文字(ことば) | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

申命記
「9:27 あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こしてください。そして、この民の頑なさと悪と罪に御顔を向けないでください。
9:28 そうでないと、あなたがそこから私たちを導き出されたあの国では、こう言うでしょう。『【主】は、約束した地に彼らを導き入れることができなかったので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせようとして連れ出したのだ。』
9:29 しかし彼らは、あなたのゆずりの民です。あなたが、その大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出された民です。」

 

モーセがシナイ山から降りた時に携えた二つのタブレットとは、

石のタブレットであった。

固くて重い二つのタブレット、

それに対して、

私たちが持っているタブレットは、

小さくて軽い。

 

モーセのタブレットには神の文字があった。

 

モーセにせよ私たちにせよ、

そのタブレットの使用目的は、

同じである。

文字を見ることが目的だ。

今の時代は画像、動画も見れる。

しかし、画像、動画とは、文字を視覚化したと言える。

 

しかし、

かつての文字とは、

しかも、重たい二つの石に刻まれた文字とは、

今の時代の文字とは重要度が全く違う。

文字とは、ことばであって、その人の人格すべてであった。

そこには画像や動画以上に、

その文字を刻んだ人のいのち(信念)が示された。

 

そのお方が示そうとされた文字に対して、

イスラエルの民は、自らの文字である金の子牛を造った。

ある意味、今の世代が文字嫌いから、映像動画が流行ったのと同様に、

当時のイスラエル人も自分たちの信仰を感性化したのだ。

 

文字が生きていると言える場合、

そこに筆者のいのちが吹き込まれている。

その文字を読むことが、

読者にとっては、とても重要だ。

いい加減な文字ではなく、

昔の小説家の文字、歴史家の文字には、

そこに大切な人類の真理(ことば)が吹き込まれ、

私たちに何かを知らせようとされた。

 

なんだか、芥川龍之介の小説を読みたくなってくる。

 

神様は、モーセに二つのタブレットを渡された。

しかし、モーセは、

山を降りてイスラエルの民が、神を忘れ(捨てて)、

乱痴気騒ぎをしている光景を目の当たりにして、

その二つの石のタブレットを投げ捨ててしまった。

二つの石のタブレットが重かったから投げ捨てたのではない。

モーセが四十日四十夜断食したことが無になったから怒ったのでもない。

そこに刻まれた神の文字(ことば)が、無にされた、台無しにされたこと、

まさに、神の怒り(ことば・御意志)がモーセを通して現れた結果であった。

 

しかし、神は、このスタバーンピーポオ(頑固な民)を滅ぼしはしない。

何故なら、

約束を破棄されるような人類とは違うからだろうか。

それも当たってはいる、

しかし、もっと人間的な意味において重要なことは、

神は憐みの神であって、恵もうとされる神だからだ。

つまり、モーセのこの民への執成しこそが、

もっとも重要だ。

モーセがこの民をどれほど愛されているのか、

その愛によって神が動かされたとも言えよう。

神の誠意と、人の執成し、

この二つは、神の聖と愛に満ちていると言える。

神は、愛するイスラエルを決して忘れはしない。


申命記
「9:27 あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こしてください。そして、この民の頑なさと悪と罪に御顔を向けないでください。
9:28 そうでないと、あなたがそこから私たちを導き出されたあの国では、こう言うでしょう。『【主】は、約束した地に彼らを導き入れることができなかったので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせようとして連れ出したのだ。』
9:29 しかし彼らは、あなたのゆずりの民です。あなたが、その大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出された民です。」

 

マサキチは、

イスラエルの民を特別扱いはしない。

今の教会とイスラエルの民の歩みさえ分離することもしない。

イスラエルの民の約束は、分離せず、

全ての世界に救いは広まったこと、そして、

イエスキリストを信じるとは、どのような人々なのか、

マサキチが求める信仰とは、

神が聖なる神であって、

聖の中には、神が愛なるお方であり、誠実なお方であること、

約束は、そのかつての文字(ことば)は、神のいのち(人格)であって、

そのお約束を違える場合には、

神様御自身が、それ以上の大きな神の文字を表現しなければならない。

その大きな文字として表現されたお方、

こそがイエスキリストであろう。

 

その神が、イスラエルの民をどのように扱われるのか、

マサキチは、知るよしもない。

終末的観点、ディスペンゼーション主義、はては自由主義陣営に見られる終末論、

すべては聖書を読み込み過ぎていると思う。

分からないことを、分ったと言っている神学者や牧師が多くいます。

神のことばが書かれた聖書を

神の聖も愛も分かっていない信仰のエリートがいるならば、

かってに、神の文字を読み込み、勝手に私訳聖書を発行したり、

つまり、終末論とかイスラエルの民の在り方などを、簡単に結論づることは

避けなければならない。

マサキチは、そのような神学に対して視野の狭さを感じてしまう。

根本ではなく、根拠探しで終わっている。

今、聖書が示された文字(ことば)とは、

神の愛であって、イエスキリストご自身である。

聖書の文字は、このイエスキリストのことば(人格)を通して読み進める以外に、

キリスト者は、それ以上の読み込みは危険です。

そのイエスキリストということば(ロゴス)が光となり闇の中に輝いる、

そのキリストの恵みをまず、しっかりと自分のものとできる、お互いでありたいです。

キリストの恵みからそれた神学や聖書の読み込みは、

字義通り聖書を解釈しすぎ(読み込み過ぎ)てむしろ、

その文字(ことば)の根本を知らないならば、

危険であり、むしろ聖書そのものに書かれた神の文字(ことば)を軽視することになっていると思ふ。

難解な聖書の文字を日本人がかってに分かったと言ってはいけない。

自分の心でしっかりと、神の愛をキリストを受け止め、

その中で、分からないことは分からないままに、

いずれ分るように祈る姿勢が大切だと思う。

イエスキリストこそ、ことばであって、この人にこそいのちがあって、光は闇の中に輝いていて、

闇は、光に打ち勝つことはできない、キリストの十字架こそ、人の最終的なロゴスだと思います。

イスラエルの救済ではなく、

まずは、私たちの愛する人々の救済

つまり、

私たち自身の救済を求めるべきです。

 

いってきます=