「喫茶店」
僕が彼女と出会ったのは全くの偶然だった。僕がたまたま入った喫茶店で彼女は汚いなりで(良く言えば着の身着のままで)コーヒーを飲みながらどこかの古書店で買ったような小説を読んでいた。僕は彼女の隣の席で同じく小説を読み始めたのだか、それがまた同じ作家の小説だったのだ。
「彼の本が好きなの?」
彼女は身を乗り出すようにして僕の本の表紙を覗き込みながら言った。
「いや、そういうわけじゃないけど暇つぶしに買っただけですよ」
「彼の本ならこっちの方がおすすめよ」
そう言って彼女はごそごそと鞄の中から何冊かの本を取り出した。
彼女は本の話になると実に雄弁に喋った。しかしそれと同時に世の中の細々とした雑事にはまるで興味がないようだった。喋りたいだけ喋ってしまうと彼女は満足したようだった。
それ以来、僕らはその喫茶店でよく顔を合わせるようになった。その度に僕らは小説の話をしたわけだが(ほとんど彼女がひとりでしゃべった)彼女自身のことはほとんど何もわからなかった。ふだん何をしていて、何で生計を立てているのかもよくわからなかった。
彼女が急に喫茶店に現れなくなってから僕は意外なほどガッカリした気持ちになった。彼女のあのクールでシニカルな表情とそれでいて熱を帯びた口調に僕は知らずに引き込まれていたようだ。
ある日新聞の文芸欄で彼女の顔写真を見かけたとき、僕は文字通り椅子から転げ落ちそうになった。何度見ても彼女の顔に間違いなかった。彼女は気鋭の新人作家として文学賞を受賞したということだった。そしてやはり、写真の彼女はクールでシニカルな表情でカメラのレンズに目を向けていた。
今ではすっかり人気作家の仲間入りを果たした彼女だが、僕は今でもあの喫茶店で一日中本を読んでいた彼女を思い出す。そして僕の姿を見つけると、溜まりに溜まった文章観を熱を帯びて語ったデビュー前の彼女の様子が目の前に蘇ってくる。