文化と人間の関係性-大衆人から抜け出すための、文化の再発見【ヤンの字雷】 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、ヤン様の寄稿コラムです!

 

「文化と人間の関係性」について、わかりやすく論じられた秀逸コラムです!

 

欧州での移民政策の大失敗を見てもわかるように、「文化の多様性」「多文化共生」なる言葉を使う移民推進派達は、「文化」なるものを実は軽視しているってことなんでしょう。

 

皆様もヤン様コラムを読みながら、「文化」について思考を巡らせてくださいませ。

 

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文化と人間の関係性-大衆人から抜け出すための、文化の再発見【ヤンの字雷】

文化とはなにから生まれるか

 本日は文化について論じていこうと思います。文化という言葉の定義は様々にされるのですが、その語源はラテン語で「耕す(colere)」にあるようです。その土地や組織に根付いたものを、文化と定義することができそうです。
 wikiによりますと、下記のような定義です。

文化(ぶんか、ラテン語: cultura)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。

 文化を身につけるとは、「体得する」と言い換えても良いと思われます。
 また英語やフランス語では、文化と教養は区別されておらず、文化=教養と考えても良いかも知れません。

 

 文化はなにから生まれるのか? 非常に端的に結論を申し上げれば、社交から文化は生まれると解釈可能です。人と人が交わるとき、そこに何かしらの文化が生まれるのです。
 人と人の関係性は、その土地の環境などによっても変わってきますので、地域や土地によって文化が様々なことは、文化とはローカルなものであるという解釈になりましょう。

文化論が現代に必要な理由

 私は大阪生まれの大阪育ちですが、だからこそ現代には文化論が非常に必要であるし、文化が必要であると強く確信しています。
 なぜか? という理由を説明するために、現在の我が大阪の現状を申し述べます。

 

 ご存知の通り大阪は、大阪都構想なる大阪市解体構想にまたも、飲み込まれかけております。大阪都構想の発想そのものは、二重行政の解消という”効率化”から来ています。
 効率化するために、大阪市を解体しても良いと考える、非常にグローバリズムチックな、新自由主義的な考え方が根本にあると解釈できます。

 

 大阪は織豊時代(安土桃山時代)から、天下の台所といわれ文化の中心を担ってきた場所です。1970年代辺りまでは、大阪は大阪の文化というものが存在していたと、井上章一さんの著作「大阪的『おもろいおばはん』はこうしてつくられた」に記されております。
 おかしくなり始めたのは1980年代頃だそうでして、いわゆる「大阪人はお笑いが得意」というのも、この頃から作られた風潮だったそうです。

 

 

 

 端的に申し上げるのならば、大阪のテレビ局が金儲けで、面白いコメントをする大阪庶民を取り上げたのがきっかけなのだそうです。
 ここから「大阪人=おもろい」のイメージが全国に広まり、大阪人もそれを受け入れていったのでしょう。

 

 この「おもろければ、それでええ」という精神性は、それまで大阪が守ってきた文化に対して侮りを生み、大切にすることを忘れさせ、ついには100年の歴史を誇る大阪市の解体にまで手を伸ばしたのです。
 正直に申し上げますと、私は堺市が羨ましい。大阪都構想騒ぎのときにピシャリと一抜けし、堺と言えば包丁とまでいわれる伝統が残り、世界中のシェフが堺の包丁を買いに来るそうです。

 

 逆に大阪(市)のお土産って、皆様なにか思いつきますでしょうか? 「おもろければええ」の精神で新しいものばかりに目移りし、すっかり根無し草になってしまったのが、我が大阪の姿なのではないでしょうか。
 これは大阪だけの話でもないように思います。だからこそ、今こそ文化論と文化の再発見が必要なのだと確信します。

文化と文明の違いと、文化の再発見

 文化と文明を異なるものと論じたのは、一般的にはイギリスの詩人のマシュー・アーノルドだと言われますが、その100年ほど前にサミュエル・テイラー・コールリッジがすでに論じておりましたことは、中野剛志さんの著作「保守とはなんだろうか」にて著されているところです。

 

 

 

 文明とは合理化の総体であり、文化とは精神性の総体であると解釈可能です。コールリッジは「文化の行き過ぎはないが、文明の行き過ぎは衰退を招く」と喝破しており、まさに今の大阪はこの状態なのだと感じます。

 

 他の例を上げれば、例えば自称保守、ビジネス保守などが文化論を論じることはまずありません。私は寡聞にして知らない、と申し上げます。
 福田恆存は保守派論客として知られる人物ですが、彼の著作には「保守は態度である」と書かれたそうです。これは読み替えれば「保守とは精神性である」と同義であり、精神性とはすなわち文化です。
 とすれば、文化論を語れぬ保守というのは、つじつまが合わないことになります。
 なるほど、自称保守たちがグローバル化やグローバリズムに対して、何も言えないはずです。彼らもまた、合理性の侵された根無し草ということなのでしょう。

 

 根無し草というのは、オルテガの言葉を借りるとMass Man(大衆人)ということです。逆にいえば文化を学び、根っこを再発見することで大衆人から抜け出せる、ということでもあります。
 だからこそ現在、文化の再発見が求められるのです。

再発見した大阪文化

 私は最近、大阪の文化を少々勉強しております。そして1つ疑問に思うことがあります。
 江戸料理、京料理、金沢料理など様々な料理がある中で、なぜ大阪料理がないのだろうか? と思いました。
 天下の台所とまで言われ、1900年代に入っても日本料理の中心地であった大阪に、大阪料理がないのはおかしいではないか? と思うのです。

 

 ところが調べるうちにありました、大阪料理。いわゆる割烹とは大阪から始まったスタイルなんだそうです。
 地元の文化を調べたり、自国の文化を調べたり再発見することは、大変楽しいことかと思います。

 

 しかし政治を知るものとしては、このまま日本がグローバル化路線に走り続けたら、この興味深く楽しい文化も将来はなくなってしまうのではないか? と危惧しております。
 文化とは教養であり、ローカルなものであり、精神性なのですから、それがなくなるとはすなわち、日本人が大衆人に身をやつすということです。
 そのような未来が来ぬように、微力ながらいろいろと活動したいところです。

(了)


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