「殻」
ひやりとした部屋の空気の中で僕は椅子に腰掛けて小説の続きを読んでいた。少し前に図書館から借りて来て、もうじき読み終わるところだった。しかし、小説が佳境に差し掛かるにつれて僕にはある気がかりが生じつつあった。それはつまり、彼女はもう帰ってこないかもしれない、ということだった。
もちろん彼女が帰って来ないなんてことはあり得ない事だった。いや、この言い方は正確じゃないな。僕は彼女が家に帰って来ないということは原理的にあり得ないと言っているのではない。この広い宇宙においては、実に様々な可能性が満ちあふれている。彼女が突然の事故や不測の事態によって帰って来られなくなることは十分に考えられることだ。僕が言いたいのは、彼女が何の前置きも無く、彼女の意志で帰って来なくなることはあり得ないということだ。彼女はそういう面では、きちんとしたものの考え方をする人間だった。
それでも静まり返った部屋の中でふと我にかえり、壁の時計の秒針が時を刻む音を聞いていると、あるいは彼女は帰って来ないかもしれないという考えが僕の思考を捉えて離さなかった。
やがて彼女が帰って来てキッチンで夕食の支度を始めてからも、僕はまだどこかで、彼女が暫定的な存在であるような気がしていた。何かの気まぐれでふと戻ってきて、またすぐにどこかに行ってしまうだけの暫定的な存在。
「もう帰って来ないんじゃないかと思ったよ。」
僕は口に出してそう言ってみた。
「どうしてそう思うの?」
彼女は夕食の支度を続けながら言った。
「ただ何となくさ。部屋でひとりで小説を読んでいたらふとそう思ったんだ。」
「あるいはそれはあなたの願望かもしれないわよ。」
彼女はそう言った。
「願望?」
「あなたは無意識のうちにひとりになる事を望んでいるのよ。そしてそれを妨げる私のことを遠ざけたいと心の中で思っているんだわ。」
「まさか。」
僕は首を振って言った。
「あなたって昔から、どこかそういう人を寄せ付けない心の殻みたいなものを持っているのよ。そしてなにか都合の悪いことや、ひとりになりたいときにはその中にすっと入り込んで、いくら呼んでも出て来ないの。そして私はあなたがそこから出て来るまでいつも我慢強く待ち続けているの。そしてときどきとても疲れてしまうことになるの。」
「申し訳ないとは思っているよ。」
僕は言った。
「その僕の心の中にある殻とやらは僕が生まれつき持ち合わせたものらしいんだ。君を傷付けたいと望んでいるわけじゃない。」
「でも時としてそれは私の心を深く傷付けることになる。あなたが好むと好まざるに関わらず。」
僕は少し黙った。その間に彼女は食事をテーブルに運び、僕は冷蔵庫からビールを出して自分のグラスに注いだ。夕食の間僕らはほとんど口をきかなかった。
ベッドの中で隣に彼女の寝息を聞きながら、僕は長い間眠ることが出来なかった。もし彼女の言う通り、僕が自分の殻に閉じこもることで彼女を深く傷付けているのなら、いずれ彼女は本当にどこかに行ってしまうのかも知れない。それはあり得ないことではなかった。そして実際に僕は彼女のことを傷付けてもいるのだろう。僕の中の彼女を愛する気持ちと僕自身に対する無力感がせめぎ合って、ときとして僕は心を固く閉ざしてしまう。己を彼女から遠ざけることで彼女と自分自身を守ろうとする。そしてそのことが彼女をさらに傷付けることになる。そんな泥沼の中で僕は出口を見失ってしまっていた。
やがて僕はベッドを抜け出し、キッチンでウィスキーをコップの底に2センチばかり注ぎ、それを一息に飲み干した。そして静かに涙を流した。やがてそれは堪えきれない嗚咽となりついには肩を震わせて泣いた。僕は愛する人を失いつつあるのかも知れない。そのような想いが込み上げて来て、僕の心と身体を震わせた。僕は変わる事が出来るのだろうか?深夜のキッチンで肩を震わせ涙を流しながら、自分自身にそう問いかけていた。