五人の王 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ヨシ
「10:16 これらの五人の王たちは逃げ、マケダの洞穴に隠れた。
10:22 ヨシュアは言った。「洞穴の口を開き、あの五人の王たちを、その洞穴から私のもとに引き出して来なさい。」
10:23 彼らはそのとおりにした。その五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王を洞穴から彼のもとに引き出して来た。」

 

王様とは、

神にとっては、非常に残念な存在であり、忌み嫌われる存在だ。

何故なら、

彼らは、常に神に反抗的であるだけじゃなく、

自分が神になろうとする、高慢へと進むからだ。

神は、そのような神を神とも思わない五人の王たちを、

ヨシュアたちの前に引き出させた。

 

残念なことだが、

日本人とは、

この五人の王のように、

神を求めないで、何か自分勝手な民族のように思える。

だから、自分勝手に、

偶像を求める傾向が、

政治経済社会において非常に根強い。

結果、あらゆる分野の筆頭において、

堕落した精神構造が見え隠れしている。

自民党の裏金政治のように・・・。

政治献金規制法なるものは、

問題の根本を定していない。

コロナの時と同様に、

日本人特有の根拠探しに過ぎない。

それは、自民だけじゃなく野党陣営も同様の浅薄を感じる。

根本は何か、

それは政治にお金がかかりすぎることではないか。

そこにメスを入れないで、

上澄みだけを論じても意味がない。

話は逸れたが・・・

 

神様は、人間が王様を求めることを、常に嫌われる。

サムエルは非常に悲しんだ。

しかし最終的に神の声に従い、

民衆の声を尊重し、

一人の王をたてた。

それがサウル王である。

 

私たちは、決して王様を求めてはいけない、

またそれになってもいけない。

決して、神様以外に聞き従うような無神経な人間になってはいけない。

王や、高慢な人間が神に聞き従わないのは偶像の罪である。
Ⅰサム
「15:23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

 

神様は、マサキチ自身が日本の偶像社会に、

心を寄せることを喜ばれなかった。

親戚親類のために、良心からであっても、

神は、その偶像社会を決して喜ばれなかったし、

マサキチに警告を与え続けてこられた。

それでも、マサキチは、年に二回、田舎に行かねばならなない。

神は、偶像文化における警告を、

ここ数年マサキチに発し続けてきている。

 

王様とは、汚らわしい存在でしかない。

外なる人間社会の王だけじゃない、

それは、うちに潜む、高慢という王様に対しても、

常に、汚れた思いを持つこと、

これが、五人の王の首に足を置いた意味である。

「・・・「近寄って、この王たちの首を踏みつけなさい。」彼らは近寄り、王たちの首を踏みつけた。
10:25 ヨシュアは彼らに言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵に【主】がこのようにされる。」

 

神を畏れない、

高慢の罪は、決して甘くはない。

 

大切なことは、

私たちのうちに、御霊なる神様が常に居られ、

御霊の示される警告を察知して、

御霊が示される通りの生活を実践できるかどうかである。

汚れた王という称号を、マサキチの心から捨て去っているかどうかである。

神以外に、いかなる人間の権力をも求めてはいけない。

 

大切なことは、

マサキチが切実に祈り求めている事にあり、

愛する人々にいのち(救い)が与えられることのみである。

神様が与えてくださる、永遠のいのちへと、彼女彼らを救いに導いて下さること、

そのことのみが大切なことです。

この世の地位や名誉に溺れ、

その神を低く自分を高くする高慢という、「王様の罪」

それに続く、

偶像という霊的堕落へと身を落とすことではない。

 

マサキチは、どんなに罪深くとも、

父なる神様が、一番嫌がられることを霊的に知らされてきた。

マサキチが今、すべきことは、

その大切な神様との関係を台無しにしないこと、

そして、

今の祈りの奪われたくない一心である。

モルデカイのように、ただ黙って、

神様に従って歩みたい。

 

いってきます=