平成から令和へ! 真の「和」を実現することこそが、令和の時代の要請です。 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

 本日は、バケツリレー様の臨時寄稿コラムです! 令和の時代がもうすぐ始まるに当たり、含蓄に富んだ記事を頂いております。
 私(ヤン)も記事を読んで、自身に思うところもございます。ぜひ、みなさまもお読みくださいませ!

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せっかくの記事に、菅官房長官の写真もどうかと思ったので、こちらにしてみました。


平成から令和へ! 真の「和」を実現することこそが、令和の時代の要請です。 | バケツリレー様

いよいよこの5月から「令和」の時代が始まります。

 

この元号は我が国のすばらしい古典、万葉集の文章からとられたもので、そこでは「令=良い」「和=なごやか」という意味で使われている、というのは皆様御存知のとおり。元の文章が梅を題材に歌を詠む宴会のはじめの挨拶文ですので、そう聞くとなおさら穏やかで優雅な感じですが……

 

 

私が最初にこの元号を目にした時の印象は、時代の要請に応える力強いメッセージだ、というものです。すなわち、「『和』せよ!という号令です。どのような協議過程を経たか、誰によって発表されたかはともかく、後には天皇の諡号となる元号ですから、そこには天皇の御稜威が感じられてしまいます。この上もなく尊いメッセージだと私は受け取りました。

 

聖徳太子像( Wikipedia より)

 

「『和』せよ!」ということですが、『和』とは何か。それはもちろん、「和を以て貴しとなす」と言われるごとく、日本人にとって極めて大切なもの。ただし、単なる「平和」というものでは決してない。それは十七条の憲法第一条をきちんと読めば明らかです。

 

一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

 

(拙訳)
和が大切であり、私心・我欲にとらわれないよう心掛けなさい。とはいえ、人には家族、友人、党派といった人間関係があり、私心にとらわれずにすむ者はほとんどいない。従うべき者に反逆したり、近隣同士で争ったりする。だがそのような人々が、上はやわらかな気持ちで、下も温かな心で親しみ合って様々な問題について論じ合うならば、当然に、現実を正しく理論立てて認識できる。解決できない問題はない。

 

 

「和」とは詭弁や論点ずらしの混じらない、「まともな議論、熟議」を導くもの。

「事理おのずから通ず」……、哲学において「真理とは、我々の観念と実態の一致であるッッ」ですから、「和」による熟議があれば、おのずと「真理」を得られるということです。プラグマティズム哲学によれば、「真理」とは「役に立つ」「実益をもたらす」もので、これを得られれば問題解決に資すことになります。

 

 

よって「和」は諸問題を解決できる大いなる力を持ったものですが、そこに至るのが難しい。湧き上がる私心・我欲、党派、好き嫌いに背を向けて、いがみ合わずに話し合わねばならないのですから。聖徳太子もその点を第十条で述べられています。

 

 

十に曰く、忿(ふん)を絶ち、瞋(しん)を棄て、人の違ふを怒らざれ。人皆心あり、心各執あり、彼是とするときは則ち、我は非とす、我是とするときは則ち彼は非とす。我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫のみ(後略)

 

(拙訳)
憤激を絶ち、敵愾心を捨て、自分の意見が聞き入れられないからと怒ってはならない。人には誰でも心があり、それぞれ執着がある。彼が良いと考えるものを、私は悪いと考え、私が良いと思うものを彼は悪いと思う。自分が絶対に正しいとは限らないし、相手が愚かだとも限らない。私たちは共に凡人に過ぎないのだ。

 

 

左も右も、サムウェアズもエニウェアズも、ナショナリストもグローバリストも、自分や家族の生活が大事なことに変わりはありません。売国を進める政治家も自分の議席を守り、家族を養うために大企業の言いなりになる。財務省の役人も、自分の出世と家族の生活のために国民を貧困化させる緊縮財政を推し進める。私心・我欲にとらわれて、「現実を正しく理論立てて認識」しようとしないため、デフレの問題も解決しない。

 

これと通じる状況が第十五条に述べられています。今も昔も変わりなし、の感がありますね。

 

 

十五に曰く、私に背き公に向かうは、これ臣の道なり。およそ人に私有れば必ず恨み有り。憾み有れば必ず同(ととのい)あらず。同(ととのい)あらずば則ち私を以て公を妨ぐ。(後略)

 

元々は臣=官人に向けた条文ですが、現代風に「政治家や官僚=公職にある者」への言葉として訳します。

 

(拙訳)
私益に背を向け、公益を追究するのが、公職にある者の道である。人間、私欲があれば必ず不満や怨恨がある。そういったものがあれば、心を合わせることができない。心を合わせられなければ、私益が公益の実現を妨げることになる。

 

 

この状況を打破するのに効果的なのが、令和の政策転換(ピボット)であり、薔薇マークキャンペーンであり、進撃の庶民の皆様の活動だと思います。

 

すなわち、世論に訴え、「積極財政・国民経済重視へ政策転換するのが時代の流れ」という空気を作ること。これができれば、政治家も財務省も自らや家族へのリスク少なく(私欲を毀損される恨みも生じず)、「現実を正しく認識できる理論」に基づき、問題解決に向かえるでしょう。

 

迂遠なようですが、これ以外に『和』せよ!に応える方途はないと思いますし、その広がりに期待するところです。私自身、少しでも力添えしたい。

 

 

一方で、私心・我欲のみにとらわれて、『和』への努力を妨げようとする人たちも大勢いることでしょう。それが外国勢力ならば、↓の小説の聖徳太子のように対処してもいいかもしれませんが(いや、よくない?)、現実には同じ日本国民が相手ですから、地道に議論していくしかなく、なかなかストレスがたまりますね……

 

『爆撃聖徳太子』 町井登志夫 PHP文芸文庫

 

※ 十七条の憲法については、↓の本を参考に現代語訳しました。

 

『日本のいのちに至る道』小柳陽太郎 展転社

(了)


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