯用低酸素テント。出張先でもトレーニングできるようにした

24日昼、カトマンズに到着した。街は混沌として生命力に満ち溢れていた。道はデコボコで建物はボロボロだったが、震災の影響というよりは元来こんな街だったのだろうなと思った。少し散策しようと街に出ると、すぐにスコールのような雨にやられた。仕方がないので軽く食事を済ませてホテルに戻った。準備やイベントの疲れもあり、夕方あまりにも早い時間に眠りに落ちた。


カトマンズの街。ところどころ震災の傷跡が残るが活気に満ち溢れている。写真は下山後

25日早朝、空港行きのタクシーを探す。いちおう前日の運転手に少しチップを渡し朝5時前に迎えに来るよう言っておいたが信用はしていない。最悪空港までの6~7kmくらい走ってやろうと心に決めていた。ところがホテルを出るとタクシーがずらり。とんだ取り越し苦労だったようだ。ルクラの飛行場は世界一滑走路が短く危険な事で有名だ。斜面に向かって着陸し、谷に落ちるように離陸する。僕は実はこれをとっても楽しみにしていた。斜面に突っ込むように着陸する瞬間はとてもスリリングだった。そして着陸後は谷に向かって離陸してゆく飛行機を眺めた。


滑走路は300mほど。斜面を利用して離着陸する。

ルクラの標高は2840m。標高は何度も通った日本アルプスの山々と同じくらいだし、今回は富士山クラスまでは充分に高度順応ができているので何の心配もない。美しい山々や街並みを眺めながらエベレスト街道を北へと向かう。エベレスト街道を歩くためにはTIMSというトレッキングの通行許可書が必要だ。途中でTIMSのチェックを受け入場料を支払う。街道自体がテーマパークで運営母体はネパール政府。日本円にして3千円ほどの料金だが、よく整備された登山道にはところどころゴミ箱やトイレが設置されているし、旧東海道の宿駅制度の如く一定間隔ごとに町が用意され、そこで飲食や宿泊ができる。


途中二個所でチェックがある。アフリカで国境を越える時と似た感じだが雰囲気はほのぼのとしている

しばらく歩くと、エベレスト街道最大の街、ナムチェ・バザールに到着した。一般的なトレッカーはナムチェまで2日かけて歩き、高度順応のためにここで2泊するそうだ。しかし3440mは日本で準備してきた範疇なので、ゆっくりとランチするにとどめ、更に先を目指した。自分にとって有意な高度順応をするためには少なくとも富士山頂より高い場所で宿泊する必要がある。進路を北東にとり、3860mのテンボチェへ到着した。テンボチェは富士山より高いが、少し谷筋に降りると一気に3250mまで高度を下げられるので安心だ。本来はここで宿泊する予定だったが、まだ時計は15時、思いのほか体力も気力も充実していたので次の町を目指すことにした。


急峻な地形に町が形成されている。馬の蹄型の不思議な街だ。

3930mパンボチェ。斜面に立体的に建物が並ぶ大きな町だ。標高は富士山より上、距離にして既にエベレスト街道の2/3は来ていることになる。体調はすこぶる良好。食欲も旺盛。一日でここまで来られた達成感と残り3日あるという安堵感。地元民との話も盛り上がりついつい2本目のビールに手を出してしまった。そしてその夜高山病の本当の怖さを思い知ることになる。


ネパールの一般的な定食。お代わりは自由のようだ

夜中に動悸と息切れで何度も目が覚める。頭がガンガンと痛い。まるで高熱が出ている感覚だ。SPO2は70%、脈拍も100を超えている。そう、高山病は夜に襲ってくるのだ。思えば富士山頂でも低酸素テントでも一夜を越したことはない。正直かなりのダメージだった。寝ると辛いからひたすら夜が明けるのを待った。そしてアルコールが完全に抜ける深夜頃、知らぬ間に眠りに落ちた。


山での飲みすぎには注意しましょう♪

26日午前5時前、じっとしていると辛いので早めに行動を開始した。食欲は無い。宿の主はまだ起きていないので、昨夜の飲食代と宿泊費を少し多めに置いて行く。ちなみにこの辺りの宿泊代は100円程度と旅人の財布に優しい。標高4000mを越えたあたりにエベレスト方面に向かう道とアイランドピークに向かう道への分岐がある。特に目印がなかったので道なりに行くと東向きにかかる橋があった。ミスコース。戻るのは嫌なので北へ向かう沢を詰める。知らない土地で地形図頼りに進むのは何とも不安で且つ楽しい。しばらく行くとペリチェ(4240m)に至る橋を見つけた。


ぐんぐんと標高が上がっていく。

ここまで体調は悪くない。途中少しでも頭が痛くなると座って呼吸を整えるようにした。ペリチェには診療所があるからここで高度順応を兼ねて一泊するのも手だ。何せまだ予備日も入れて3日もあるのだから。ペリチェではゆっくりと朝食を摂ることにした。暖かいミルクティーとジャムトースト。それとコーラを一本空けた。ここから次の町、トゥクラまでは400m、その先ロブチェまでは700m、この日マラソン一団が滞在するゴラクシェップまでは900m、エベレストBCまでは1100mの標高差がある。距離にすればたかだか20km足らずなので大したことではない。如何に高度に順応できるかだけが勝負だった。


トーストとティーで500円くらい。標高と共に値段も上がる。

ペリチェからは広い湿地帯のような緩やかな川沿いを登ってゆく。たくさんのヤクが緑を貪っている。ハラホリン(モンゴル)へ向かう道で見た風景と同じだ。生命に溢れていて実に美しい。しばらく進むと大きな谷へ降り橋を渡る。地図で見る限りどうやらここがエベレストから続くクーンブ氷河の先端らしい。無性に心が躍る。クーンプ氷河を西側へトラバースする所にトゥクラの村がある。標高は4620m。ポカポカ陽気が心地よいので外でミルクティーを一杯いただいた。そして体に問いかける。このままペリチェに戻って一泊するか否か。しかし時計はまだ8時を回ったところだ。もう少し進んでからでも遅くない。それにロブチェの山も見てみたい。


360°山に囲まれた風景。どの山も面白そうだ。

ネパール政府はトレッキングと登山を明確に区別している。6000mを越える山に登る場合は入山許可と料金を支払う必要がある。エベレストなど8000m峰を目指すクライマーの登竜門となる山の一つが6135mのロブチェピークである。その登山口にロブチェ村(4910m)はある。ロブチェではパンケーキをいただいた。そしてさりげなく山小屋の主人に話しかける。「僕はパーミッションを持っていない、あなたは用意できるか?」。予めカトマンズで登山許可を取ることが厳しく義務付けられていると聞いていたのだが、果たしてどこまで厳格にそれが守られているのか。それを確かめたかったのだ。そして少々のチップで済むのなら登ってみたいと邪な気持ちすら抱いていた。「無理だ」。即答だった。ゴミ一つ落ちていないエベレスト街道の徹底したコンプライアンス。ガイドや山小屋の意見が絶対視される厳格なルール。日本の山より何歩か先を進んでいるなと思った。


ピーク踏みたいというのはクライマーの性。今回は下見なので仕方ありません。

さて、ここからエベレスト街道最後の町、ゴラクシェプまでは距離にして5km、一般的コースタイムで約3時間、自分の足ならお昼には到着するだろう。マラソン一団は高度順応を兼ねてここで連泊しているはずだ。既に今までの最高地点であるモンブランよりも高い所まで来ているが体調は悪くない。ならば向かおうと。夜に高山病が襲ってくる恐怖があったが最悪寝なければ良い。それにだめなら当初の予定通りペリチェまで戻れば良いのだ。

常念岳から大天井岳へ至る稜線のような風景を見ながら歩く。ヒマラヤは緯度が高いせいか、植生や山の様相が日本の山より1000~2000m低く感じる。5000mを越える頃から森林限界となり、ハイマツは姿を消し、鳥の囀りも聞こえなくなる。まさにデスゾーンだ。ゴラクシェプの町は燕岳のような白い砂岩の中にある。すぐ横にはエベレストの眺望が素晴らしいカラパタール(5550m)、そのままクーンプ氷河を詰めればエベレストBC。エベレスト街道の最深部の町だ。


ここからエベレストは見れないが、どの山も美しい。

ちょうどお昼時にロッジで日本人の一団と落ち合うことができた。この日最も疲れたのがこの日本人探しだった。各ロッジを回り「日本人を知らないか?」と聞いて回る。5150mの高度で斜面に建つロッジを登ったり下りたりする作業がとてもきつかった。それだけに会えた時の感動はひとしおだった。ランチにヌードルをいただいた。体調はすこぶる良いし食欲もある。夜に不安を抱えつつも、この団らんモードの中一人ペリチェに戻るガッツは僕にはなかった。

夜を迎えた。相変わらず食欲はある。チョウメンに加えピラフみたいなものも平らげた。もちろん昨夜の反省からビールは飲まない。聞くと一団はこちらに来てから10日以上飲んでないらしい。外は風が冷たく星空が美しい。僕は昨夜の寝不足もあり、すぐに睡魔に襲われた。いつでも高度を下げられるように、バックパックにきちんと荷物を詰め込んだ。夜中にヘリで運ばれるような無様な事は避けなければいけない。完全な自己責任。無謀ともいえる行程でここまで来たのだ。SPO2は60%台。完全に事前に設定していたアラートラインを下回っている。ちなみにここまで10日かけて高度順応してきた日本人達は80%台を維持している。やはり高度順応には日数が必要なんだと痛感した。しかし事前に国内で取り組んできた努力がなければ絶対にここまで来られなかったとも思った。


チョウメンという焼きそばみたいな料理。まぁまぁいける。

「苦しい」。低酸素テントで苦しくなって外へ飛び出したあの感覚。しかしここには飛び出す場所はない。空気を思いっきり吸いたい。濃いのを思いっきり。座ったままウトウトとしては目が覚め時計を見る。数分しか経っていない。一体何度時計を見ただろう。朝を迎えた。飛び入りなのに快く相部屋を引き受けてくださった青森の楠美さんがダイアモクスを分けてくださった。ついでに高山病に効くという噂のバイアグラも飲んだ。蕁麻疹用に処方してもらっている抗ヒスタミン剤(安定剤)も飲んだ。総合感冒薬もロキソニンも。お呪いでもプラセボでもなんでも良い。意を決して体を起こし、ダイニングルームで暖かいミルクティーを口にした。


失礼ではありますが、慢性呼吸不全の方の辛さが少しわかりました。

不思議なもので体を動かすと高山病の症状は消えてなくなる。この日エベレストBCまで移動する一団より一足先に町を出て、カラパタールの丘(5550m)へ登った。雲一つない青空の中、エベレストが静かに聳え立っていた。美しい。いつまでも眺めていたい気持ちもあったが、早くベースキャンプに行きたいという衝動が勝った。カラタパールから東に向かう尾根を降り、池を横切りベースキャンプまで最短のルートを進んだ。足場が非常に悪いせいか、気が早っているのか、何度か転倒してしまった。


カラパタールから望むエベレスト。標高は5550mに達した。

ベースキャンプの入り口で日本人の一団に追いついた。本来であれば一般ハイカーは立ち入ることすらできないベースキャンプ。今回はエベレストマラソンという事で特別に立ち入りが許可されている。ちなみに僕はこの日の朝、レースにエントリーしないことを決めている。今のパフォーマンスで納得できるレース運びなどできるはずもないからだ。それでも一団に紛れてベースキャンプの最深部まで歩を進める。


ベースキャンプの入り口。胸が躍る。

ベースキャンプではオーガナイザーより厳しい規律が申し渡されている。自由に行動してはならないし、トイレの場所なども予め定められている。それでも僕はどうしてもやっておきたかったことがあった。エベレストピークへ至る取っ付きの一歩を自分の足で踏んでみたかった。スタッフに直談判してみる。クーンプ氷河の裾にある登山口。危険だからダメだと最初は断られたが、いつか登りたいんだと正直に話すと「気を付けて行け!」と快くオッケーをもらえた。




「一歩」


今回は世界最高峰に一歩だけ登って敗退した。だがいつかは最後まで登ってやろう。そう心に決めた。



【後記】

この後、某国登山隊のポーターと仲良くなり、エベレストBCに一泊したこと。「無理だ」と即答した小屋の主人が帰り道「ネクストタイム!」と言いながらロブチェピークのベースキャンプまで案内してくれたこと。多めに料金を置いて行ったパンボチェの小屋で豪勢な食事をご馳走になったこと。ナムチェでエベレストマラソンの選手を出迎えたこと。そしてオーガナイザーのパンデさんの「この国の素晴らしい歴史や文化を見てほしい、そのすべてがこの街道に集約されている」という言葉。やはり一人の旅は良い。感性が研ぎ澄まされ、見ること聞くこと全てが心に響く。そして会う人全てと友達になれる。さて日本に帰ったらもう少しだけ頑張ってみよう。自分や会社のためだけじゃなく、社会やこれからの日本のために。

杉村晋吾