「全てが1つに繋がっていると言われても
ピンとこないんです」

「いやいや、私は1人だし」
「誰とも繋がってないし」

って思うかもしれませんが、
本当のところ、
本当にそう思ってますか照れ


本当のところ、
「分からない」のではないですか?


私も分かりませんでしたし、
今も正直、全部分かったとは
全然思っていません笑い泣き笑い泣き笑い泣き


ただ、言えることは、
良い悪いのジャッジがあると
なかなか1つに繋がってると
感じられないということです照れ


私はここ15年くらい、
ずっと疑問に思っていることがありました。

それは性犯罪の被害に遭われた方の
心のケアについてです。
小学生の時、たまたま見た
子ども向けのYahoo!のサイトで
性犯罪のことが取り上げられていて、
生々しい言葉が綴られていることに
衝撃を受けたことで興味を持ちました。


映画や小説でも、レイプが扱われて、
心を傷めてきました。


最近NHKのドキュメンタリーを見て
さらにこの記事を書くに至りました。


設定変更に出会い、
「(感じることの)全てが喜び」と
いう考え方に対して、
じゃあ人に言えない悩みを
抱えた人はどうなるんですか!!!?
って思っていたんです。

そこが設定変更を学ぶうえでの
原点になりましたね。

結論「全て喜び」というのは、
それでも1人で全て喜びとしても良い、
ということ。誰に何と言われようと、
何があろうと、全て喜びとしていい
ということです。

誰かに分かってもらわなくてよくて、
たとえ、どんなにひどいことがあっても
それでも、全て喜びととらえていいということ。

それから、肉体が勘違いをしていることも
含めての意味であると私はとらえています。

嫌なことも嬉しいことも
区別がつかず、
経験そのものが
感じる面白さなんです。

「なになに?やってみたい!」
という純粋な存在である
ということです。


だから、性犯罪におきかえれば、
体が反応することは仕方がなく。
体の反応が嬉しいときも
嫌なときも変わらないために、
自分が「受け入れた」と認識して
肉体と心の反応のギャップが
被害者のその後を苦しめるのだと考えます。


そして、「全てが1つである」
という前提に関しても、
「そんな極悪非道な犯罪を
犯す人と、1つだなんて有り得ない!」
と自分が抵抗しているのを感じました。


結論、そこに関しては、
まだまだ研究の余地があります。
私の中でも明確な言葉には至っていません。





ただ、現時点で言えることは、
社会は宇宙の縮図ではないか
ということ。


つまり、
誰もが誰かに支えられている
という事実です。


お金の循環と同じで、
誰かの仕事が回り回って
私の食料になったり、
医療や福祉の安全になったり、
税金が公共施設になったり、


あなたがいなければ
私がいないし、
私がいなければ
あなたもいない、

というシンプルなことに気づきます。


確かに、見知らぬ人が亡くなったとき
涙を流すことは難しいかもしれませんし、
見知らぬ人が亡くなったからと言って、
社会がストップするわけではありませんね。

ただ、1つのこの地球の中で、
私たちは支え合いながら暮らしているのです。


どんな境遇にいても、
どんな被害に見舞われても、
幸せになっていいと
自分にゆるしてほしい。

犯人をゆるさなくていいから、
犯人をゆるせない自分を
ゆるしてほしい。


誰かに幸せそうだと思われなくていい。


幸せそうな人だって分解していけば、
自分で
自分を
幸せに
している、
ただそれだけのことだ。

物に囲まれた人が幸せそうに見えても、
本人がどうかは分からない。

本人が幸せと思っていなければ意味がない。



私の言葉が
誰かの癒しになったら嬉しいです。
届け!


読んでくださり、
ありがとうございましたウシシ