どうもこんにちは、新潟大学パラダイス経済科学部総合経済学科一般選抜前期追加合格者にして、新潟大学陸上競技部長距離ブロック専門5000m最遅自己ベスト保持者の1年武藤孝太郎です。
↑普段はこちらで活動しておりますので暇な方は是非見ていただけると嬉しいです。
さて、本題に入る前に2点ほど身内の方向けに伝えておかなければならないことがございます。
・1点目
俺は目が悪いということです。
いや、だから何だよって話かもしれませんが、これによりちょっとした誤解を生んでしまうことになるかもしれないので一応話しておきます。
どういうことかと言いますと、半径5メートル以内でなければ目の前の人間が誰だか判別できないことがありますので、なんかすれ違ったときに無視されたとか、リアクション薄くねってなることがあるかもしれないということです。(あとは先輩に対してタメ語、またその逆も、とか)なので、別に嫌いだから無視したとかそういうわけじゃないんでそこらへんはご理解いただけると助かります。
・2点目
俺の最近の言動についての謝罪
何をしでかしているのかというと、
・遅刻
・朝練の集合にいない
・欠席時の連絡が言葉足らず
・スプレッド、ドキュメントの書き忘れ
・北日で勝手にどっか行ってた
大変申し訳ございませんでした。
やはりここまでくると俺が周りと比べて未熟すぎるということは否めません。今後すぐに買われるかと言われれば正直自信はないですが、最善を尽くしていきます。
はい、というわけで本題に入ります。
今回は俺が錦城高校陸上競技部として歩んできた軌跡を一挙に紹介します。
目次
第1章 邂逅
第2章 唯一走るのをやめたいと思った時期
第3章 最弱の座に君臨した男
第4章 実は競歩選手だったという事実
第5章 贅沢マカダミアとの絆
第6章 武藤孝太郎黒歴史 ~伝説の4×400mR~
第7章 キツかった冬季練
第8章 補助員のスペシャリスト
第9章 いい加減引退しろよ
終章 錦城高校jog
正直メインは第3章以降かなって思ってます。
第1章邂逅
まず、俺が陸上を始めるところから話します。
俺は中学時代はサッカー部に所属していましたが(←噓だろ!?)、この頃からちょっとした予兆がありました。何をしていたのかというと、部活が始まるまで時間がある限り学校のグラウンドを走っていました。
そして俺は気が付きました、
「走るのっておもれぇなあ」
その勢いのまま俺は錦城高校陸上競技部に入部しました。
しかし、このときの俺は(まあわりと今もですが)、陸上の知識がほぼゼロだったので、ただがむしゃらに校舎の周りを走りまくってるだけでした。
そして迎えた初戦は1500mでした。
ちょうどこのブログが公開された日の3年前ですかね。
そんでもってこの日は気温が35℃くらいありました。
俺はスタートラインに立ちました。
しばらくしたらレースが終わりました。
記録は、
4分57秒wwwwwwwww
今考えればありえないタイムですが、当時はとりあえずなんか5分切れて謎にほっとしている俺がいたことは内緒です。
その後は長い距離のほうがまだマシじゃねってなって5000mの選手になったため1500mはしばらく走りませんでしたね。
第2章唯一走るのをやめたいと思った時期
高1の冬頃、某ウイルスが猛威を奮っており、部活動が全面的に休止になったことがあったんですね。
まあ別に陰属性の代名詞である俺からすると某ウイルスに対する恨みとかはないんですが、ただちょっとこの時期はさすがに精神的にくるものがありました。
どういうことかと言いますと、確か2か月ちょっと部活がない期間があったのですが、部活がないってことは自主練をしなければならなかったというわけでした。
「ひえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええ」
2か月もの間孤独に走り続けるということの苦しさは想像を絶するものでした。
何が一番つらかったかっていうと、この季節って日も短いから学校から帰ってきてクソ疲れた状態ですぐに走りにいかなければいけなかったことですね。
それまではホンマに走るのが楽しくて陸上ぉ最高!ってかんじだったのですが、ここにきて本気で辞めたくなりました。(まあこの時はメンタル面でもクソ雑魚だったので...)
そしておまけに、俺は家の近くを走ってると中学の同級生に見つかる可能性があり、それがものすごく嫌だったという意味わからん性格をしていたため、わざわざ家の前を流れている川の対岸まで自転車で行ってそこから走るということをしていましたね。
まあこの時期のことを振り返って、なんというか集団で...部活として、活動するって本当に大切なんだなあって思いましたね。
(ちなみにメンタルがゴミすぎて毎日走れなかったことは内緒です。)
さてさて、そろそろつまらなさ過ぎてこのブログを閉じようとしている方もいらっしゃることかもしれませんが、こっから雰囲気変えてやっていくんでどうか閉じないでいただきたいです。
第3章最弱の座に君臨した男
2年生シーズンがスタートしました。
高校2年といえば部活の中核を担う存在になっていく時期かと思いますが、しかし...
俺の代は謎に人数が少なかったのでした。
とはいえ、少ないながらも十分に活気を見せていました。
そんな少数精鋭を謳うチームでしたが、その中で明らかに落ちこぼれがいました。
それがそう、武藤孝太郎という男...つまりこの俺のことです。
当時の俺は、他の同期が自己ベストを更新してゆく中、謎に低迷を繰り返していました。
特に夏の時期はホントにひどかったです。
この時点での俺の5000mの自己ベストは17分18秒(←まあこれもなかなかに問題ですが)でしたが、とあるレースで18分6秒とかいうマジで意味の分からない記録が生まれてしまいました。このときのレース展開はいたってシンプルで、序盤から結構きつくて案の定垂れたってかんじでした。ただ、この大会に関しては、実は競技外のことでいろいろと問題行動を繰り返していたのでそういった意味でも集中しきれていなかったのかなとは思います。
そしてその一週間後にもレースがあったのですが、この失敗がトラウマみたいになってペースがうまくつかめず、結果17分45秒とかいうしんどいタイムになってしまいました。
まあ普通に練習内容で見ても俺が最弱であったことは明白でした。
人数が多いチームとかだといろんなレベルの人がいるって印象ですけど、逆に少ないとちょっとしたことですぐおいていかれそうになるので、わりとガチで焦りましたね。
ちなみに、錦城高校陸上競技部には朝練はありませんでしたが、俺が自主的にやろうとしたことがありまして、結果見事に3日で終わりましたね。
第4章実は競歩選手だったという事実
はい、まあこれはタイトルにある通りなんですが、そもそも錦城高校陸上競技部からは俺の知る限りどの代からも競歩選手を輩出していました。
俺は1年の頃に東京都新人の5000mWを見ていたり、あとは単純に小学生の頃とかに早歩きを極めていたりしたこともあって、競歩という競技に興味があったということで、新たな挑戦に足を踏み入れました。
ただ、実際に始めてみると、想像の何倍も難しかったですね。
まずフォーム?が難しかったし、練習後にはスネがめちゃくちゃ痛くなったりもしました。
(まあ俺が下手なだけだと思いますが)
ですが、短期間で少しは実力を伸ばせていけたのかなとは思います。
大会にも出てました。
まず3000mWの種目がある記録会に出たのですがまあこれは最初だしまずまずかなってかんじでした。(なお、遅刻はした模様)
そして迎えた東京都新人、
ついに5000mWのレースが幕を上げました。
スタートしてすぐに先頭集団があっという間に俺を置き去りにします。
まあ別に走りでもそうですが俺はスピード型の選手ではないため、特に焦りはしませんでした。
ただ、単独になると審判の目に留まりやすくなるので、そこがちょっと痛かったですね。
そんでまだまだ序盤であるのにも関わらず、
「ぬおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおお」
猛烈にスネが痛くなりました。
しかし歩みを止めることは許されないのでした。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおお」
俺はなんとか粘り続けました。
するとなんということでしょう、
他の選手たちが垂れ始めました。
俺はその勢いのまま徐々に順位を上げ、瞬間的に3位にまで躍り出ました。
「いぐぞごらあぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ」
そしてついに残り1000mのところまで来ました。
すると何やら審判らしき人が俺のところに寄ってきました。
この時のことはちょっと頭がぼーっとしていてよく覚えていないのですが、要するにアレです、失格です、失格が告げられました。
俺は帰宅しました。
さすがに心が折れたのか、あとは第3章でも述べたように走りのほうでも落ちこぼれになっていた時期なので、これ以来競歩という競技からは離れることとなりました。
第5章贅沢マカダミアとの絆
我らが錦城高校が誇るが、食堂にある某アイスクリームの自動販売機でした。
俺を含めた部活生は練習後にこのアイスを食べることを数少ない楽しみとしていました。
そしてこの自販機の中に明らかにその存在感を醸し出していたアイスが存在しました。
それがそう、かの贅沢マカダミアです。
バニラベースの中にジャガイモみたいな見た目のナッツ?が紛れ込んでいるこのアイスは果たしてどんな味がするのだろうかと、生徒たちの目を引き付けていました。
しかし、この「ジャガイモ」は他よりも謎に値段が高かったため、味見感覚で手を出せる代物ではありませんでした。
そしてとうとうこの「ジャガイモ」を食べようとする生徒が現れました。
それがそう、武藤孝太郎という男...つまりこの俺のことです。
まあ普通に食べた感想としてはちょっとおいしいアイスってかんじですかね。
ナッツみたいなのが好きな人とかにはお勧めできますかね。(風味とか)
これ以降俺はこの自販機の前に立つと必ず、
「俺のおすすめのアイスがあんだけどさぁ~」
って言うのが口癖になりました。
つまり俺のイチオシだということです。
この前そこらへんの某アイスクリームの自販機を見てみたらあったんでよかったらみなさん、食べてみてはいかがでしょうか。
(けどまあどうせ買うなら普通のバニラでいいよな...)
第6章武藤孝太郎黒歴史 ~伝説の4×400mR~
↓早速ですがこちらの映像をご覧ください。(閲覧注意)
はい、まあツッコミどころしかないのですが、とりあえずここに至るまでの経緯をたどっていきます。
まず俺はこの前日に400mのレースに出場していました。
5000m専門の選手が400mに出場するということ自体が謎すぎますが、これには訳があります。
そもそもこの記録会は3日間に分かれており、最初の2日は10月の半ばごろであともう1日は11月の終わりごろといった、かなり期間があいていました。そんでトラック種目の内訳はというと最初の2日に800mまでの距離のレースが行われ、もう1日が1500m以上になっていました。
錦城陸上部の方針としては1人2種目ということだったので、中長距離の選手は基本的には
800m+1500m or 3000m、5000m
といった形が一般的だったと思います。
しかし、(もう時効かと思うので話しますが)俺は800mにどおぉぉぉぉぉぉしても苦手意識があり、そこで何を思ったのか400mにエントリーすることに決めました。
そして迎えた400mのレース当日、
錦城陸上部内では、俺がスタブロに慣れていないことから、スタートと同時にマリオみたいに真上に飛び跳ねるのではないかという噂が飛び交う中、いざレースがスタートしました。
まず手始めに、俺の得意技スロースタートが400mでも炸裂します。
俺は1レーンだったこともあり、序盤の他選手との差はえげつないものでした。
しかし、200m∼300mで差を縮め、ラスト100mで数人抜かしてゴールしました。
そんなわけで1日目は何とかなりましたが、翌日にはマイルが控えておりました。
この記録会は1校から何チームでもエントリーできたため我らが中長距離の選手も参戦することとなりました。
この400mでスタブロを経験していることもあり、俺は1走目を走ることになりました。
そして迎えた当日、
午前中は雨がひどくものすごく寒かったこともあり、テントの中で中間テストの勉強をしていた錦城選手団を苦しめます。
しかし、午後になると雨は止み、ちょうどいいかんじのコンデションの中レースが行われることになりました。
ところが俺たちはあることに気が付きました。
「おや、俺らとあと1チームしかいなくね?」
そう、つまりタイマン勝負になりました。
そして錦城陸上部内では、俺がリレーに慣れていないことから、スタート時にバトンを置いてくんじゃないかという噂が飛び交う中、いざレースがスタートしました。
安定のスロースタートでアウトレーンなのに200mの時点で追いつかれます。
しかし長距離選手の意地を見せアウトレーンであるにもかかわらず200m∼300mの間は離されず、ラストの100mで前に出ました。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおお」
がむしゃらに腕を振りまくります、俺。
とはいえ、俺の足は限界を迎えていました。
バトンを渡すゾーンが400mのゴール地点よりも若干奥であり、それだけでも俺を大いに苦しめます。
何とか射程圏内まで詰め寄った俺はバトンを握りしめたその手を前に出します。
しかし俺の腕は空を切ります。
「ナヌッ」
(クソッ、もう足が動かねぇ...)
俺は倒れこむ勢いで最後の希望をかけ、バトンを前に突き出します。
しかしまたもや空を切り、そしてそのまま俺は場外にドロップアウトするのでした。
結果的に、バトンの受け渡しが成立していないので失格となりました。
けれどもどの道あそこから立ち上がることはできませんでした。
帰宅しました。
第7章キツかった冬季練
高2の11月になんとか16分台に乗せた俺は、錦城陸上部内で最弱から脱却したかと言われればちょっとアレですけど、場違いなレベルの最弱ではなくなりました。
しかし、冬季練に突入し、ちょっとした地獄を見ることとなりました。
冬季練のメニューに関しては、なぜかブロ長でもない俺が決めていました。
そのメニューもなかなかに意味不明だったのですが、なんというか、まあ振り返って一番楽だったポイント練習ってどれだろうかってなったときに、おそらくクリスマスに行った20000mPR(ぺーらん)でしょうかね。
(これをクリスマスに意図的に入れたあたり闇を感じるぜ...)
まあそれくらい他がしんどかったということです。
けれど今思い返せば、この20000mPRや、あとは1000×10、2000×4などやっていたのでこれってまるで新潟大学ですね...
さらにこのとき俺はスパイクと厚底シューズは使用禁止とかいう謎の縛りをやっていたので、道具から入ってくスタイルの俺からしたらこれがまあ応えましたね。
まあこれくらいならまだ耐えってかんじなんですよ。
本当にヤバかったのが年内最後に行ったとある強豪校との合同練習でした。
この日は1日練習が行われ、午前は6000+3000+1000っていうのをやってこれはまだよかったんですよ。
問題は午後でした。
なんと短長合同で200×20のリレー...
俺は絶望しました。
始まる前から絶望していたのに、いざ始まるとそのキツさは想像以上でした。
短距離は言うまでもなく、他の中長距離の選手と比べても俺は極度にスピードに乏しい選手であったため、1本1本を死ぬ気で走んないと(というか死ぬ気で走っても)すぐにボッコボコにされてしまう可能性をはらんでいました。
おまけに待ち時間があまりにも絶妙で、なおかつめちゃめちゃ寒かったので体の動きもおかしくなるしで、本当につらかったですね。
これは俺の今までやったすべての練習の中でもう二度とやりたくないランキングぶっちぎりの1位ですね...
あと、年明けに初詣jogっていうのをしたんですが、これは錦城高校から神社まで走ってお参りするっていうかんじで普通に楽しかったですね。(おみくじの一種で恋みくじっていうのを引いて大吉が出たよおぉぉぉぉぉぉ😀)
第8章補助員のスペシャリスト
かつて錦城高校陸上競技部に誰よりもウィンブレに穴をあけ、その名を名誉とともに刻んだ者がおりました。
それがそう、武藤孝太郎という男...つまりこの俺のことです。
まあ要するに俺が大会の時に補助員をやりすぎて補助員の腕章をつけるたびに安全ピンでウィンブレに穴をあけまくっていたというわけです。
どれくらい補助員をやっていたのかと言うと、大体の人が1度の大会で1回か2回くらい補助員に入るのに対して、俺が最も多かった時で確か6回入りましたね。
そんでこれってお金もらえるのかって話なんですが、まあ大きい大会になるともらえることもありますが、基本的にはもらえないことが多かったです。
じゃあなんでそんなにやっていたのかってことですが、正直自分でもわかりません。まあカッコつけたいお年頃だったんでしょうか...(別に何もかっこよくないんですけどね)
あ、ですが大学での補助員とは多分やってることが根本的に違うと思うんで、俺の高校時代のこの経験はこっちではまるで通用しないかと思います。
ちょっと補助員の話からは逸れますが、これに付随してもう1つ逸話があります。
それは、俺が部活の荷物をめちゃくちゃブン取っていたことです。
要するに、後輩が運ぶはずの荷物を無理やりにも奪い取って俺が運んでいたということです。
まあこれもカッコつけたかったというのはあったかもしれませんが、それ以上の何か重要な意味があったのかと思います。
全てがつながりました。
これは完全に俺の持論なのですが、下級生が荷物運びをはじめとするいわゆる雑用?を請け負うっていう部活動の一般的なあり方にちょっと引っかかるところがあったのかなって思います。まあなんというか、そういうところで先輩後輩っていう線引きするのって1つのチームとしてのまとまりが欠けるっていうか、距離感があるっていうか、まあうまく言えないけどそのー、やらなきゃいけない義務感、その形式にとらわれることそのもの...とりあえずなんか堅苦しさみたいなのがあるっていうのか...
まあ要するに誰がやったってよくね?ってことですかね。
ちょっ、いいや、やめます、この話は...
ただ来年以降俺がどうなっていることやら...
第9章いい加減引退しろよ
錦城陸上部の選手にとって引退のレースとなるのが、大抵6月に行われる学年別大会っていうやつであることが多いんですが(都選抜出る人はそこまでだったり)、俺はこの学年別大会に5000mでエントリーしていました。
俺はそれまで、入賞するとか、上の大会に進むとか、そういった目に見える結果というのを欲していました。
そしてこの大会こそが最大のチャンスでした。
前年の入賞ラインが16分半くらいで正直不可能ではないなと思っていました。
レース当日、とにかくクソ暑かったですね。30℃くらいあったのでしょうか。
なんやかんやでレースがスタートしました。
このレースでは珍しく俺の他にもスロースターターがおりました。
俺はその選手と競り合いながら、垂れてきた選手を拾ってくかんじで順位を上げていきました。
ただ、この時の俺は自分がどのあたりの順位にいるのか全く分かっていませんでした。
そしてこの競っていた選手には最終的にブチ抜かれ間に1人挟んだかんじでゴールしました。
記録は、
16分45秒.........
完全にオワッタと思いましたね。
ところで、順位を見てみると...
「ん? あ? なんだこりゃ? 9位?」
「...。」
「#$’&&#$’&’(%’&$&%#”!#%&$&’%(’&)(’)’(’%&##$%$&’&()’((’%。」
俺は決めました。
「俺、引退しねぇ」
この時点ではどこまでやるかとか具体的には決めてなかったと思うんですが、まあ最終的に11月の都駅伝まで残ってましたね。
なお、都駅伝の悲劇については前のブログ↓に詳しく書いてあるので省略します。https://ameblo.jp/shindaityutyo/entry-12804486315.html
ただ、振り返ってみると、11月まで続けてよかったなとは思ってます。
終章錦城高校jog
もうすぐ帰省期間になるのですが、帰省したらやりたいことランキングぶっちぎり1位が、いわゆる錦城高校jogってやつです。
まあこれも前のブログでちょっとだけ触れましたが、要するに俺の家から錦城高校まで往復でjogするということです。
春に1度やってみたんですが、この時は途中道に迷ったりもして36kmくらいになりましたね。まあ迷わなくても30kmは超えると思いますが。
ただ問題は水分補給なんですよね。これはもう途中にある公園の蛇口の水を飲むしかないんでしょうか...
まあいろいろと考えておきます。
ちなみに今後帰省するたびにやろうと思ってます。
いや~しかし、真に帰省したいのは実家ではなく錦城陸上部なんですよねぇぇ~
ご視聴ありがとうございました。