『本音で語ることの勇気』 | 新堂冬樹オフィシャルブログ「―白と黒―」Powered by Ameba

『本音で語ることの勇気』

たまには、作家らしいブログを書いてみようと思う。





人間は、人間関係において「心」で思ったことをどれだけ正直に





「言葉」に出しているだろうか?





恐らく、50パーセントも出してないのではないか?





以前にもブログに書いたが、俺はかなり高い確率で「心」で感じたことを






「言葉」に出す。





頭にきた、きれい、音楽うるさい、テレビ消して、





かわいい、そういうの好き、そういうの嫌い、





最高だね、大好き、ほんと嫌い、それ食べたい、





それ食べたくない、面白い、偉いだろ?





などなど・・・相手との新密度にもよるが、





初対面の人であってもこれから長く付き合って






行こうと思う相手には嫌な物事ははっきりと告げる





親しければ親しいほど、「心」で感じたことをはっきり告げる、また、訊ねる。





でなければ、「絆」は生まれないからだ。





正直、それで相手の気分が害するときもあるが、





少なくとも「オブラート」に包んだ遠回しな言い回しは好きじゃない。





自分の思いを告げて、相手も本音で返してくる。





そこで反省することがあれば素直に反省する。





せっかく人間だけ「会話」という能力を与えられているのだから、






それを使わない手はない。






不満を相手に態度でわかってもらおうとするのは、「言葉」を持たない





猿や犬で十分だ。





だから、相手にも「心」で思っていることをはっきりと告げて貰いたい。






なぜか?





「人間関係をうまく行かせるため」ということで







オブラートに包んだ言い回しや嫌なことも嫌と言えない






相手の言うことは信用できないからだ




たとえば・・・




A「焼肉食べに行こうか? いま肉の気分?」

B「うん、肉が食べたい」





A「俺、あの曲いいと思わないんだけどどう思う?」

B「私もあんまり好きじゃありません」




このふたつのやり取りでも、いつも本音で語り合えている相手ならすんなり





信用できるが、「建前」で物を話す人間の場合、





「合わせてない?」と疑心が出てしまう。






BはAの「やりたいこと」「好みの曲」を否定すれば





Aから嫌われるという不安を抱き話を合わせたのかもしれないが、





また、日本という「建前社会」はそれでなくては






ギクシャクしてしまう世の中なのかもしれないが、






それでも、「自分の心で感じたこと」ははっきりと告げてほしいものだ。





たしかに、大事な取引先や上司が相手だとそう簡単にいかないのもわかる。






だが、「俺は表面だけの言葉は嫌いだから本音で語ってくれよ」という相手には





本音をぶつけてほしい。





ただし、「本音を言ってくれ」と言っていながら




「本音」を言えば露骨に評価を下げてくるタイプもいるので、





互いに「信用し合える仲」においての話だが・・・。




キレイ事なしで言わせて貰えば、





相手が正直な気持ちを言ってきた場合、





ときとしてそれが自分が一番嫌なことだったりしたなら、





ぶっちゃけ、「なーんだ、そんな奴だったのか」と思うこともある。





ただ、俺の場合、それを相手にはっきり告げる。





「正直、俺はお前のその考えにはガッカリした。もっとこういうふうにできないか?」





みたいに話し合いを持つ。




それでお互いにいい方向に進む場合もあるが、どうしても価値観が合わずに





「そこでさよなら」の相手もいる。





まあ、それはそれで「価値観の合わない」人間だとそこで我慢してもいつかは





「綻び」が出るので早いうちにそれがわかるだけよしというのが俺のスタンスだ。





つまり、「信用できなくなるのが嫌」だから、






深く長く付き合おうと思っている相手には「本音」で物を言ってほしいのだ。





俺の持論は、「偽物」の放つ光りは必ずメッキが剥げて光りを失う。





仕事関係、プライベートな関係・・・





いつだって「本音トーク」をぶつけてくる「本物」と付き合っていきたい。





たとえそれが、ただの「鉄」であっても、





「本物」ならば金メッキより素晴らしいと思う。





ま、長くなったが言いたかったのは、




「表面だけの付き合い」は長続きしないということだ。




またな!