今 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ルカ
20:27 復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。
20:28 「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』
20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。
20:30 次男も、
20:31 三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。
20:32 最後に、その妻も死にました。
20:33 では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」

 

この手の疑問は、

サドカイ人だけじゃなく、

今の時代でも同様だ。

自由主義神学という中にあっても、

やはり、このような論点が中軸であった。

私たちは、人間の理屈で信仰を考えてしまうクセがある。

形而上の問題が認識の問題と同様に考えられてしまう。

復活するときは、

人とは、何歳のときの姿で復活するのだろうか。

若い姿なのか、それとも死んだ直前の姿なのか。

他にも多くの疑問が聖書から出て来てしまう。

 

20:34 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、
20:35 次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。
20:36 彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。
20:37 モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。
20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」

 

永遠のいのちが与えられることを、

この世にあって、

確信することは、

今のマサキチにとって、

とても大切なことであります。

何故なら、

信仰心の薄い者にとって、

天国に入ってからのことを想像することは

困難なことだからです。

 

確信とは、

私たちが、神の愛の中で生活しているのかどうか、

神が、私たちの信仰に応答してくださっているのかどうか、

それにつきると思う。

何故なら、

マサキチは、今の世のいのちは知っているが、

次の世のいのちを知っているわけではないから、

希望とは、今の世のいのちの延長でしかない。

今の世のいのちを愛せない人が、

神の子とされるなど、

到底認めるわけにはいかないからだ。

 

今の世の理屈ではなく、いまあるいのちです。

真剣に、この世のいのちと向き合うことが、

全てです。

 

マサキチにとって、

永遠のいのちとは、

この世にあっての問題であって、

次の世の問題ではない。


たま、

神の国がこの世で実現することが前提であって、

神の国が実現しない現状で、

永遠のいのちなど確信することなどできないとも言えます。

 

マサキチの愛する人々が、救いを求めることなくして、

どうして、マサキチだけが永遠のいのちを臨めようか。

 

神の国とは、教会であり、教会に真の霊性が与えられないならば、

永遠のいのちなど、マサキチには大きな重荷でしかない。

マサキチも彼女彼等と共に滅びを選ぶことでしょう。

 

人類が理解しなければらないこと、

それは、サドカイ人と同様に、

私たちは、滅びの中にあるいのちでしかないこと、

永遠のいのちは、ただ神によってのみ存在することである。

人類とは、滅びの中にあること、

永遠は、神の中にあること、

そして、

永遠とは、神の愛に属することであって、

戦争や人を殺すことには存在しないと言うことです。
Ⅰコリ
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。

「絶える」とは、

落下する、ダメになる、破滅する、滅びる、堕落する、・・・

愛だけは、決して、そのようではないということ、しかし、

他のものは全て滅ぶ(ダメになる)ということだ。

 

神が望んでおられる姿とは、

神の愛の中で、一人一人が生きることだ。

 

すべてを耐え、信じ、望み、忍ぶ、とある通り、

忍耐を働かせても、なお心に存在する感情こそが、

神の愛である。

愛は、忍耐の深さである。

その神の愛の広さ深さ長さを、

苦しみや試練と共に、

キリストの十字架によって、

愛の深みを知らされて行くのです。

信仰の薄い者にとって、

苦しみの末に知らされたキリストの十字架こそが、

愛のすべてだと思います。


信仰とは神様が与えられた愛です。


いってきます=