ヨシ
「8:30 それからヨシュアはエバル山に、イスラエルの神、【主】のために一つの祭壇を築いた。
8:31 それは、【主】のしもべモーセがイスラエルの子らに命じたとおり、またモーセの律法の書に記されているとおり、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で【主】に全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げた。」
「自然のままの石の祭壇」
自然のままとは、申命記27:6と同様に、
「安心、安全、安らか」そんな意味合いも含まれている。
現代、自然食ブームで、安心安全の食材を求めている人が多い。
科学記号を用いた調味料・着色・甘未だけではなく、
肥料や、遺伝子組み換え、汚染等々
考えられるものは、全て排除できた自然こそが、貴重で、高価な食材となってきた。
自然を辿れば、そこに神がいて、創造の御わざがあった。
自然の大元を辿れは、それは神である。
神が共におられることこそ、
安心安全安らかな日々と生活が実現する。
神がヨシュアたちに与えられた地は、
神の安心と安全を祝う地であると同時に、
神が聖別した神が守られる地であること、
その地の石は、決して人間のノミが当てられない、自然のままであること、
それは、大切な私たちと神との信頼関係の証しでもある。
人間が勝利して得た地ではなく、
神がイスラエルの民に与えられた聖別された地、
そこに、立った以上、
祭壇ですら、人間の意思によらず、ただ神に完全に信頼を寄せ得た、安心安全の自然の石のままであることが大事であった、
それ以上の神様への礼拝は存在しない。
教会は、人間が作り上げるような、魅力的な何かで作り上げるべきではない。
バチカンのような大聖堂に神が宿るとは、思えない。
人間の利権と権力の構図による教会ではない、
神による自然こそ、
私たちが求める礼拝だ。
イスラエルの荒地、ゲリジム、エバル両山の前のシ~ンと静まり返った地には、
なるほど、神がそこに居られるはずです。
8:32 ヨシュアはその場所で、モーセがイスラエルの子らの前で書いた律法の写しを、石の上に書いた。
8:33 全イスラエル、その長老たち、つかさたち、さばき人たちは、寄留者もこの地で生まれた者も同様に、【主】の契約の箱を担ぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、半分はゲリジム山の前に、もう半分はエバル山の前に立った。それは【主】のしもべモーセが以前命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。
8:34 その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。
8:35 モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが、イスラエルの集会全体、および女と子どもたち、および彼らの間で生活する寄留者の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。」
私たちの主日礼拝の在り方が、
ここでは学ばされる。
人間によって作れ上げられた礼拝ではなく、
人間の立派さでじゃなく、技術(テクノロジー)でもない、
ましてや神学によって導かれる主観でもない、
ただ、
神がおられる、
神によって作り上げられた、
自然のままの石による礼拝、
自然(安心安全)な礼拝(教会)とは、
どんな礼拝なんだろうか?
それは、ただ、主に信頼する礼拝なはずです。
今日の夕飯は何にしようかな~とか、
昨日発生したトラブルのために
心が落ち着かなかったり、
明日、提出する書類のことで頭が一杯になったりするのではなく、
ただ、
主にこそ、信頼を向ける、
安心安全、安らかな霊性を求める、
ペテロが強風を見て沈みかけてしまう様ではなく、
主に信頼して進み行く、
たとえ、沈みかけても、
主に、助けてくださいと、
子供のように、手を主の方に差し向ける、
主は、差し出された我が子の手を、
喜んで握ってくださる。
これが自然の礼拝だと思う。
ちがうかな~
いってきます=