プラトン哲学と国家の独立・・⑨伊藤貫【時事所感159】
話の続きになります。
お話は伊藤貫氏です。
※伊藤貫・・東京生まれ、東京大学経済学部卒業、米国ワシントンD.C.で金融コンサルタント会社、ロビイスト会社に勤務。米国コーネル大学で国際政治、外交史を学ぶ。
評論家、米国金融アナリスト、国際政治アナリスト、政治思想家。
米国CNN、CBS、米国公共放送、英国ITN、BBC等テレビ出演、 新聞雑誌等寄稿多数。
(以下、伊藤貫氏)
プラトンは人間というのはそういう崇高性を目指さなければならないとしているわけです。
プラトンは、人間は3つの欲望や欲求によって動かされていると言っているんです。
最も良いレベルの欲求というのは、
知性や知恵、理性に対する欲求、欲望であると。インテレクチュアルな欲求ですね。
2つ目は、名誉や勝利、人間のプライドを重んじる欲求ですね。
それから最も下になる3つ目、
お金、
それから食に対する欲望、欲求、
美味しいものを食べたいとか。
それと性的欲望、欲求ですね。
男性とか女性とか異性にもてたいとか、
あと性的欲求や欲望とかですね。
要するに官能的な欲求、快楽的プレジャー喜び、
お金持ちだとか贅沢したいとか、
社会的地位を見せびらかしたいとか、
そういう欲望ですね。
こういった欲望、欲求を最も下の3つ目に言っているわけです。
人間はこの3つの欲求、欲望によって動かされていると。
プラトンは1番目のタイプを「哲人タイプ」と言っているんです。
フィロソファ、哲学者というより哲人、悟りを追求するタイプですね。
2番目のタイプの人達を、 「軍人・戦士タイプ」と。
ファイターですね、闘志タイプですね。
3番目のタイプの人達を彼プラトンは、
「快楽主義者タイプ」「商売人タイプ」としているわけです。
プラトンは、この3つのタイプのどれを重んじるかによって政治体制が変わると言っているんです。
プラトンの有名な本「国家」に出てくるんです。
この本でプラトンが述べているのが5つあるんです。
1番目の哲学的、哲人的欲求を重んじるのを「哲人統治」。
2番目の勝利や名誉を望む、若しくはプライドの充足を重要視するのを「名誉体制」若しくは「軍人統治」としていて、
日本においては江戸時代の武士階級ですね、
「武士の誇りにかけて~~」とかですね。
要するに2番目の体制は「武人統治」ですね。
3つ目が金儲け等を欲求する、重視するタイプ、これを彼プラトンはプルートクラシー(Plutocracy/富裕層支配体制、金権政治)、富裕層体制とかオリガーキー(Oligarchy)、寡占体制というんですけど、
そう呼んでいたわけです。
4つ目が民主体制で、
民主体制というのは一人一人の欲求や欲望に何らの上下もない、
全ての人の欲求や欲望は全て平等に扱われるべきであると。
要するに、趣味とか余暇やお金の使い方とか
これらに上下関係はないと。
例えば、どんなに品の無い映画やテレビ番組でもテレビタレントや俳優でも大衆にウケていれば、
つまり「皆にウケた者の勝ちだ」と。
要するに「数は力なり」。
民主主義って、そうでしょ?
だから彼プラトンは4つ目を民主体制と言っているわけです。
それから5番目が独裁体制、専制政治としています。
彼プラトンは「国家」という本でこの5つの体制について議論していて、
再度述べますが、
1番目を「哲人統治」
2番目を「武人統治」若しくは「軍人統治」
3番目を「富裕者統治」
4番目を「民主政治」
5番目を「専制政治」
話が長くなるので概略すると、
プラトンは「哲人統治以外」
つまり軍人統治、富裕者統治、民主体制、専制政治、
これらは必ず堕落していくと。
特に「民主主義」に関しては、
人々のその場の思い付きやその場の要求だけを優先することになりますよね。
民主体制、民主的な政治家というのは、来年、再来年若しくは数ヶ月後の選挙に勝たなければいけないので、大衆の1番好むことをやりたがるわけです。
大衆の好むことというのは週単位、月単位若しくは数年で変わっていく、
更に大衆の考える能力というのは然程高くありませんから、
要するに「人気取り」をする人がどんどん影響力を持つようになると。
そういう人気取りばかりするような人、政治家に国家を任せておくと結局は国家が衰退してしまうと。
プラトンがもっとはっきり書いているんです。
真の指導能力を備える人というのは、
民主主義をすると本当の指導能力を持つ人が政治家になりたがらないと。
理由は、毎日大衆を相手に人気取りをやらなきゃいけないわけで、
本当に優秀で指導能力のある人は、毎日朝から晩まで人気取りのジェスチャーばかりするのが嫌なんです。
選挙民の集会に出掛けて行ってご機嫌取りをやらなきゃいけないのが嫌なわけです。
これは世界中で言えることなんです。
(長年米国ワシントンに住んでいて)米国でも見ていますと、優秀な人というのはいるんです。
指導能力と人格の優れた人というのはいるんです。
けれども人格の優れた指導能力のある人というのは政治家になりたがらない。
民主主義を採用すると本当に優秀な人は出てこないんです。
ああいうのは嫌だと。
ああいう風に人前で声を張り上げて、
人と口喧嘩してみせる、あれってジェスチャー、お芝居なわけでしょ。
政治家というのはああいう馬鹿馬鹿しいお芝居をやらなきゃいけないわけで、
そういうのは勘弁してくれと。
何れの国でも人間的に人格的に真面で、きちんとした知性と確かな価値判断能力を持つ人というのは、政治家にはなりたくないとなるんです。
だから民主主義は失敗するんだと。
プラトンはそういうことを言っているわけです。プラトンの国家論といい実はソクラテスもそうなんです。
(続)
プラトン哲学と国家の独立⑧・・伊藤貫【時事所感158】
話の続きになります。
お話は伊藤貫氏です。
(以下、伊藤貫氏)
話はプラトンに戻ります。
プラトンとカントには共通点がありまして、
二人とも、
目の前の現実は勿論目の前の現実だけれども、
目の前の現実だけが現実ではない。
人間にはより根源的な現実がある。
というように分けているんです。
プラトンはそれを、
「目の前の現実というのは、洞窟に閉じ込められているプリゾナー囚人が、洞窟の壁に映っている影を見て、その影を指して、これが現実だと叫んでいるようなものである」
要するに洞窟のなかで焚き火の灯りによって洞窟の壁に映るゆらゆらと揺れる影を見て、人間達が影を指さしてこれが現実だと叫んでいるようなものであって本当の現実ではないと。
カントはそれを別の言い方で「フェノメノン」と「ヌメノン」というように分けていまして、
我々が日頃相手しているような一般的な現実はフェノメノンであると。
その目の前にあるものを生じさせている根源的な現実を、
彼は(日本語の哲学書では「物自体の世界」と書いていますが、)目の前にある現実のベースにある最も根源的な一番大切であり、しかも全く変わらない現実、
彼はそれをヌメノンと呼んでいたわけです。
要するに目の前にある現実以外にももっと大切な現実がある、
ということを主張していたという意味において、
プラトン哲学とカント哲学は似ているところがあるんです。
二人とも、目の前の現実を超えたところに真善美の価値観、神や仏の如きディビニティー(divinity)、要するにディヴァイン、神聖なるものが存在すると。
プラトンとカントに共通するのが、
目の前の現実というのは我々人間が毎日相手しているような現実、新聞やテレビに出るような現実、それと政治家やジャーナリストが騒いでいるような現実、
そういう現実というのは、吹けば飛ぶようないい加減なものに過ぎない。そんなものは幾らでも変わると。
「万物流転」ですね。
ヘラクレイトスというソクラテスの前に生まれている哲学者が「万物流転」だと、全ては変わるから確かなものなど何も無いと。
彼ヘラクレイトスは目の前にあるフェノメノンのことをそう言ったわけです。
プラトンとカントに共通するのは、
目の前の現実を超えたところに「物自体の世界」若しくは「根源的な世界」があると言っていることなんです。
プラトンはその世界のことを、
「イデアの世界」とか「フォームの世界」とか言っていて、
フォーム、形式ですね、
要するに抽象的な、論理的な世界があるのだと主張しまして、
プラトンもカントも二人とも目の前の現実だけを分析することには賛成しなかったわけです。
二人とも根源的な現実には神の如き若しくは神聖なる価値が存在すると。
道徳規範とか価値規範というのは、
全てその場の状況に応じて変わるものではなく、
イフェメラル(ephemeral/一日限りの命、短命な~)、吹けば飛ぶようなものではない、
永遠性と普遍性をもつ価値判断というものは存在することが可能であると。若しくは必ず存在すると言っていたわけです。
これを基にプラトンもカントも二人とも「神の存在」というのを認めていたわけです。
ところで 「神」というと皆さんは宗教と思うでしょ?
ところがプラトンもカントも宗教は持っていないんです。
彼らは宗教的な「神」には賛成していないんです。
哲学的に考えを深くすると、
目の前にある現実とこういったところにもっと深い根源的な現実があるはずであり、
人間の価値判断力、真の価値判断力というのは、
根源的な現実、若しくはヌメノンから来るはずだ、来ているのだと彼らは主張しまして、
神聖なる規範若しくは究極の真善美の価値というものも存在すると。
彼ら二人は非宗教的な意味で神の存在というのを肯定していたわけです。
こういった神の存在、非宗教的神の存在を肯定していたのは、
ソクラテスやアリストテレス、そして皆さん御存知のデカルトもそうなんです。
スピノザもそうですし、
20世紀の有名な哲学者であり数学者のホワイトヘッド、
そして物理学者のアインシュタイン、
彼らも根源的意味における神の存在というのを信じていたわけです。
デカルトやアインシュタインというのは自然科学者ですから、自然科学や数学に非常に優れた人達も神の存在というものを非宗教的な意味で肯定していたわけです。
ということはどういうことかと述べると、
崇高性をもつもの、ノビリティ(nobility),
若しくはシュープリーム、シュープレマシー、(supreme/supremacy)最も優れた非常に崇高な価値規範というものが存在するのであって、
我々人間はそれを目指して生きてゆくべきだと。
但し、目の前の現実にはそれは存在しないわけです。
だからプラトンもカントもデカルトもスピノザも、それはきちんと分けて議論しているわけです。
「崇高性の存在」若しくは「神の如き価値の存在」というものを認めたうえでプラトンは、
人間はそういう崇高性を目指さなければならないとしたんです。
プラトンは、
人間の性格というのは、3つの欲望、欲求によって動かされている、と述べています。
(続)
プラトン哲学と国家の独立⑦・・伊藤貫【時事所感157】
話の続きになります。
お話は伊藤貫氏です。
(以下、伊藤貫氏)
プラトン哲学の話へ移ります。
プラトンとソクラテスの関係が非常に面白いんです。
ソクラテスはプラトンの先生で、
ソクラテスという人物は、奇妙な人で、
たいへん立派な人であって、
しかもちょっと滑稽な処がある人なんです。
プラトンとアリストテレスはあんまりユーモアセンスが無いんですが、
ソクラテスは非常にユーモアセンスのある人で、
しかもやたらと勇気のある人で、
身体能力、体力も凄く強くて、身体体力が強壮で、
ソクラテスは戦争に行くと物凄く強くて、正に荒武者といった感じで、皆を驚かす戦闘振りを示すんです。
それながら茶目っ気があって、皮肉を言ったりして皆を笑わせたりするんです。
彼ソクラテスは変わっていて変人で、
ものを書きたがらないんです。
議論するのも物凄く強いし、
喋ることにも非常に表現力豊かなんです。
けれども結局ソクラテスは一冊も本を書かなかったんです。
先生ソクラテスの言っていたことを思い出しながら書いた所謂「プラトンの対話集」ですね、これを書いたのがプラトンなんです。
弟子にあたるプラトンはこのソクラテス先生との対話集を確か25冊から28冊程度書いているんです。
後半にプラトンの対話集にソクラテスが出てくるんですが、その考えの約7~8割はプラトンの哲学観であって、
前半、初期のものは逆に約7~8割はソクラテスの考えをそのまま述べているんです。
僕がソクラテスやプラトンを好きな理由は、
前に述べた「2つのM」
“meaning of life”
“mission of life”
「生きることの意味」「人生の意義」
それと
「生きるうえの使命」「人生での任務」
何をやらなければいけないのか、ということをこの二人は非常に素直に、正直に喋ってくれるんです。
しかもレベルが高いんです。
レベルが高いんだけれども、
普通の言葉遣いで喋ってくれているので、
とっても分かり易いんです。
逆に19~20世紀の哲学者っていうのは、
一見知性の溢れるこの世界の分析、それと文明の分析というのをやっているように見えても、
そういう人達の本を読んでも、
「生きることの意味」「生きるうえの使命、任務」「やらなければいけないこと」とか、
そういうのは出てこないんです。
1番酷いのは最近50~60年流行ってきた「ポストモダン」。
ポストモダンの大体の本を読んでみると、
非常にシニカルで、
無気力になっていて、
現代世界、現在社会をせせら笑う、
そういうことをやるだけなんです。
単純に言ってしまうと、
ソクラテスとプラトンは非常に道徳的なんです。
それと非常に男らしいんです。
非常に勇気があって非常に責任感があって、
男らしいんです。
逆にポストモダンの連中っていうのは、
距離を取ってせせら笑う、冷笑するような態度があるんです。
しかも彼等連中の本を読んでも、“mission of life”とかの感覚は出てこないんです。
傍観者、bystander
若しくはonlooker(見物人、見物客)という感じで、
現代文明、現代社会の無意味さを嘆いてみせるくらいのポーズ、振りしかできない。
哲学にも「哲学の健全性」というのがありまして、
健全性を備えた哲学というのがやはりあるんです。
健全性の欠落した哲学というのは、サルトルなんかが典型で、そういう健全性が全然無いんです。
せせら笑っていて、彼は秀才ですから秀才風の説明をしてみせているんですが、
「人生の意味」とか「生き甲斐」とか、
「生きていくうえの任務」「人生のミッション」とか、
生きていくうえのミッションの感覚とかは、
出てこないわけです。
プラトンに話は戻ります。
二人とも、
目の前の現実は勿論目の前の現実だけれども、
目の前の現実だけが現実ではない。
人間にはより根源的な現実がある。
というように分けているんです。
(続)