下関市の昭和より、年を重ねる、、、その9 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

空から見た小串

写真左端に山陰本線と並行して走る国道191号が見える。小串という名はかつて当地が小牛の産地であり「小牛」が転化して「小串」となったといわれている。く豊浦町小串.昭和 50年頃.提供=中野嘉枝氏〉

(下関市の昭和より)


小月バイパス建設開始

王喜開作や松屋集落を分断し、道路建設が始まった。写真は標高60メートルの山頂にあった松屋寺山古墳からの眺めで、沖に移転した住宅、遠くに宇津井地区や小月の山々が見渡せた。麓の右手に赤屋根の松屋八幡宮、対時する黒屋根の常元寺、松屋本町の集落が写る。建設が始まると古墳が発見され、発掘調査後撤去された。大きな古墳の伝承は何も残っていない。現在は国道2号が走る。〈松屋本町·昭和58年頃·提供=原田宏氏〉

(下関市の昭和より)


滝部小学校校舎

明治8年、開誘小学校として創立された。写真の校舎は大正13年に建設されたもので、設計はドイツ技師が、施工は宮大工の手によるものである。木造2階建て寄せ棟造りの本館に切妻の平屋建ての校舎が取り付けられ、昭和54年に県の有形文化財に指定された。現在は歴史民俗資料館として使用され、今もその威容を伝えている。〈豊北町滝部·昭和 50年·提供= 伊井賢太氏〉

(下関市の昭和より)


唐戸市場周辺のようす

下関グランドホテル付近から東を見ている。中央手前の建物は関門ビル。左下に旧下関英国領事館が見え、その隣ではカラトビアが建設中でる。〈唐戸町·昭和60年·提供=下関市)

(下関市の昭和より)


山陽急行バス

観光バス及び山口、宇部方面の都市間路線をメインにしていた。そのために全バスが空気ばねバスで、冷房も比較的早く導入された。塗装色は国鉄特急色を参考にしたと言われている。彦島口付近に本社と車庫があった。写真は路線便廃止間近の頃。〈大和町·昭和63年·提供=大場伸道氏>

(下関市の昭和より)


SLを見送る

山陰本線を蒸気機関車が煙を上げて進む。〈豊北町滝部·昭和49年頃·提供= 伊井賢太氏〉

(下関市の昭和より)


長門一ノ宮駅

山陽鉄道の駅として明治34年に開業した。当時は住吉神社の近くに設置され名称は一ノ宮駅であった。大正5年に長門一ノ宮駅に改称、昭和3年に現在地へと移転。同50年に山陽新幹線の乗り入れに伴い、新下関駅と改称している。〈秋根南町·昭和50年·提供=長谷川かおり氏>

(下関市の昭和より)


車両交換

最終営業日の幡生線,金比羅電停。幡生線は長州鉄道からの引き継ぎ区間。幡生線で唯一交換設備があった。〈大坪本町,昭和46年,提供 =大場伸道氏〉

(下関市の昭和より)


さようなら装飾を施した704号① 

長関線·大和線最終営業日の下関駅電停にさようなら電車が停車中。全路線が乗り入れる下関駅は最も乗降客数が多い。国鉄下関駅にもほど近く、商業施設も多く、中心駅であった。〈竹崎町·昭和44年·提供=戸村誠一郎氏〉

(下関市の昭和より)


さようなら装飾を施した704号②

鳥居前電停で。鳥居前には長府商店街、忌宮神社、長府高校、神戸製鋼があり、主要電停のひとつであった。折り返し設備や長関線用の車庫もあった。〈長府,昭和44年.提供 = 戸村誠一郎氏〉

(下関市の昭和より)


夕暮れのメインストリートを走る

入江口電停を出発して下関駅方面へ向かう800型。
既にワンマン化されている。この通りには当時、銀行の支店や証券会社、保険会社などが軒をならべ
ていた。現在は撤退や支店の統廃合などで数を減らしてしまっている。〈豊前田町·昭和45年·提供=大場伸道氏>

(下関市の昭和より)


長府を出発し下関へ向かう703号

この車両は昭和33年に設計された全鋼製の軽量車である。ノーシルノーヘッダーの丸い前頭部が特徴的であった。(長府公小田本町·昭和 34年·提供= NPO法人名古屋レール·アーカイブス〉

(下関市の昭和より)


山陽電気軌道

大正15年の開業。市街を走る電車として終戦後も路線を拡張し、長く市民の足として活躍した。写真は細江町を行く四輸単車の109号。開業時の車両は木造が主流であったが路線延長に伴い、半测製車体が導入され、当車もそのひとつであった。(細江町,昭和34年,提供= NPO法人名古屋レール,アーカイブス)

(下関市の昭和より)

(彦島のけしきより)