「エレベーター」
「あなたはエレベーターに閉じ込められたことってある?」
「ないな」
「私はあるわ。20代の終わり頃だったかしら、自宅のマンションのエレベーターに閉じ込められたの」
そこで彼女は煙草の煙を大きく吸い込むと、それをゆっくりと吐き出した。
「夜中にマンションに帰ってきて、自分の階のボタンを押すとエレベーターの壁にもたれてしばらくぼんやりとしていたわ。仕事で疲れ切っていてね。しばらくして違和感を感じた。いくらなんでも着くのが遅すぎるってね」
彼女は煙草を指先でトントンと叩いて灰を灰皿に落とした。
「通報スイッチを押したけれど反応は無かった。それがエレベーターの故障によるものなのか、警備員の怠慢で気が付いていないだけなのか分からなかった」
「携帯は?」
「ウッカリ会社に忘れて来てしまっていたの。打つ手なしってわけね」
「ふむ」
「私はそのままエレベーターの床に座り込んで、ウトウトと眠ってしまったの」
「エレベーターの中で?」
僕はびっくりして聞いた。
「本当に疲れていたのよ。次の日も朝は早いし、そのうち誰かが気がついて警備会社に連絡してくれるだろうと思った」
彼女は煙草を灰皿で軽く揉み消すと、ゆっくりとした動作でもう一本に火を付けた。
「どれくらい眠ったのかわからない、しばらくして目を開けるとエレベーターの扉が少しだけ開いているのが見えたわ。最初それが何を意味するのか分からなかった。ずいぶん深く眠っていたのね。咄嗟に立ち上がろうとしたけれど身体が動かないの。まるで上から大きな力で押しつけられているみたいに」
僕は黙って話の続きを待った。
「そして気付いたの。男が扉の隙間からこちらを見ていることに。まるで『シャイニング』のジャケットみたいに。でもその男にはどの様な表情も無かった。年齢にして30代から40代くらい、特に特徴のない顔立ちだったわ。そしてただこちらを見ているの。ドアの向こうの暗闇から、こちらを少し見下ろす様にして、じっと見ていたわ」
彼女は深く煙草の煙を吸い込んだ。記憶をたどる様に、深く、地下に降りてゆくように。
「悲鳴を上げようとしたけれど声は出なかった。10秒か15秒、そのようにして私はその男と見つめ合っていた。やがて男の顔は背後の闇へと消えていき、私は解き放たれた様に再び眠りに落ちた。あるいは全て夢の中の出来事だったのかも知れない。次に目を覚ましたとき、私は救急隊員に両脇を抱えられる様にして助け起こされていた」
そこまで話すと彼女はようやく落ち着いたというように目を細めた。
「その日結局私は会社を休んだ。そしてその次の日に出社したとき、私は違和感に気付いた」
「違和感?」
「会社の人は皆心配してくれたし、優しい声も掛けてくれた。でもね、彼らには表情というものが無かった」
「感情が込もって無かったってこと?」
「いいえ、私も最初皆が優しい言葉を掛けつつ怒っているんだと思ったわ。そのとき私は結構大事なプロジェクトに携わっていたし、こんなときに会社を休みやがってという風に。でもそうじゃなかった。彼らは本当に心配してくれていたし、それは声のトーンや態度で分かった。ただ表情が無いの。正確に言うと私には人の表情を読み取る事が出来なくなってしまったの。たとえ心配そうにしていたり、怒った顔をしていても、私にはただ無表情な顔にしか見えない」
「じゃあ僕の顔も?」
「ええそうよ」
僕はいくぶん表情に乏しいところはあるものの、人の話を全くの無表情で聞くということはあまり無い。ましてやこんな驚くべき話を聞いているのであれば。
「おそらくあの日、エレベーターに閉じ込められたとき、私の人の表情を認識する能力は失われてしまったの。少しだけ開いた扉の奥の闇の中に、あの表情の無い顔の男によって奪われてしまった。おそらくは、永遠に」