「音」
「私にはね、人の声が音に聞こえるの。鍋やヤカンを箸で叩いたり、雨が雨どいを伝って流れ落ちるみたいにね」
彼女は言った。
「絶対音感みたいなものなの?」
「それとはまた違うの」
彼女は上目遣いにぼんやりと空中を眺めながら言った。まるでそこから僕の質問に対する正確な答えを探してくるみたいに。
「絶対音感っていうのは聞こえて来た物音の音階を瞬時に判別する能力のことでしょう?私の場合、人の声が“本当に”物音として響いて来るの。ときとしてそれは、周りを騒音で囲まれるように私を居たたまれなくさせる」
そこで彼女は僕の顔を見た。
「あなたの声は落ち着くわ。少なくとも食器を片端から叩いて回る音のように私を悩ませたりはしない」
「君の耳に僕の声はどんな風に聞こえているんだろう?具体的に何の音に聞こえるのかな?」
「そうねえ」
彼女は5秒ばかり考えてから言った。
「海の底に潜って聞く海亀やクジラが泳ぐ音かしら」
なんと言って良いか分からず、今度は僕が考え込む番だった。
しかし、と僕は思った。結局どのような音であれ声であれ、彼女の気持ちを落ち着かせるならそれでいいじゃないか。自分の声を誰かに気に入ってもらったこと自体初めての事だったが、それが彼女であることを僕は嬉しく思った。世界に溢れる音や声の中で、自分の声が彼女の心に響いたのならとても素晴らしいことだ、僕はそう思った。