私が1番楽になった考え方は
肉体はアホということ。

肉体の反応は当てにならない
ってことが1番楽になった考え方でした。

というのも、肉体は
嬉しいときも
悲しいときも
ドキドキするし、

嬉しいときも
悲しいときも
お腹は減るし、

嬉しいときも
悲しいときも
トイレ行きたくなる。

つまり肉体は、
幸せの区別が
つかない!


そして、区別がつかないからこそ
全て喜び
という捉え方ができるのです笑い泣き


設定変更してて「全て喜び」に
つまづくことありませんか?


何が喜びじゃーーーーーいムキー

プンスカ!って(笑)

んなわけあるかーーーーいムキー

って(笑)


けど、肉体はアホなので
反応することしかできませんラブ
反応することが喜びラブ
感じることが喜びラブ


ということは?

悲しいっていう感情も
きちんと感じてあげましょう。
それが好みじゃなくても。
ちゃんと感じて好みじゃないなら、
やめればよい。

きちんと感じないと、
何が嫌?
何が嫌いなの?
って聴くこともできないからね笑い泣き

なのに悲しむことから
逃げてしまうのは、
自分を大切にしてないということだと
私は思います。

きちんと感じるというのは、
たとえば大切な人が亡くなったときに
「○○が死んで悲しい」
「だってあんなに幸せだったもの」
「あれもこれもどれももうできない」
「○○がいたから頑張れた、もうできない」

みたいに何が嫌か、も自然と出てきますニコニコ

それで、いっぱいいっぱい
悲しみに暮れて、
何が嫌かとかいろーーんなことを
自分で自分に喋り続けて、
その話を聴き続けて、

最終的には
「○○は私のこんな姿、喜ぶかな?」
「私もこのままでいたら人生詰むな」
「生きたくない、、けど死ぬ勇気もなくて
死んだら○○に怒られちゃうかな」
「私は、○○にたくさんのことを教えてもらった」
「私は恩返ししたい」
「○○に胸張ってまた会えるようになりたい」

って、このターンが半年後に来るのか
1年後に来るのか、はたまた3年後なのか
誰にもわからないけど、
そうやって立ち直っていくんだと思う。



大切な人がいなくても幸せ
って思っちゃいけないと思ってる。


思ったらこれまで
「この人がいるから幸せ」と
思っていた自分を否定することになるから。


けれど、幸せは自分次第というなら、
本当は1人で勝手に幸せであっても
いいということではないでしょうか?


嬉しいときも
悲しいときも
涙が出る、この肉体を使って、
この地球で大切な人の死すら
経験したかったこととして
受け止めてもいいのではないでしょうか?


それが、全て喜びの前提に立つということ。


アホな肉体だけど、肉体がなければ
何の楽しみも悲しみも経験できないから。

アホな肉体を大切にしながら
今日も楽しみたいと思います♡