私は1970年の日本万国博覧会(EXPO'70、大阪万博)に強い影響を受けています。しかし、もう一度万博を開催すれば良いとは思えません。また過去の再現になるとも思えません。

 

【1970年当時はインターネットも携帯電話もありませんでした】

1970年当時、インターネットは一般的には存在しませんでした。1990年代後半頃から徐々にネットや携帯電話が使われるようになり、2023年現在では大いに利用されています。

 

1970年当時テレビはすでに存在し、皇太子殿下のご成婚(1959年)や東京五輪(1964年)を経て、多くの人々が所有する電化製品になっていました。ただし、まだ白黒が主流でした。念のために書きますが、番組が白黒で収録、放映されれば、カラーテレビで受信しても白黒映像しか映りません。1971年1月31日にスタートし、現在も続く「新婚さんいらっしゃい!」も当初は白黒で放映されていました。

 

2025年に博覧会を開催しても、今のようにネットを使えば瞬時に情報を入手できる時代に、わざわざ時間を作ってお金を払い、労力を使ってまで博覧会を見に行きたいと思う人がどれだけいるでしょうか。完全に時代錯誤です。特に遠方に住む人は、ほとんど見に行きたいと思わないでしょう。

 

これは内風呂が発達したことによって銭湯が斜陽になり、テレビの発達によって劇場や映画館が斜陽になったのと同じことです。そしてテレビもネットの台頭により斜陽となりました。家に居ながらにしてできることを、わざわざ外に出てする、特に遠方から泊まり掛けでするというのは、余程の物好きでもない限りしないことです。2020年以降は新型コロナウィルスの感染拡大も加わって一段と拍車を掛けたと思います。

 

旅行であれば、その土地に行かなければ行ったことにはなりません。しかし展示物を見るだけならば、写真や映像で見るだけでも良い訳です。EXPO'70においても各館では現物の展示もありましたが、写真の展示や映像の上映も多々ありました。今の時代においては、出展を予定している各国や各企業がHPやYouTubeに写真や動画を掲載すれば済むことなのです。それに今すぐ社会に公表できるものを2025年まで待ってから公表するということは非常に無駄なことです。

 

体験するタイプの展示は足を運ばなければならないでしょうが、それは万博という形態を採らなくてもできることです。既存の展示場を使えばできます。

 

しかも2025年の博覧会が予定されているのは、おおむね「暑い時期」です。1970年も同じく一般的に見て「暑い時期」の開催でしたが、2025年の開催地では海からの暑く湿った潮風をまともに顔に受けることになるでしょう。

 

【1970年当時は今ほど価値観が多様化していなかった】

1970年当時は今ほど価値観が多様化していませんでした。多くの人が「外国」や「宇宙」「未来」といったものに興味を示していました。

 

1964年に海外旅行が自由化されたとは言え、海外旅行はまだ大衆化しておらず富裕層だけのものであり、一般庶民には夢のまた夢の話でした。当時放送されていた「アップダウンクイズ」でも冒頭の挨拶として「10問正解して、夢のハワイへ行きましょう!」というフレーズがありました。新婚旅行でも熱海や宮崎、和歌山県南部などが主な目的地となっていました。そういった時代にEXPO'70は、憧れの海外旅行を擬似体験し、スタッフとして勤務する、若しくは観客として来場する外国人と触れ合える数少ないチャンスでもありました。著名人ではない普通の外国人にサインを求めたり、一緒に写真を撮ることもあったと聞いています。

 

また当時はアメリカとソ連が宇宙開発に鎬を削っていた時代であり、特にEXPO'70前年の1969年にアメリカが人類初の月面着陸を成功させるなど、多くの人々が宇宙に強い関心を持っていました。アメリカ館で展示された「月の石」を見学するのに、何時間も並んだという話は非常に有名です。対するソ連も宇宙に関する展示をしていますし、それと同時にレーニン生誕100周年ということもあって、アメリカへの対抗意識が現れた展示となっていました。

 

未来に付いても、日本はこのままずっと経済成長が進んで、いずれは宇宙にも旅行できるような素晴らしい時代がやって来ると信じている人もいました。東海道新幹線の開業から万博の開幕まで5年と5ヶ月半しか経っていないのに、日本館では次世代の高速鉄道としてリニアモーターカーの模型が展示されていました。

 

これに対して、現在では価値観が多様化、細分化され、限定された物事に熱狂する時代ではなくなりました。

 

【テレビや旧来からあるプロスポーツも情報手段、価値観、娯楽の多様化によって斜陽化した】

上でテレビの話をしましたが、テレビもまたネットの発達のみならず、娯楽の多様化、価値観の多様化などによって全盛期のような勢いはなくなりました。テレビに関してはそれ自体の進化、つまり録画再生機(ビデオ、DVDなど)の普及、衛星放送やケーブルテレビの登場など多チャンネル化、近年では放送された番組のネット配信などによって視聴者が分散しているという側面もあります。

 

1980年台前半まで、NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)は平均視聴率は40%を超えるものが多く、また同じ頃まで紅白歌合戦も70%を超えていました。これらは番組自体が秀逸だったことももちろんあるのでしょうが、上述のように娯楽や価値観、情報手段が多様化していなかったからこそ高い人気を博することが出来たとも考えられます。

 

今の時代の紅白は、明らかに視聴者の年齢層によって見る(聴く)歌手は違うのに、1つの番組の中にさまざまな歌手を言わば「ごった煮」にして詰め込んで放送しているから、一体何がやりたいのか分からなくなり、更に他の放送局も紅白に対抗しうる番組を作ったり、ネットなどで他の娯楽を享受できるようになった結果、ここまで視聴率は下がったものと思われます。

 

テレビだけでなく、スポーツでもプロ野球や大相撲、プロレス、ボクシングなどもかつては高い人気を博していましたが、サッカーなど他のプロスポーツも台頭して来たり、テレビゲームなど様々な娯楽が出て来ると、以前ほどの人気はなくなりました。テレビで中継する場合も、昔ほど高い視聴率を獲得できなくなりました。かつて日本テレビ系列では、巨人が主催するナイトゲームはほぼすべて生中継していましたが、今では地上波で見かけることはかなり少なくなったと思われます。

 

これと同じ理屈で2025年に予定されている博覧会も、多くの人々から興味・関心を寄せられる対象にはならないだろうと考えています。

 

興味の対象となるものや、それに対する接し方が限られていた過去の時代には、同じことをしても今よりも多くの顧客を獲得することが出来ただろうと思います。

 

ただし紅白について補足すると、今の時代に30〜40%もの視聴率を叩き出せる番組は、国際的なスポーツ中継を除いて他にはほぼ存在せず、紅白をやめて他の番組を立ち上げてもその数字に及ぶことは考えにくく、逆にこれだけ価値観や娯楽、情報手段が多様化した時代に30〜40%もの数字を出すのは凄いことなのかも知れません。

 

また紅白は総合テレビだけでなくBSでも放映され、ネットでも1週間程度配信され、ラジオでも聴くことが出来ます。朝ドラは総合テレビおよびBSのそれぞれで本放送と再放送があり、やはりネット配信もあります。両者ともに視聴者が個人で録画して視聴することもあります。これらの視聴率/録画率をすべて合計すれば、一般的に公表されている視聴率よりも高い数字が出るだろうと思われます。

 

【万博を開催することによる経済効果・・・】

1970年に万国博覧会が開催されたことで、千里を中心とした北大阪や大阪市内、或いは京阪神間のインフラの整備は大いに進み、大きな経済効果がもたらされたでしょう。経済効果は一説には3兆円とも言われています。

 

ただし、この時代は高度成長期の真っ只中であり大阪への人口流入も多く、1965年に万博の開催地が決定する前から、つまり万博とは直接的に関係しない形で地下鉄や高速道路などの建設も進んでいました。また同様に万博とは関係なく千里ニュータウンが造成され、1962年に最初の区画が街開きしています。それらがあった上で万博が開催されることとなり、これら3つの好条件が重なったからこそ「千里を中心とした北大阪や大阪市内、或いは京阪神間のインフラの整備は大いに進み、大きな経済効果がもたらされた」と考えられます。

 

今となっては都市やその周辺は開発も進み伸び代も少なくなり、また少子高齢化の時代となってしまったので、今後は街が大きく変わることもなくなったでしょう。

 

1990年に大阪の鶴見緑地で「国際花と緑の博覧会」(EXPO'90)が開催されていますが、これによる経済効果はどの程度だったのでしょうか。インフラとしては市営地下鉄鶴見緑地線(京橋〜鶴見緑地)が整備された程度ではないでしょうか。

 

ちなみに

EXPO'70の入場者数は延べ6421万8770人でした。

当時、世界の人口は37億人で日本の人口は1億0466万人でした。

 

EXPO'90の入場者数は延べ2312万6934人でした。

当時、世界の人口は53億人で日本の人口は1億2361万人でした。

 

EXPO'70の入場者数は当初は3000万人と予測され、後に5000万人に修正され、8月19日頃にはその数を突破し、最終的に上記の数字となりました。

 

日本の人口が1億人を突破したのは、EXPO'70の3年前の1967年のことで、日本の国民総生産が西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ2位となったのは1968年のことです。

 

大阪はEXPO'70では大成功しました。しかし以降の大阪は、特にバブル時代に大規模開発や大規模な建物の建設をしまくっては、第三セクターが破綻したりすることが相次いでいると思います。大阪は東京への対抗意識もあるからか、充分足りているにも関わらず、必要以上に物を欲しがり過ぎているのではと思います。身の丈に合った開発や建物の建設だけをしていれば、このようなことにはならなかったのではないでしょうか?

 

【民族大移動だったEXPO'70】

1970年当時は新幹線は東海道新幹線のみ、高速道路で東京と大阪が繋がったのも前年という時代であり、また航空機の利用も今ほど一般化しておらず、遠方から客車による列車で10何時間も揺られて大阪までやって来た・・というような人も多かったのです。当時の鉄道車両は新幹線や国鉄在来線の特急など別料金を支払って乗車する列車を除き、ほとんど冷房は設置されておらず、長距離列車に用いられる客車の座席も多くは背もたれが直角になっているタイプで、必ずしも居住性が良い代物ではありませんでした。

 

そこまでしてでも、行きたいと思う価値があったのがEXPO'70だと思っています。加えて、今の時代にも言われている、日本独特の同調圧力も多分にあっただろうと思います。おそらく今よりも当時の方が、同調圧力は強かったと思われます。みんな行っているのに自分だけ行かないのはおかしい、万博に行くことがステータスなどという考えもあったと聞きます。

 

首都圏方面からの来場者にはEXPO'70で初めて新幹線に乗ったという人も多く、当時は新幹線に乗ること自体がイベントであり、新幹線は走る(動く)パビリオン、新幹線もパビリオンのひとつとさえ言われていました。新幹線や国鉄在来線の特急もまだまだ特別な乗り物でした。この時代、東京圏の国鉄の駅には「東京駅から3時間半で万国博へ」という内容のポスターが掲示されていたようです。新幹線の所要時間が3時間10分、新大阪駅での乗り換えと地下鉄および北大阪急行の乗車時間が20分程度と計算されたのでしょう。

 

それまで新幹線は12両編成で「ひかり」の16両への増車は1972年の岡山延伸の頃と想定されていましたが、EXPO'70で2年前倒しとなりました。「こだま」は12両のままで増発により対応しました。新幹線の利用者数は、EXPO'70前年の1969年は7200万人でしたが、1970年には8400万人にも増加しています。EXPO'70の会期中、新幹線の乗客の25%以上=およそ1000万人が万博関連の利用者でした。

 

会場に到着しても、人気パビリオンは何時間も列に並んで待つこととなり、万国博になぞらえて「残酷博」、あるいは万国博のテーマである「人類の進歩と調和」になぞらえて「人類の辛抱と長蛇」などと揶揄されることもありました。特に閉幕を8日後に控えた9月5日(土)には1日で83万5832人もの入場がありました(会場内に同時にいた人数ではありません)。帰りの交通機関はパンクしてしまい、終電に乗れなかった4000〜5000人が会場内で野宿を余儀なくされたそうです。これらの人々は、警備担当者の特別な計らいで、翌日は朝から万博を見物することができたそうです。また梅田まで出てもそこからの交通手段がなく、大阪駅で野宿したり、曽根崎警察署に押しかける人もいたようです。

 

【会場の建設に掛かるお金】

EXPO'70では展示館(パビリオン)の建設費は出展者が負担していたはずです。したがって、アメリカやソ連など、当時好調だった国々や企業は大金を投じて、大型で奇抜な形のパビリオンを建設することが出来ました。しかし、ネットが発達した2025年にそのような展示館を建設する必然性はありません。

 

【大阪や関西以外では相手にされていない2025年の博覧会】

2025年の博覧会に期待を持っている企業は、ほとんどが大阪や関西を拠点とする企業ばかりです。関西以外で期待しているのは建設で儲かるであろうゼネコンくらいです。他の地域からはまるで相手にされていないということがわかります。

 

本件に限らず大阪人は「東京では」という言葉を使いたがります。東京に対する意識の大きさが要因だと思われますが、本来ならば「大阪/関西を除く全国では」という場面でも「東京では」という言葉を使う傾向にあると思います。

 

本件に関して言えば、東京のみならず全国から相手にされていない現実から目を背けたいからか「東京に限っては理解を示してくれない」という言い方を敢えてしているように思えます。実際に国会でも大阪の議員が「大臣で万博バッジを着用しているのは万博担当大臣だけだ、岸田総理も着用してほしい」という要請があったものの、4月11日現在、岸田総理は着用していません。

 

【大阪出身の作家とEXPO'70】

共にEXPO'70に関与した大阪出身の作家である、堺屋太一氏と小松左京氏はその後の人生が対照的だったように映ります。堺屋氏はEXPO'70の時代がいつまでも忘れられなかった人、小松氏はその後「日本沈没」を記すなど、現実的に世の中を捉えていた人だと思います。また、同じく大阪出身の作家である筒井康隆氏は「未来なんてもう過去のものや」と発言していたのが私には印象的でした。

 

【過去の博覧会を振り返る】

日本では今まで万国博覧会は5回開催されています。EXPO'70を除いて、収支がどの程度だったのか、あるいは経済効果がどの程度だったのかは私は知りません。しかし、53年経っても多くの人の印象に残り、またその後に生まれた世代でも具体的にどのようなものだったかはともかく、その存在を理解している万国博覧会はEXPO'70が唯一ではないかと思います。

 

2005年に開催された愛・地球博は2205万人の入場者がありました。下記の公式ページによると来場者の内訳は、日本に在住する人に限っているものと思われますが、地元愛知県だけも43.8%、隣接する岐阜、三重、静岡の3県を加えると58.1%であり、実に6割が「地元の人」なのです。

 

参照したページ

http://www.expo2005.or.jp/jp/jpn/press/press051005_01_01.pdf

 

残る4割にその他43都道府県からの来場者が入る計算になります。

 

愛・地球博の収支が黒字だったかどうか、経済効果がどの程度だったかは知りませんが、少なくとも地元しか盛り上がっていなかったことは、この数字からもハッキリしているのではないでしょうか。

 

また関東から訪れた割合が15.2%、関西からが12.4%となっていますが、関東圏の人口はおおむね関西の2倍であることを考えると、関西からの愛・地球博に出かけた人の割合は、関東の1.6倍ほどあったことになると思います。これには地理的な近さもあるだろうと思われます。

 

次ページでは1985年のつくば博や1990年の花博についても記載がありますが、それらは愛・地球博以上に「地元だけが盛り上がった」博覧会だったと言えます。

 

愛・地球博は過去5回の国際博覧会の中で唯一、インターネットや携帯電話が一般的となっていた時代に開催され、かつ関東や関西に比べて人口が少ない東海地方で開催され、つくば博や花博よりも非地元率が高かったことを鑑みれば、健闘した内に入るのかもしれません。

 

EXPO'70も地元である関西圏からの来場者が最も多かったと推測されますが、他と違うのは上述のように延べの入場者数が他の博覧会を圧倒しており、関西圏以外からも参加した人の数は相当数になるものと見られます。異論などがありましたらお知らせください。

 

展示物の面からも、大阪万博のことを「昭和の黒船」や「金属バットで後頭部を殴られたような衝撃があった」などと形容する人もいます。それだけ大きな衝撃を受けた人が少なくなかったのだと思います。

 

ワイヤレスホン(携帯電話)、ブルガリアヨーグルト、缶コーヒー、ケンタッキーフライドチキンなど、今では当たり前にあるものも、万博が初めてだった、若しくは万博がきっかけになって広まっていったものは少なくありません。なお、マクドナルドやカップヌードルは翌71年に東京・銀座で売り出されて広まったものです。

 

加えて、各パビリオンは今の時代から見ても未来を思わせるような造形となっており、万博を直接知らない世代がこれらの写真や映像を見れば、それらが53年前に存在したことを信じられないのではと思います。

 

それに対して、愛・地球博などその後に開かれた博覧会は、ただの催事、展示会、お祭りに過ぎず、EXPO'70のような衝撃を与えるものは少なかったと言わざるを得ません。

 

また1981年に開催されたポートピア'81を嚆矢として、80年代から90年代初頭には各地で多数の地方博が開催されました。しかし、その後はバブルの崩壊やインターネットの発達によってブームは沈静化しました。

 

今日、4月13日に書けるのはここまでです。今後、加筆・修正をすると思います。

 

(※8月10日〜12日に掛けて、文意を変えない形で漢字の間違いや表現を修正し、若干の加筆をしました)