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しんのすけのオーディオ部屋

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こんにちは(^_-)-☆  しんのすけです

 

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朱里エイコさんと言えば「北国行で」や「ジェット最終便」のヒットで知られる実力派の歌手でした。愛称は「Little Dynamite」(特に米国で)でした。

生涯を通じ、米国と日本を行ったり来たりしながらエンターテナーを貫いた実力派の歌手です。惜しくも2004年に58歳の若さで人生の幕を閉じました。

 

日米両国で一定のファンは獲得したものの、爆発的なヒットでスター路線という感じではありませんでした。これは、当時は時代背景からアイドルが持て囃されており、実力派のエンターテナーを民衆が受け入れなかったからです(今もあまり変わってはいない)。これは、弘田三枝子さんやしばたはつみさんにも同じ様なことが言えるでしょう。

 

特に日本では洋楽のカバーが多かったから好みが分かれたのだと思います。これは、ご本人が「惚れた腫れたの歌は歌いたくない」と言っていた様で、日本語詞のその手の歌謡曲は歌いたくなかったことによるでしょう。

個人的にはもっと日本で作った日本語詞の曲を歌って欲しかったです。

 

 

生い立ち

朱里エイコさんは1946年3月生まれで、舞踏家の母とオペラ歌手の父の間に北海道巡業中に北海道で生まれました。その後両親は離婚し叔父の家で育った。

レコードデビューは1963年10月のファーストシングル「交通戦争はイヤ」(田辺エイ子名義)であるから彼女が17歳の時であった。

その後、高校を中退し18歳でエンターテナーを目指し単身渡米。

プロダクションのオーデションに合格してラスベガスほか各地のホテルラウンジやナイトクラブで活動した。

 

国内でもリサイタルを開催したり活動をしたが人気の方はいまいち上がらなかった。国内で人気が出たのは1971年にワーナー・パイオニアと契約してからである。

 

ジェット最終便

1972年1月に発売した「北国行きで」がヒットしてNHK紅白にも出場。73年にも「ジェット最終便」がそこそこ売れたのでNHK紅白に2回目の出場をはたした。紅白歌合戦に出場したのはこの2回だけであった。ちなみに、しばたはつみさんは1977年に1回、弘田三枝子さんは1962年から8回出場している。

 

 

1972年と73年の紅白歌合戦の歌唱

73年の「ジェット最終便」では1コーラス終了後に花を配るという変な演出のため、2コーラス目の出だしを間違えてしまうことになった。かなり貴重な映像です。

 

 

 

シングルの販売枚数は「北国行きで」が35.9万枚(オリコン最高順位6位)、次が「恋の衝撃」で13.8万枚(オリコン最高順位20位)であった。

わたしの記憶で印象に残るのは「北国行きで」と並んで「ジェット最終便」ですが、これは3.5万枚(61位)と思ったほど売れなかった様だ。

 

 

【空間再生録音】

ジェット最終便 ※ジェット機の効果音大きいので注意

 

 

 

以上の様に爆発的なヒットが出たわけではないけれど、日米両国で人気を集めてそこそこのセールスを記録したのは事実で、まったく売れなかったわけではないのは喜ばしいこと。

多分、ご本人もアイドル路線は嫌だったと思うので、自ら選んだ道だったのでこれで良かったのかもしれない。

 

レコード会社も各社を渡り歩き、交渉にも苦労したことが窺える。

 

【朱里エイコのレーベル変遷】

朱里エイコのレーベル変遷

(補足)

・キングレコード時代の一部の作品は、ロンドンレコードから発売されたものもある。 

・RCAレコード移籍後、同社系のRVC(RCAビクター株式会社)や、後にポリドールからも作品がリリースされている。

・1980年はレコード会社との契約が不安定で、日本での新曲リリースはなかった。

 

 

1975年からは、1975年にマネージャーと結婚し渡米したりして、日米を行ったり来たりしていた様ですが、次回以降にまわします。

 

とりあえずCM曲でも聴いて下さい

 

パラソルチョコレートの歌作詞:博報堂 作曲:小林亜星 編曲:小林亜星

 

 

 

レナウン イエイエ

 

 

 

つづく カモ (^。^)y-.。o○