ヨシ
「10:16 これらの五人の王たちは逃げ、マケダの洞穴に隠れた。
10:22 ヨシュアは言った。「洞穴の口を開き、あの五人の王たちを、その洞穴から私のもとに引き出して来なさい。」
10:23 彼らはそのとおりにした。その五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王を洞穴から彼のもとに引き出して来た。」
王様とは、
神にとっては、非常に残念な存在であり、忌み嫌われる存在だ。
何故なら、
彼らは、常に神に反抗的であるだけじゃなく、
自分が神になろうとする、高慢へと進むからだ。
神は、そのような神を神とも思わない五人の王たちを、
ヨシュアたちの前に引き出させた。
残念なことだが、
日本人とは、
この五人の王のように、
神を求めないで、何か自分勝手な民族のように思える。
だから、自分勝手に、
偶像を求める傾向が、
政治経済社会において非常に根強い。
結果、あらゆる分野の筆頭において、
堕落した精神構造が見え隠れしている。
自民党の裏金政治のように・・・。
政治献金規制法なるものは、
問題の根本を定していない。
コロナの時と同様に、
日本人特有の根拠探しに過ぎない。
それは、自民だけじゃなく野党陣営も同様の浅薄を感じる。
根本は何か、
それは政治にお金がかかりすぎることではないか。
そこにメスを入れないで、
上澄みだけを論じても意味がない。
話は逸れたが・・・
神様は、人間が王様を求めることを、常に嫌われる。
サムエルは非常に悲しんだ。
しかし最終的に神の声に従い、
民衆の声を尊重し、
一人の王をたてた。
それがサウル王である。
私たちは、決して王様を求めてはいけない、
またそれになってもいけない。
決して、神様以外に聞き従うような無神経な人間になってはいけない。
王や、高慢な人間が神に聞き従わないのは偶像の罪である。
Ⅰサム
「15:23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
神様は、マサキチ自身が日本の偶像社会に、
心を寄せることを喜ばれなかった。
親戚親類のために、良心からであっても、
神は、その偶像社会を決して喜ばれなかったし、
マサキチに警告を与え続けてこられた。
それでも、マサキチは、年に二回、田舎に行かねばならなない。
神は、偶像文化における警告を、
ここ数年マサキチに発し続けてきている。
王様とは、汚らわしい存在でしかない。
外なる人間社会の王だけじゃない、
それは、うちに潜む、高慢という王様に対しても、
常に、汚れた思いを持つこと、
これが、五人の王の首に足を置いた意味である。
「・・・「近寄って、この王たちの首を踏みつけなさい。」彼らは近寄り、王たちの首を踏みつけた。
10:25 ヨシュアは彼らに言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵に【主】がこのようにされる。」
神を畏れない、
高慢の罪は、決して甘くはない。
大切なことは、
私たちのうちに、御霊なる神様が常に居られ、
御霊の示される警告を察知して、
御霊が示される通りの生活を実践できるかどうかである。
汚れた王という称号を、マサキチの心から捨て去っているかどうかである。
神以外に、いかなる人間の権力をも求めてはいけない。
大切なことは、
マサキチが切実に祈り求めている事にあり、
愛する人々にいのち(救い)が与えられることのみである。
神様が与えてくださる、永遠のいのちへと、彼女彼らを救いに導いて下さること、
そのことのみが大切なことです。
この世の地位や名誉に溺れ、
その神を低く自分を高くする高慢という、「王様の罪」
それに続く、
偶像という霊的堕落へと身を落とすことではない。
マサキチは、どんなに罪深くとも、
父なる神様が、一番嫌がられることを霊的に知らされてきた。
マサキチが今、すべきことは、
その大切な神様との関係を台無しにしないこと、
そして、
今の祈りの奪われたくない一心である。
モルデカイのように、ただ黙って、
神様に従って歩みたい。
いってきます=