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日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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『毛利氏はなぜ萩を居城の地に?“家康に押し込められた”は本当なの?』と、多くの山口県民は疑問に思っている。

おもしろ山口学では、これを明快に否定し、萩は守りに適した地であり、幕府の薦めもあり、毛利輝元自らこの地を選んで築城したと回答している。

よくよく考えてみると、日本海に面した萩は江戸時代までは北前航路の中継港であり、酒田から新潟、、、下関、、、大阪までの航路の途中にあって交通の便が良かった。また、朝鮮や中国大陸との密貿易などにも便利であった。実際、村上水軍の嫡流を阿川毛利家の家臣として密貿易に従事させていた。

だから、関ヶ原の合戦の敗戦の後、中国地方の全家臣を萩城下に収容してもどうにかやって行けそうなので、毛利輝元も家臣達も幕府に対して異議を唱えなかったのである。


参考


キラリンク(2020.6.26、参考)

現在の萩城跡。穴太衆(あのうしゅう)の技術で築かれた天守台の石垣は「扇の勾配」と呼ばれている

毛利氏はなぜ萩を居城の地に?
“家康に押し込められた”は本当なの?

萩に築城したのは“家康に押し込められたからだ”という説が以前から伝えられてきました。 果たして本当なのか。今春、常設展をリニューアルした萩博物館の展示などをもとに紹介します。

江戸時代、毛利(もうり)氏36万石の城下町だった萩。日本海に面した指月山(しづきやま)の麓に城が築かれるまで、萩は小さな漁村だったとされます。居城の候補地として山口の高嶺(こうのみね)(※1)や、防府の桑山(くわのやま)(※2)もあった中、なぜ萩となったのか。それについて“毛利輝元(てるもと)(※3)は防府を望んだが、徳川家康によって萩に押し込められ、その恨みが幕末の倒幕につながった”という俗説があります。真実はどうなのでしょう。

輝元は関ケ原の戦いで西軍の総大将格だったため、戦いの後、家康に領地を中国地方8カ国から防長2カ国に削減され、それまでの広島に代わる城地を決めなければなりませんでした。

史実によれば、まず候補に挙がったのが山口。輝元は慶長8(1603)年10月、山口に着き、臨時の居館とした寺に入ります。しかし山口は毛利氏以前に強大な力を持っていた大内氏の拠点。なおかつ、海に面していません。海や河川は当時、人や物資を運ぶ重要な交通路。悩んだ輝元が、次に候補としたのが防府の桑山でした。ところが輝元は悩み続けます。11月、重臣への手紙に「桑山は、所柄(場所柄)は一段と良いが、砂山なので石垣を築くのが難しい」と防御への不安や、「あれこれと思いわずらい、頭のおできを掻(か)きつぶしたような心境だ」といら立ちをあらわにしています(※4)

そんな輝元が最後に候補としたのが萩でした。慶長9(1604)年1月、輝元が江戸へ派遣した重臣と幕府の老中が話した記録(※5)によれば、幕府老中から「居城の地を選ぶには、切所(せっしょ。防御に適した要害の地)を念頭に考えるよう」言われ、「桑山は切所ではないと聞いている」とも言われています。輝元の重臣が指月山について話すと「所柄はいい」と幕府老中も同意しています。

確かに、萩の指月山であれば、阿武川の三角州の河口にあり、海に面し、防御にも適した要害の地。萩の指月山は、俗説と異なり、毛利氏自らが考えに考えて選んだ、所柄の良い地だったのです。

指月山には、津和野の戦国武将・吉見氏の“指月城”があった…

その指月山は、実は津和野(島根県)を本拠とした有力な武将・吉見正頼(よしみ まさより。ただより)(※6)が隠居し、居館を築いていた地でした。正頼は、毛利氏が中国地方の雄となっていく過程で非常に大きな役割を果たした武将(※7)。文化人でもあり、自作した琵琶が萩博物館に所蔵されています。琵琶の内部には、正頼の署名とともに「指月城下に於いて作す也」と記され、正頼が居館を指月城と呼び、風流なときを過ごした様子が浮かんできます。しかし正頼の死後、その地を輝元の城地とされ、正頼の子・広頼(ひろより)(※8)はわずかな隠居領をもらって、近くの大井へ転じざるを得ませんでした(※9)

輝元が未完成の萩城(指月城)に入ったのは慶長9(1604)年11月のこと。それから長い時を経て明治3(1870)年11月、毛利氏は明治政府に“もはや封建制度の時代の城郭は不要”として萩城の破却を申請します(※10)。幕末維新のリーダーを務めた毛利氏だからこその、他藩に先駆けての決断でした。

毛利氏が自ら選び、自ら打ち壊した萩城。その城跡は今、世界遺産「明治日本の産業革命遺産(※11)」の構成資産の一つとなり、歴史のうねりに思いをはせる人々を静かに迎えてくれます。

萩城天守写真(萩博物館蔵)。天守(天守閣)は明治7(1874)年に解体され、現在は高さ10.8メートルの天守台が残る

城跡は世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産「萩城下町」に含まれる

萩城二の丸南門跡付近。二の丸大手の正面にあった南門は、枡形の外門と城内最大の矢倉門(内門)とで構成されていた。この北に萩城の内堀が今も残る。南側にあった中堀は現存しない。内堀の北が本丸。内堀から南門までが二の丸 

萩城跡の東側、海に面した狭間(さま)。昭和40(1965)年に復元。狭間とは、城壁などに設けた矢や鉄砲を発射するための小窓。この内側、城内に「東園跡」がある。東園は6代藩主が本丸の北東に、御茶屋を中心に造った池泉回遊式庭園。御茶屋は現存しないが、池はほぼ往時のまま残る

吉見正頼銘琵琶(萩博物館蔵)。内部には「天正八年庚辰 七月十九日 長門萩之浦 於指月城下作也 吉見 正頼(花押)」と記されている

菊ヶ浜。向こうに見えるのが指月山。その麓に萩城があった。そこは三角州の河口に位置し、海に面し、防御にも適した要害の地だった

*1 現在の県庁の西、鴻ノ峰(こうのみね)。高嶺城は毛利氏が戦国時代、大内氏を滅ぼした後、防長支配の要とした城。おもしろ山口学「大内輝弘『大内氏再興』の夢」第1回第2回参照。 本文※1へ戻る

*2 現在の防府市役所の南東に位置する山。瀬戸内海や山陽道から近い。 本文※2へ戻る

*3 毛利元就(もとなり)の孫。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)死去の際、秀吉から遺児・秀頼(ひでより)の補佐を委託された。なお、初代萩藩主は、輝元の長男・秀就(ひでなり)。 本文※3へ戻る

*4 「国司隼人宛毛利輝元書状」。 本文※4へ戻る

*5 「福原広俊・国司元蔵連署覚書」。本文※5へ戻る

*6 吉見正頼の夫人は、大内義隆の姉。なお、大内義隆は、陶氏らによるクーデターで自刃。陶氏らによって豊後の大友晴英(おおとも はるふさ)が新たな大内氏当主として迎えられ、大内義長と改名。おもしろ山口学「大内義隆の栄華と悲劇」第2回参照。 本文※6へ戻る

*7 大内義隆の自刃後、吉見正頼は大内義長・陶氏と交戦。それをきっかけに毛利氏は陶氏と断交し、厳島合戦で陶氏に勝利。その後、毛利氏によって大内氏は滅びた。 本文※7へ戻る

*8 吉見広頼の正室は、毛利隆元の娘。本文※8へ戻る

*9 吉見広頼の次男・広長が元和4(1618)年、輝元によって誅伐(ちゅうばつ)されたことで吉見氏男子の家系は絶えた。輝元は広長の妹に吉川(きっかわ)家の男子を迎えて吉見氏を継がせ、後に毛利氏を称させた(大野毛利家)。 本文※9へ戻る

*10 「山口藩知事指月城取除ニ付伺書」。なお、天守(天守閣)は明治7(1874)年に解体された。 本文※10へ戻る

*11 九州・山口を中心に8県11市の23の資産で構成。萩エリアには五つの資産があり、そのうちの一つ「萩城下町」に城跡が含まれている。 本文※11へ戻る


2020年春、常設展を大幅にリニューアル。歴史展示室は、世界遺産構成遺産「萩城下町」の価値を伝える展示内容に。「萩」の地名が書かれた現存最古の文書「大内義隆寄進状」(1550年、複製)や、内部に萩指月城と書かれた吉見正頼の琵琶(複製)、天守閣の瓦などを展示。なお、新型ウイルス感染症対策のため、企画展「はぎ博夏展コレクション」(企画展示室)が始まる7月11日(土曜日)以降、常設展・企画展への入場は事前予約制となります。

参考文献

島根県立石見美術館『企画展 石見の戦国武将-戦乱と交易の中世-』2017

中司健一・角野広海編『特別展 益田氏VS吉見氏』2019

萩市史編纂委員会『萩市史第1巻』1983

萩博物館 常設展
ミュージアム・タウン・ヤマグチ実行委員会『明治150年記念特別展 激動の幕末長州藩主 毛利敬親』2018

山口県教育委員会『歴史の道調査報告書4 山代街道』2002

山口県『山口県史 通史編 中世』2012 など


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