多事争論(時事所感) -3ページ目

プラトン哲学と国家の独立⑥・・伊藤貫【時事所感156】

話の続きになります。

お話は伊藤貫氏です。



※伊藤貫・・・東京出身、東京大学経済学部卒業。米国ワシントンD.C.で金融コンサルタント会社、ロビイスト会社勤務。米国コーネル大学で国際政治、外交史を学ぶ。

評論家、米国金融アナリスト、国際政治アナリスト、政治思想家。米国CNN、CBS、米国公共放送、英国ITN、BBC等テレビ出演新聞雑誌寄稿多数。



(以下、伊藤貫氏)



これからお話する内容については、

これは多くの皆さんには受け入れてもらえないかもしれません。


以前にも申し上げていたんですけれども、

保守主義には、


「何を保守するのか?」


ということがあるわけです。

“What do you want to conserve?”


“conserve”保存する、温存する、保守する、でしょ。


貴方は一体何を保守したいのですか?

ということなんです。


現代の少なくとも日本人や米国人の多くの人たちは

「国益を擁護したい」

若しくは

「国家のパワー、国家の国力を温存したい」


ナショナリズム若しくは経済利益や軍事利益を擁護温存したい、保守することを保守主義として、

だからそれに反対する左翼は嫌いとする人たちがいて、

そういう国益コンサバティブ、

ナショナリズム・コンサバティブとかそういう人たちがいるわけです。

そういう国益コンサバティブやナショナリズムを前面に押し出すナショナリズム・コンサバティブのある他方で、

それらとは別に「クラシカル・コンサバティズム」というのがあるんです。


このクラシカル・コンサバティズムというのは、

クラシカル古典的なバリュー価値、価値観、

それと古典的な文化やその様式をなるべく温存したいと。


何故ならば何百年も続いてきた古典的文化というのは、

それなりに何百年も続いてきたわけですから、

洗練されたものであって、

良いものだけが残っているわけです。



だからそういうクラシカル・カルチャー古典的文化やクラシカル・バリュー古典的な価値規範というもの、

そういうものを簡単に破壊してしまうと、




「人間は逆に野蛮な状態に戻ってしまう」




だから人間の野蛮性を避けるために、

クラシカル・バリュー古典的な価値規範や価値観、

クラシカル・カルチャー古典的文化を大切にしよう、

そういうクラシカル・コンサバティブの立場があるわけです。


私は非文化的な人間なんですが、それにもかかわらず自分のことをクラシカル・コンサバティブと思っております。



人類について考えると、過去2500年間に質の高い文明規範、若しくは質の良い考え方があったわけで、

私はそれが4つ有ったと思います。


それが先程述べた西洋世界ではギリシャ哲学とギリシャ科学、それとキリスト教文明、

東洋世界では仏教と儒教という2つのアジアを代表する文明の規範だったと思います。


ギリシャ文明圏というのがありますよね、

それからキリスト教文明圏がありますね。

仏教文明圏があって、

儒教文明圏がありますね。

要するにそれ以外の文明圏というのは非常に小さかったですよね。

それから永続性のあった文明規範というのは、

ギリシャ文明とキリスト教、それから仏教と儒教だと思います。


私はこの4つの流れを人類の文明の4つの源流と考えています。


多分世間では笑い物にされると思うんですが、

ギリシャ哲学とキリスト教の神学、

要するにキリスト教の1番コアになる価値は神学的な考え方、それと仏教と儒教の中核コアになっている思想というのは、

21世紀の現在になってもそのうちの7割程度は正しいんじゃないかと思えるんです。

後の3割程度は古臭い迷信に過ぎないとかフィクションだとか言って笑い飛ばせるんですけれども、

7割程度は正しいのではないかと思えるんです。


仏教と儒教とギリシャ哲学が出来たのは約2500年前でしょう?

先程述べたように18世紀後半に啓蒙主義思想の時代になって、

古い思想を笑い飛ばして、

人間の欲望と人間の欲求、それと人間の権利を前面に押し出す啓蒙主義が1番正しいんだと。

キリスト教に仏教、儒教なんてものは古臭い、

プラトンやソクラテスも古臭い、

そういう風な考え方が出てきたわけです。


こういう風に人類文明の4つの源流をそう簡単に貶めるような態度というのは、

私は過去200~250年の人類の思い上がりではないかと考えているんです。


何故そういう風に思い上がるようになったかというと、

やはり科学技術の発展なんですね。

科学技術の発展が進むと、経済生産性が上がるわけです。

それから凄く便利になりますよね。

生産性が上がって便利になっていくと、

人間は自分達の好きなようにこの世界を変えられると思い込むわけで、

それからクラシカル・バリュー古典的価値規範や古典的価値観、古典的な制度システム、クラシカル・カルチャー古典的文化や様式よりも、

どんどん変えていけばいい、

次々と変えていけばいい、

そういう変化する方を重んずるようになったわけです。


そういう感は分からないでもないんですが、変化を主として技術革新を重んじる度に人間の殺傷能力というのが増えてきまして、

現在においては米国とロシアが実質的に戦争を始めたので、

米国ワシントンに住んでいますと、

「米国とロシアの核戦争が起きる確率は~~」とか、

「米ロ間で核戦争が起きるとき、どのように始まるのか」

とか話しているんです。


私には科学技術の進歩によって人間が振り回されているようにしか見えない。

一旦米国ロシアが核戦争が始めたら、これは少なくとも数千万人~もしかすると数億人の人々が死ぬわけです。


そういうことまでやるようになった人間というのが、

どれ程賢いものかと  ・・。


もう1度言いますけど、もしかするとまた核戦争が起きるかもしれない中国、北朝鮮、ロシアの核ミサイル・ターゲットになっている日本について、

そういう事態になっても、アメリカ政府、米国国務省、C.I.A.は日本人にだけは絶対に核を持たせないと以前からずっ決めているんです。


非常に不道徳なわけでしょ?

日本、日本人が核攻撃の犠牲になっても、それを理由に中国、北朝鮮やロシアを相手に核戦争することは有り得ないわけです。


それにもかかわらず日本、日本人にだけは核抑止力を絶対に持たせないと決めてあるんです。


こういうグロテスクなまでに不道徳な政策を日本人に押し付けているアメリカ政府や米国の政府官僚はケロッとしているんですね。


こういうことを見ていると、人間の道徳的な判断力というのがどれ程進歩したんでしょうか?


寧ろ17世紀18世紀のほうが遥かにマシだったんじゃないか。

もっと言えば、プラトンやアリストテレスが生きていた時代のほうがもう少し真面だったんじゃないか、

そう思う訳です。


兎に角私はそういう理由で過去200~250年間の文明について、

確かに科学技術は進歩したけれども人間の価値判断能力というのはどれ程進歩してきたかどうかについては疑問であるわけです。






ここからプラトンの話へと移ります。





(続く)






プラトン哲学と国家の独立⑤・・・伊藤貫【時事所感155】


お話の続きになります。

お話は伊藤貫氏です。





(以下、伊藤貫氏)



話をヨーロッパ文明へ移します。


私はヨーロッパ文明が好きなんです。

けれども最近過去200年間のヨーロッパ文明ははっきり言って駄目になってきたな、と。


何故かといいますと、

ヨーロッパ文明の基盤は2つありまして、

一つは紀元前4~5世紀に発生した、特にソクラテスやプラトン、アリストテレスが始めたギリシア哲学ですね、それとギリシャの科学精神で、

一般的にはソクラテスとプラトンが人類の哲学の基盤を作り、それからアリストテレスが人類の自然科学と世界の社会科学を作ったと。


我々が普段使っている、要するに考えている科学的思考力と哲学的思考力というのは、紀元前4~5世紀にこの3人が始めたものが、ヨーロッパ文明の基盤になってきているわけです。

それから約400年経ってジーザス・クライスト、イエスキリストが出てきて、新約聖書に載っているような御説教をして、そしてキリスト教文明というのを作ったわけです。


ヨーロッパ文明というのはその源流が、

ギリシャ哲学やギリシャの科学、それからローマ帝国に拡がったキリスト教文明というものから来ているんです。


それが変わったのが18世紀後半なんです。





18世紀後半からギリシャ哲学とキリスト教文明、それからキリスト教の教義自体を批判する「啓蒙主義思想」というのが出てきて、

それから約250年間、ヨーロッパ文明やアメリカ文明はそれが啓蒙思想が正しかっただろうというふうな動きをしてきたんです。


しかしながら問題なのは、

ギリシャ哲学にしても、そしてキリスト教文明にしても、

「人間よりもっと大切な価値がある」としていて、

それを彼等は、

「トランセンデンタル・バリュー」“transcendental value”

と呼ぶんです。

「超越的価値」ですね。


究極の真善美ですね、アルティメット。

究極の真、それと善、そして美。


若しくは「神聖なる価値」

若しくは“divine value”または“divinity”「神聖なるもの」

普通の人たちはそれを「神」と呼んでいるんです。


ギリシャ哲学にしてもキリスト教にしても、

人間よりももっと大切な価値というものがあって、

それに従って生きていくのが我々人間の務めであるというふうに思っていたんです。


けれども18世紀後半以降の啓蒙思想というのは、

いい言い方をすれば、エンライトメント“enlightenment”

要するに人間に光を与えるということになっているんですけれども、

良くも悪くも「人間中心主義」なんです。

“human centric”

更に言うと、

「人間こそがこの世界の中心である」

「人間こそがこの世界で1番偉いんだ」

「人間の欲望、人間の欲求、人間の要求する権利、これが我々人間にとって最も貴重なもの」


人間の欲望、人間の価値判断、人間の要求する権利、

これらを尊重するのがいい生き方であるとしたら、

それからどうなったかというと、

そうすると価値判断の中心が、

ギリシャ哲学やキリスト教文明においての

「ディビニティ」神の如きもの、

若しくは「ノーブル・マインド」高貴な人間の精神、


要するに人間の都合や好き嫌いよりも超越するトランセンドした高貴なるもの、ノビリティ神聖、神性なるもの、若しくは崇高なものがあるという思考パターンが否定されて、

人間様が1番偉いんだ、

人間様こそがこの世界の中心で主人公なんだ、

人間様がいいと思うことをやればいいんだ、

という「人間中心主義」に変わってきたわけです。


人間中心主義っていうのは一見素晴らしいように思えたりもするんですけど、

しかしながら少なくともソクラテスなりプラトンなりアリストテレスなり、

それからジーザス・クライストなりは、

「人間は屡々愚かなことをする、だから人間は自制しなければならない」

セルフ・レストレイン、自制心を持って発揮する、と。


自分の欲望や自分の要求や権利だけを主張して、

それを押し通そうとすると単にいざこざが起きるだけでなく、社会全体もきちんと運営出来なくなる。

社会全体の価値規範自体も崩れていく。

これをプラトンもアリストテレスも指摘していたんです。


しかしながらそういうのを取っ払って無くしてしまったんです。

それを1番最初に真っ先に先頭に立って率先やったのが、

ディドロ、ダランベールとかルソーとか。

特にルソーなんかがそういうことをやっていって、

人間が自然に帰る、と。自然の人間は素晴らしい、と。

原始状態の人間が1番素晴らしかった、と。

だから社会の伝統とか慣習とか仕来りなんか全部すっ飛ばしてしまえ、と。

人間の欲望と人間の夢を優先させればいい、と。


この辺りから人間というのは、

実益というか自分にとって得になるもの、

自分にとって役に立つもの、

それと自分の都合を優先させればいい、

そういう態度がかなり露骨になってきたわけです。


一見素晴らしいように聞こえる18世紀の啓蒙主義を経た後の人間が何を言い始めたかというと、

19世紀になってからの植民地獲得競争、

それと帝国主義、

植民地での非白人に対する露骨な搾取、

これは人種主義、人種差別主義ですね。


自分、自分達の民族が1番偉いんだ、

自分達民族の利益、欲求をどんどん優先させればいい。

弱い民族は土足で踏みにじっても別に構わない。


そういう民族主義と国家主義が出てきた。




初めの頃の啓蒙主義については、

人間の欲望、人間の権利を尊重して前面に押し出し尊重するのがよいという考えを進めはじめた時、

彼等は理想主義者だったんです、

けれどもそれを19世紀になって実践してみたら、

世界中で植民地獲得競争、帝国主義闘争になってしまった。


それからよく云われる

“Might is right”

「力は正義なり」ですね。


力の強い奴が力の弱い奴を踏みにじって何が何処が悪い。

そういう考え方、やり方になってからは国際政治においてもこういうやり方を使うわけです。


それが19世紀の帝国主義になって、

20世紀の第1次世界大戦、第2次世界大戦に繋がっていくわけです。


その時日本人はこれに順応して勝者になったような気分になったんです。

けれども1945年に叩きのめされて、

それからはもう2度と独立出来なくなったわけです。


これも過去約200年の政治思想史、それから外交史からみると、

こういうことが起きてきたのも最終的には、

西欧人の価値判断力、政治思想がどんどん変わってきたからだと。


私は過去250年の欧米人の価値規範の変化というのを、

好意的にはあまり肯定的にはみていないわけです。






(続)




















プラトン哲学と国家の独立④・・伊藤貫【時事所感154】

話の続きになります。

伊藤貫氏のお話です。


※伊藤貫・・・東京出身、東京大学経済学部卒業。米国ワシントンD.C.の金融コンサルタント会社、米国ロビイスト会社勤務。米国コーネル大学で国際政治、外交史を専攻。現在米国ワシントン在住。評論家、政治思想家、金融アナリスト、国際政治アナリスト。

米国CNN、CBS、NBC、米国公共放送、英国ITN、BBC等テレビ出演、新聞雑誌寄稿等多数。





(以下、伊藤貫氏)


生きることの意味、生きるうえでのやるべきこと、使命感や任務、人生の生き甲斐等を明瞭にしてくれるのが「哲学」や「宗教」なんです。


因みにこの哲学や宗教的思考を持たない民族というのは、明瞭な価値判断能力を持てないわけです。


これを基に方法や政策議論を国内政治、国際政治、経済学や軍事学、核戦略理論とか、

こうした学問・パラダイムレベルにおいてどのパラダイムを採用するのが我々にとって最も良い方策であるのか。



次にそういう学問学派、パラダイムレベルを採用したものを基に如何なる政策を行うかという政策議論のレベルがあるんです。






正直に申し上げますと、過去77年間の日本の左翼をみてみると、

日本の左翼が言うところの、護憲から平和主義、人権主義、平等主義というのは、

本当の哲学なり宗教観に基づいた議論ではなかったんです。


なんとなく情緒的にムード的に、

「平和主義万歳」「人権主義万歳」を唱えていたに過ぎなかったわけです。

「平和主義が1番いいんだ、平等主義がいい、人権主義が大切。それがヒューマニズムだ」と言ってはいるんです。 


しかしながらヒューマニズムだといっても、

人間には何らかの行動には必ず価値観、価値基準を伴いますから、

どういう価値判断が我々にとって善いものであり、

どういうものが劣悪な価値判断なのか、

そういう価値観なり価値基準についての議論をずっと今まで避けてきているんです。


そういった日本の左翼の人たちが本当の哲学なり宗教観に欠けた議論をしてきたと同時に、

日本の保守派も吉田茂以降の日米基軸主義というお題目の下、

米国にくっ付いて、

米国、米軍にずっと占領してもらって、

アメリカ文明の猿真似をして、

米国がグローバリズムをやり始めると我々日本もグローバリズムをやる、

米国がネオリベラリズムを始めると我々日本もネオリベラリズムをやる。





米国が、

「企業は全て株主に、株主利益のために存在する」


「だから従業員の給与をバンバンバンバン下げて、

株主に対する配当金を5倍も6倍も7倍も増やせばそれでいい」

 

「株主が儲かれば従業員の給与は上がらなくても、若しくは従業員の給与はどんどん下がっても構わない」


そういう米国式の株主優先主義を日本に押し付けてくると、

日本の橋本(龍太郎)政権、小泉(純一郎)政権、安倍(晋三)政権は全部それを実行したわけです。


過去30年間それを実行してきて、どうなったかと言うと、

日本の勤労者たちはどんどんどんどん貧しくなって、

日本の株式市場の約7割が外国勢、特に米国が支配している。

日本の株式市場を支配している外国金融業者やヘッジファンド業者は自分達の金儲けのことだけを考えていますから、

「日本の勤労者たちの労働コストをどんどん減らせ!」

となります。

すると日本政府は、

「はい!分かりました!やります、やります!」

と言って、

外国金融機関、外国の株主と投資家たちに都合の良い政策を実行して、

日本の社会をどんどんどんどん、

少なくとも日本の人口の約半数の人々、日本人は貧困化させられてきて、

日本人の20代、30代、40代の其れ其れ約2~3割の人たちは貧しくて結婚出来ないという状態になったわけです。


日本の保守派の日米基軸主義、

要するに「日米基軸」だから、

米国が言ってくる経済学のパラダイムでも、

米国が言ってくる国際政治のパラダイムでも、

米国が言ってくる核戦略理論でも、

全部鵜呑みして、

相手米国の言うままにやっていればいいんだ、と。


それが最近では小泉純一郎政権や安倍晋三政権だったわけです。


その結果、日本の立場は、

経済的にも、外交的にも、軍事的にも、

どんどんどんどん悪くなってきたわけです。


日本政府、自民党、外務省、財務省、経済産業省、防衛省、自衛隊も、

自分達の価値判断、自分達の長期的な国益のために何をすればよいのかということについて自ら考えるということをやらないんです。


アメリカ様優先で米国が言ってくることは全部やる、

それが小泉政権や安倍政権だったわけで、

日本はどんどんどんどん劣化してきたんです。


(米国ワシントン在住の)僕から見ていますと、

日本人には哲学や宗教からくる価値規範や価値判断能力が欠けている、

そこから経済学、国際政治学、軍事学、核戦略理論等

例えば国際政治において我々日本はどのようなパラダイムを採用すべきか、

そういう判断力に欠けているんです。


だから少なくとも過去25年間ずっと米国の言いなりになってきて、

そこからどんどんどんどん日本は貧しくなって。


中国や北朝鮮が次々と水爆級核弾頭を増産して、

日本の立場はどんどん悪くなっているんです。


米国は『 「米国の核の傘」があるから大丈夫』と言っているんですけれど、中国や北朝鮮、ロシアがニュウクリア・ブラックメール(nuclear black male)核恫喝をしてきても、

米国は日本を守るために中国や北朝鮮、ロシアを相手に戦争をするかといえば、

それは絶対にやらないんです。


やらないんです、それは。


それを判っていても日本の外務省、防衛省、自衛隊は真正面から反論するということが全く出来ないんです。


本当に出来ないんです、あの人たちは。



これは何なのかというと、述べているように、

哲学レベルの判断力、パラダイムレベルでの判断能力が全く無くて、

「兎に角、米国にくっ付いていけば大丈夫だろう」という日米基軸を言って、それで済ませているから、

米国に弄ばれていて日本の立場はどんどん悪くなってきたわけです。


この過去約30年間だけをみても、日本、日本人は結局「3段階の思考レベル」で物を考えないでやっているから、

こういうこと、現状になってきてしまったわけです。






話をヨーロッパへと移します。


私はヨーロッパ文明が大好きなんです。

けれども、最近過去200年のヨーロッパ文明ははっきり申し上げて、駄目になってきたな、と。







(続く)