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福祉に関わる人たちへ

人生はどれだけ多くの気づきを経験したかで、如何様にもなるものです。誰かが言っていますよね。「人は思うようにならないと言うが、そう思っているという意味では、思い通りになっている」と。

こんばんは、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。






真実の愛ってなんだろう?



考えたことがあるだろうか?







想像してほしい・・・






大切な人に、とっておきのサプライズで誕生日プレゼントを渡した。





反応を想像するだけでこっちが、嬉しくなってしまうくらい・・・











ところが、あなたの大切な人は、あまり嬉しくなさそう・・・






そしてこう言った。






「お金使わせたね」       と。













悲しいですか?
イラつきますか?















でも人間て、こんなもん。












相手に喜んでもらうことをした自分が好きなのだ。










だから人によっては、相手が想像と異なる反応をした時、感情的になる。






支援者だって、例外ではない。






「○○で困ってるんです。こういう場合、どうしたらいいか教えてください」
「勉強になります。私たちは障害について素人なので、助かります」

「○○さんがいたから、ここまできました」
「○○さんのおかげです」




こういう言葉は、よく言われる。




が、何故か、真に受ける支援者も多い。










多くの支援者は、頼られることを喜びにしている。






そう、自分が気持ちいいから。








本当に、黒子役を演じきれる支援者がこの日本に何人いるだろうか?






そこに愛はありますか?










誰の為の支援ですか?












おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。




この世にはふたつの世界がある。




「自分の知る世界」と「自分の知らない世界」だ。





そして、障害者と健常者というのもそのひとつであるし、
外国人と日本人もそのひとつである。





このブログでも以前に、


人は、自分の内面を通してしか、他者の内面を見ることは出来ない


と書いた。





自分の尺度でしか、世界を計れないのである。




想像してほしい。




外国人が前から歩いてきた。



いかにも、何かを探しているが見つからないようである。



次の瞬間、目が合った。





あなたは、どういった行動するだろうか?
何を予想するだろうか?















多くの人は、目を逸らすかもしれない。
そして、外国語で話しかけられるかもしれない。

「どうしよう・・・」と思うのではないだろうか?








しかし、その外国人は、流暢な日本語で

「大崎の駅は、どこかわかりますか?」と聞いてきた。



先入観というものは、本当に厄介だ。




障害者だって、同じ。





よく支援者は、「彼は、自閉傾向があるので、指示系統を統一してください」
などという人がいたり、「視覚的な情報は入り易いですよ」と自信ありげにいう人を
よく見る。




僕に言わせれば、

先入観を与えているだけに過ぎない、無駄な助言だ。






障害者だろうが、自閉症の人であろうが、そうでない人だろうが、
どちらかといえば、指示者が5人いるより、1人だけの方が混乱しない。

文字で、長々と書かれるより、写真を見た方がイメージはしやすい。



誰だってそうだ。



そこに、自閉症だからとかいうのは個人的に好きではない(もちろん、顕著である特性もあるだろうが)。




ある本にも書いてあったが、

障害者や福祉の専門書は、専門家しか読まない。
専門職以外の人たちが、障害者や福祉を知る機会がないと。




僕は、福祉の専門家はもういらないと思う。



資格を取ることに必死になっても、障害者の立場にはなれないだろう。

支援ノウハウを学ぶと言っても、そんなノウハウはあるようで存在しない。






障害者を障害者としてみる福祉。

障害者をひとりの人間としてみる一般企業。





僕は、後者の可能性を信じたい。





















こんばんは、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。




障害者と健常者。



何が違うの?





スピリチュアル(胡散臭いと思って構わない)の視点では、人間は「箱」にすぎないという。




人間の身体はあるようで、ないのだ。




あまり、これについて語ると怪しいブログだと思われてしまうのでこれぐらいにするが、
要するに、魂以外は、すべてこの世にいる時だけの借り物なわけということだ。




信じる信じないは、どちらでもいいが、
今だけでもイメージしてほしい。




この世に生まれる前に、自分の魂が今の身体を選んで来たのだと。




そして、あなたが生まれた環境やこの世で起こるすべて、この世に生まれる前に自分で設定したものだと。






まるで、レベル○○のゲームを始めるかのように・・・












「何に気づくか?」


このブログでは、そんなことを書いている。




少なくとも僕はそのつもりだ・・・






もうひとつ、

「答えはない」



とも言っている。






言葉は、真実を伝えきれないものだが、これを読むあなたなら間違いなく感じるだろう・・・





人生は、ゲームだと僕は・・・

僕は思う。





変えられない過去や未来があるのなら、

変えられない、社会や冷たい人たちばかりがいるのなら、




それでも、変わりたい自分がいるのなら・・・





あなたは、何をするのだろう?






自由。


他者を責めて、声をからすのも自由、

国や制度を責めて、怒り散らすのも自由、

自分を責めて、自分を傷つけるのも自由、

すべてを諦めて、今の惨めな自分を受け入れるのも自由、

与えられるのを待たず、自分が何かに挑戦しようとするのも自由、

自分を信じ、考え方を変えようとするのも自由、






そう、今何をするかは、誰もが自由なのだ。








障害者と健常者。




障害者は、何にも気づいていないなどと思う人はいるだろうか?






障害者の魂と健常者の魂。




何か違うだろうか?







錯覚しないで真実を見つめたいものだ。





この世から離れてみれば、

みんなゲームを楽しんでいるだけなのかもしれないのだから・・・