申命記
「26:16 今日、あなたの神、【主】は、これらの掟と定めを行うように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、いのちを尽くして、それを守り行いなさい。
26:17 あなたは今日、この【主】をあなたの神とし、主の道に歩み、主の掟と命令と定めを守り、御声に聞き従うと誓約した。
26:18 今日、【主】は、あなたに約束したとおり、あなたが主のすべての命令を守り主の宝の民となること、
26:19 あなたを、主が造られたすべての国々の上に高く上げて栄誉と名声と栄えとし、約束のとおり、あなたが、あなたの神、【主】の聖なる民となることを誓約(宣言)されたのである。」
何故、人は偶像を造るのだろうか。
日本は偶像宗教のメッカである。
そのような偶像を意識することを御父は喜ばない。
信じているわけじゃないのに、主は、マサキチのよそ見を嫌われる。
だから、・・・
日本人としてマサキチにも、主に従うに限界を感じてしまう。
聖霊に従うもとも辛く感じてしまう。
何故なら、神がマサキチにとって忍耐の神でしかないからだ。
愛は何も考える必要のない感情だ。
しかし、人間の人格は、それを許さない。
深く考え、決定し、行動するだけではなく、
何のあてもなく、さ迷い歩き、無表情へとされることもあろう。
人は悲しみが過ぎると、すべての視覚が白黒(セピア)になることを知っているだろうか。
流され、ようやくたどり着いた、車の上で、救助待つうちに、隣の老齢者は息を引き取った歴史を知っているだろうか。
人間に知らされるのは、死よりも悲しい現実ではないか。
私たちは、それでも神を求めようか。
それよりかは、無表情のままでいたいと思わないか。
悲しみは、笑いにまさると言うが、
それは神を信じている人々の言い分であって、
愛の状態からほど遠く感じてしまう。
愛は状態であって、行いではない、
ですが、ただ、昔のきよめ派やカリスマ派のような
聖霊の満たしや、霊的エクスタシーとか、
またはオキシトシン(セロトニン)的な気持ち良さとか、
そんなノリではない。
愛は、神様から教えられた心の状態ではあっても、
それは、キリストと一つとされたとき受けた状態である。
横切る毛虫にさえ、愛情を感じてしまうほどの、
心の状態ではあっても、
決して一線を飛び越えたような感情は含まれない。
つまり、
愛の状態は、ただキリストの発見でしかなかった。
それは、自己の埋没を意味し、新たないのちの発見でもあった。
「26:18 今日、【主】は、あなたに約束したとおり、あなたが主のすべての命令を守り主の宝の民となること、
26:19 あなたを、主が造られたすべての国々の上に高く上げて栄誉と名声と栄えとし、約束のとおり、あなたが、あなたの神、【主】の聖なる民となることを誓約されたのである。」
誓約(宣言)されたからと言って、
神は、その後のイスラエル(ユダヤ)の歴史の中で、
どのようであったのだろうか。
イスラエル民族とは、神を見捨てた裏切りの民族国家ではないか。
では、何故、神は聖なる民となることを宣言されたのか。
それは、キリストにおいてのみである。
ロマ
「11:29 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
11:31 それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。
11:32 神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。」
。
私たち日本人は、聖書の神に従い得ない弱さを負っています。
マサキチも同類です。
ですが、何も日本人だけじゃなく、ユダヤ人もそうであり、全世界の人々は、すべて同じキリストによってのみ、救われる民なのです。
そこには、ユダヤ人もローマ人も日本人もなく、
すべてはキリストによって一つとされるのです。
それは、物理現象による、ガンダムのような合体・結合(union )ではなくて、
一人ひとりの改心による心の納得として、一人ひとりの心に成就する愛の問題(identification)です。
ここに御父の宣言の奥行が見えてくるのです。
この世の愛は、人を狂乱へと導きます。
しかし、神の愛は、秩序・平和・統制へと人を正すのです。
優しさは、ややもすると、偶像へと進む弱さであって、
決して、美しいだけじゃ語れません。
しかし、神の愛は、私たちが病魔から回復するのを待っていてくださる強い杖です。
神は、キリストを通して、ご自身の愛という状態を教えられた。
愛は、遊覧船のようにさ迷い歩き、
また、元の出港地キリストの愛に戻される。
キリストの愛と一つとされたなら、
その人は、必ず、不信仰の誘惑から立ち直るようにされる、
それが、キリストとの合一によってもたらされた異邦人への祝福です。
いや、イスラエル人への宣言こそが、
この遊覧船による帰還にかかっているのです。
キリストの愛は、御父の愛です。
愛とは状態であって、想像することや行為(善行)を求めることではありません。
ただ、キリストの十字架と一つとされることです。
長くなるので止めます。