ルカ
「20:41 すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか。
20:42 ダビデ自身が詩篇の中で、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
20:43 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』
20:44 ですから、ダビデがキリストを主と呼んでいるのです。それなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
大谷がまた、ホームランを打った、
今、日本では、大谷ぐらいしか明るい話題がない。
大谷とは、まるで富士山のようなイメージがある。
富士山を見ていると、
心が晴々する。
富士山とは、日本の誇りであり、喜びであります、
大谷は、富士山のように、日本人の心を喜ばせてくれている。
さて、
私たちが、「ダビデの子」と言うとき、
それは外側の神、この世で立派である神、戦ってくれる神、が象徴される。
当時で言えば、ローマに勝利してくれる神(メシア)です。
マサキチも、
神様を、
この世にあって、
もっと力のあるお方であってほしいと、
不平をたれたくなることが多々ある。
「もう少し、神様が、この世で、ご自身を現してくださるなら、私たちは、もっと伝道しやすくなるのだが、・・・今の現状では、神様とは、何んの魅力もない権威もない外国の一つの宗教でしかない、神様=宗教のイメージでしかない。これでは、聖書は、あい変わらず、日本文化に合わない軽薄な外書のままで、私たちは、神様の援軍なき孤軍に過ぎない。」
こんな感じです。
そんな思いで、「ダビデの子」という思いでしか、
神様の救済を望めないのが人間という存在でしょう。
日本の富士山のような立派さが足りない、
そんな神観をもってしまうのが、
日本人クリスチャンでしょう。
しかし、
富士山のような神観とは、
何か日本人クリスチャンに欠けている問題として、
聖書の神様が、
旧約の神様とでしか表現できていない、
本来の救い主なるイエスキリストまで、
掘り下げていない、
そんな感じがします。
「ダビデの子」ではなくて、
ダビデの主(私の主)であると、
イエス様は、ご自身を紹介したわけです。
ダビデの子も、ダビデの主も同じように聞こえるかもしれんが、
ダビデの主とは、
旧約から連なる、一連の救済の神観であります。
ですから、
ただ単に、外側の救済ではなくて、
人が死に向かうとき、そこにいのちが見えないのではなくて、
永遠のいのちが与えられる、そんな救いをもたらすお方として、
つまり、系図上の救済ではなく、
人間にある内面の救済を表現されているわけです。
「ダビデの子」ではなく、
ダビデすら自分の主と呼んでいる、キリスト(メシア)として、
この世に来られた、
一人一人に永遠のいのちが与えられ、
その保証として聖霊が与えられる、
そのために、
これからイエス様は、
エルサレムに上られ、
十字架につけられ、
私たちの罪の贖いとなられる、
それは、イザヤ53章で預言されたように、
見栄えのしない、
見る姿も輝きもないお方として、
イエス様は、上られたわけです。
富士山のような立派なお方ではなく、
大谷選手のような見栄えのする人ではなく、
その反対のお方として、
来られたわけです。
イザ
「53:1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。
53:2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」
一人一人が、
神の前に悔改めて、
永遠のいのちを持つこと、
そのために、
私たちの罪の犠牲・燔祭のいけにえとして、
貧しくあられたのです。
マサキチが今日を生きれるのも、
そんなイエスキリストの
貧しさによっているのです。
そんな神の愛があってこそ、
不平を言うことなく、
今、与えられた仕事なり生活なりを寡黙に実践していくことができるのです。
そんな救い主として来られたわけです。
本当の富士山は、見栄えではなく、
私たち自身に与えられた心(神の愛)なのです。
永遠のいのちです。教会です。
いってきます=