妙青寺、下関市豊浦町川棚 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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妙青寺の山門


雪舟の庭、少し街歩きをすると山頭火の俳句の碑を見つけることが出来る



もう一度見直そうもったない下関観光シリーズ㉑ 「話を聞けば感慨深い、妙青寺  みょうせいじ」


大体の説明であれば、「妙青寺」(みょうせいじ)は室町時代に長門国守護・大内持盛により開かれた寺院。本堂の裏に残る心字池庭園はかの水墨画家・雪舟による作庭と伝わります。


てな感じで「綺麗に説明」で終わります。


ところが・・・。下記のような説明を聞くとどうでしょうか?


創建は1416年(応永23年)または1431年(永享3年)。長門国守護・大内持盛が先代の大内盛見の菩提寺『国清寺』として建立。


その後大内氏は毛利氏に滅ぼされ、大内義隆の部下・杉連緒(すぎつらつぐ)が義隆の菩提を弔うために修理、そして『瑞雲寺』という寺名に。(部下が大将をともらう感じ)


そして、江戸時代に初代の長府藩主・毛利秀元が実姉の妙青大姉をこの地で埋葬した際に伽藍を再度修理、その際に現在の寺名になったそう。(伽藍とは僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味であり、後には寺院または寺院の主要建物群を意味するようになった)(今度は大内を滅ぼした毛利が重要建造物として修理)


以後、藩主・毛利家に庇護され、三代目藩主・毛利綱元が温泉(御殿湯)に訪れた際に山門や鐘楼を再建した。そして代々毛利家の庇護のもと建物を維持。


名を残すお寺には、色んな関係性があり、それを知る事で、その時代になにがあったかを教えてくれるところにロマン爆発ですよね。おまけに雪舟が作る庭まであるといたならば。(またお弟子さんかもしれませんが)


この川棚近隣には『細川家之墓』もあるんですが・・。長府藩家臣なんですが、細川元通氏の奥さまは穂井田元清氏の娘なんです。秀元と義兄弟になります。ていう事はこのお墓には・・・。


ちなみに穂井田家は安芸国の戦国大名である毛利元就の四男。で側室の子として生まれましたが、これがまた優秀で、秀吉から毛利輝元に子供がいなかったときに「息子にしとけ」って言われた方。


しかし輝元は、自分に子供が生まれたら、元清と息子がもめぬようにしたいと申しで、毛利家の名を継いで、清末藩の藩主となるんです。


ね!もっと注目しても良い場所なんだと感じます。