防長歴史探訪1、人材育成に藩校創設 敬業館及集童場跡 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

人材育成に藩校創設1
敬業館及集童場跡(下関市)

山口県立豊浦高等学校前、国道九号線松原バス停留所から、山手城下町の方向に入って裏侍町の通りを壇具川に向かって進むと、ちょうど中ほどの右側道端に高さ約一メートルほどの石碑が立っており、「敬業館及集童場跡碑」と刻まれている。

ここは長府藩の藩校「敬業館」の発祥の地であり、一時は「集童場」も置かれていた場所でもあった。このあたり、裏侍町という呼び名のとおり、目抜き通りといったわけではなくまさにひっそりとしたたたずまいであるが、長府藩教育のうえではまことに大切な場所である。

毛利氏は、慶長五年(一六〇〇)の防長二州減封以来、厳しい状況下において藩体制の整備充実をはかる中で、代々その治政の方針に、財政立て直しと人材育成の二つの大きい目標を掲げた。

財政立て直しは、萩本藩第七代藩主重就の「撫育方」設立に代表され、人材育成は、同藩第五代藩主吉元の藩校「明倫館」の創設に代表されるが、政治の基本を教育に求める風は、本藩だけでなく、各支藩及び一門八家においても同様であった。

.吉元による明倫館の創設は享保四年(一七一九)正月のことであるが、これより先、寛永五年(一六二八)には、一門の右田毛利氏において時観園が創設されており、以後、徳山藩の鳴鳳館、清末滞の育英館、長府藩の敬業館、阿川毛利氏の時習館、厚狭毛利氏の朝陽館、吉敷毛利氏の憲章館、大野毛利氏の弘道館、岩国吉川氏の養老館などが次々に創設されていった。

「日本教育資料」によれば、郷学(郷校)全国一〇八校のうち一九校が山口県にあって全国第一位を占め、私塾が全国一、一四〇のうち一〇五と岡山・長野・東京に次いで第四位、庶民の教育機関である寺子屋も全国一万五千五四六か所のうち一、三〇七か所と長野県に次いで第二位を占めていた。こうした数字からも、長州藩がいかに教学を重視した気風を持っていたかがしのばれよう。

さて、長府藩の藩校「敬業館」が創設されたのは第十代藩主国芳の代で、寛政四年(一七九二)五月十四日のことであったが、匡芳はその年六月に没したため、これを継いだ第十一代藩主元義によってその充実がはかられた。

当時社会は、幕藩体制の諸矛盾が激化し、武士階級の困窮の中で極度の勤倹生活を強制するかたわら、新田の開発や産業の発達をうながすなど、藩の建て直しに懸命であった。

そのためには、従来の門閥格式を越えて資質に恵まれた人材の登用が必要となり、各藩競って学校を経営し、藩士の能力開発につとめる気運を迎えたのである。

そうした社会背景の中で敬業館は誕生したのであるが、その創設に当たって出された布令によれば、文武の業を振興することは年来尽力されてきたが、このたび特に文武振興の目的で敬業館が設けられたとし、まず十五歳を一つの基準に定め、特に文武両道に精励するよう強く命じている。

(防長歴史探訪1)


人材育成に藩校創設2
敬業館及集童場跡(下関市)

即ち、府内(長府城下)居住の藩士の子弟は幼年から敬業館に入学し、十五歳までには規定どおり四書五経の素読をすませること。二十歳以下の者で敬業館以外で素読を終えた者は、さっそく敬業館に出頭して学頭・会頭の試験を受け、ひき続いて敬業館で学問に励むこと。などである。

また、武芸についても、弓馬剣槍その他の修業については修業に堪える年頃から努めて学ぶようにして、たとえ脆弱な体であっても十五、六歳になった者は、明和四年(一七六七)の布告どおり、是非とも武芸を修め免許を得るようにすること。しかし事情があって多芸をきわめることが困難な者は、一流だけでも免許を得るようにすること。

もちろん免許を得たからといってその武芸が完成したのではないから、続けて修業を積むこと。さらには、公務の余暇には壮年の者はもちろん年老いても元気な者は、怠りなく出席して未熟者を督励すること。などきめ細やかな方針を示している。

敬業館の設立については、小田享叔(済川) が尽力し学頭となるが、他に結城確所、臼杵鹿垣らが教授に当たった。この儒臣たちはいずれも古学派に属していたが、元義の代に儒学振興に力を入れ、新しく安芸国の儒者吉村重介を招聘し、朱子学をもって長府藩公認の学派とした。

そして天保二年(一八三一)八月には 講堂北側に新しく聖廟を設け、釈迦儀(孔子を祭る儀式)をとりおこない、享叔の養嗣子小田順蔵(南陵)がこれを管掌した。当時の教授陣として田島竹舌、結城香、臼杵横坡、結城主計らの名がみられる。

こうして長府藩の文教制度は充実発展して行くが、文武兼修に対する藩の姿勢は、「学を解せずまた武芸の一科をも成し得ざるものは嫡子は廃嫡、二三男は他家の養子と為ることを得ず」という厳しいものであった。

その後、尊攘運動激化の時勢を迎え、関門海峡に攘夷の戦いがくりひろげられるや、元治元年(一八六四)二月、長府藩主毛利元周は再度の外国船襲来に備えて急遽勝山の地に居館を移したため、敬業館がその旧居館地(現、県立豊浦高等学校)に移転。この時、敬業館の文学場を講文堂、武術場を練武場と改称している。

この敬業館移転に伴い、元治元年三月に士庶の別なく人材を育成する目的で開設されていた「集童場」が、翌慶応元年(一八六五)の春、藩の許可を得て、この敬業館跡地に移って来た。

そして慶応二年(一八六六)に至って敬業館が再び裏侍町の旧地に復歸することになり、この際、集童場を併合する。このことは、藩の正式な教育機関が、庶民の子弟をも含む教育の場として拡大発展したことを意味するのである。

以後、大政奉還、明治改元と時代は大きく変革し、明治二年(一八六九)に長府藩も豊浦藩と改称、さらに明治四年(一八七一)の廃藩置県によって豊浦県から山口県へと藩機構が解体していく中で、明治五年(一八七二)二月三日、旧藩校敬業館も小学と改められ、ここに約八〇年にわたる敬業館の歴史が幕を閉じ、その教学の伝統は今日の市立豊浦小学校や県立豊浦高等学校へと受け継がれている。

街角に立つ、ほんのささやかな石碑に過ぎないが、これもまた、城下町に刻まれた重要な歴史の一つではないだろうか。

(防長歴史探訪1)

(彦島のけしきより)



敬業館及び集童場跡 下関市長府侍町2丁目3-26


集童場跡 下関市長府南之町7−18