クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

Ⅰ列王
11:14 こうして【主】は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王の子孫であった。
11:15 ダビデがかつてエドムにいたころ、軍の長ヨアブが戦死者を葬りに上って行き、エドムの男子をみな打ち殺したことがあった。
11:16 ヨアブは全イスラエルとともに六か月の間そこにとどまり、エドムの男子をみな絶ち滅ぼしたのである。
11:17 しかしそのとき、ハダドは、彼の父のしもべである数人のエドム人と逃げてエジプトへ行った。当時、ハダドは少年であった。

 

神様は、ソロモン王に対して、

どのような敵対者を起こされたのだろうか。

神は、

かつて、ダビデの時代に軍団長ヨアブによって打ち滅ぼされたエドム人の王の子孫ハダドを、

逃亡先エジプトから敵対者として呼び戻されたのである。

 

ハダドはイスラエル人に対する恨みが残ったままずっとエジプトで過ごしていた。

遺恨を残すことは、

聖書においてどのように扱われているのだろうか。

人間的には、精神的苦痛を持ち続けることであって、

仇討ちをして、すっきりしたく思うのが人間というものです。

たとえ、仇討ちの結果、自分自身の生命が危うくされても、

遺恨という感情をずっと持ち続けて生きているよりかは、

精神的に楽なのでしょう。

いっそのこと、討ち死にしたいと思うのが、

人間的な感情であります。

そして、

多くの人々は、遺恨を持ち続けている人を、むしろ憐れむことでしょう。

正義の旗を上げ続けている勝利者よりも、

正義者の犠牲となった無辜の民を憐れむものです。

たとえ、悪に勝利したとしても、

遺恨を残すような勝利を、

人間の感情は受け入れることができないものです。

実際には、エジプトに逃げたハダド少年とは、

聖書では悪者として書かれています。
 

Ⅰ列王
11:25・・・ハダドのように悪を行ってイスラエルに敵対し、・・・

 

現在で言えば、

アメリカに対する一部のイラン人、

そして日本に対する中国人や一部の韓国人などの感情とは、

ハダドのように世代を超えて遺恨を残している現今的事例でしょう。

 

ハダドは、エドム人、

エドム人とは、兄エサウの子孫です。

そしてイスラエル人とは、弟ヤコブの子孫です。

兄エサウの弟ヤコブへの遺恨は、

後の時代に引き継がれていったと言えます。

 

アブサロムなどは、

妹が辱めを受け、怒りと遺恨を抱き続けたが、

年月を経て異母兄アムノンを殺すことで

アブサロム自身の遺恨をはらすことができた。

アブサロムも悪者として書かれています。

 

聖書とは無関係ではあるが

赤穂浪士などは、その典型である。

愛する主人が殺されて、

我慢することは、

浪士にとっては耐えがたい苦痛でしかなかった。

最後は、全員打ち首となった。

 

無念の思いを持ちながら生きて行くことが如何に困難なことか、

理解したい。

神は何故、そのような苦しみの子ハダドを

敵対者として起こされたのだろうか。

憎しみ恨みは、敵対者として用いられやすいとも言えます。

憎しみの連鎖を通して、

パウロもエルサレムで迫害に会い、

ローマへ連行されました。

 

家族を殺され、愛する人々を殺され、

心を支配している憎しみの感情を消せと言われても消せないのが

人間の性というもの、

そのような弱くされてしまった人類に対して、

神様は、ご自身の独り子、御子イエスキリストを人間の憎しみの渦の中に投げ込んだのです。

イエスキリストは、

愛する人々からも相手にされないほど、

愛する人々からも目を逸らされるほど、

ご自身は、

見るべき姿も輝きも放棄された。

慕っていたお弟子たちも彼を見離し、

蔑まれ、のけ者にされ、

悲しみの人で、病を知っていた。

誰も彼を尊っとばなかった。

尊っとばれていた子が、

全ての人から失望と幻滅を感じる程、

自らの繁栄と栄光を放棄された。

彼は痛めつけられ、苦しみ、

口を開かない、屠り場に引かれて行く家畜のようになった。

しかし、これだけは事実である。

イザ
53:5・・・彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 

私達自身の耐えがたい苦しみ、言いようのない悲しみ、絶望的な心、

全てキリストの十字架によって浄化できないだろうか。

できるならば、その人々こそ、神が望まれる子らである。

父なる神の子として祈ることが許された、

神の子(養子)とされた人々であります。

神は、愛する子らに罪悪の苦痛をもたらします。

愛するイスラエルの民に対して、

神が求めている理想の子の姿を求めて、

神は人の弱き感情を通して、

愛する子らに試練を与えます。

しかし、その苦痛を通して、父なる神を発見することは、

神の知恵であります。

イザ
30:20 たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水を与えても、あなたを教える方はもう隠れることはなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける。