ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会、近松門左衛門の誕生地研究 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)



門左衛門の誕生


広品は早熟でませていた「才気煥発の若様」であったと書いたものがある。この広品が13~14歳のとき、奥女中に情を通じ、妊娠した女中は屋敷にいられなくなり、でていって平馬(近松)を生んだわけである。これが長門出生説の骨子である。


この女中は、どこの何者の娘であるかはわからないが、昭和8年に発刊された「郷土物語」の著者である故吉村藤舟によると、「清末藩士某の娘」とあるが、確かなことは不明である。


近松が承応2年の何月生まれかは不明だが、その妊娠を承応元年とすれば、父である下総守元周が御職役という最高の重役になったときである。女中は御職役の次男の胤を宿し、実家に帰ることもできず、毎日悩み続けたことであろう。


近くの内日村植田は椙杜家の給領地であるが、そこで出産したらすぐ椙杜家に知れて捕えられるので内日出生説は考えられないわけである。そのころ、西の高野山として有名で長府藩の保護寺とされ、信仰の厚かった華山の神上寺に救いを求めるのは自然の道である。神上寺の門前に「近松屋敷」という誕生伝説地があるのも当然といえるだろう。


この神上寺は女人禁制であって、女性は寺に入ることができないことになっている。今の時代とはたいへんな違いである。女中は、華山の山門前の寺侍である木川家に頼みこんだ。木川家では、神上寺の導びきで山門前の自分の土地に小さな家を建ててやり、そこに住まわせて出産させた、というのが筋書きである。


ここで、もう少しほりさげて考えてみよう。なんといっても妊娠させたのは、長府藩の筆頭家老の家で、大きな権力と支配力を持っている。木川家も武士で、寺侍といえば華山の寺のこと、領地の支配などを主な役目とする人物だから、御家老の内々の指図により「万事頼む」というぐらいのことは通じていたと思われる。


また、寺も長府藩の保護寺であり、藩から寺領を与えられている寺なので、木川家を通してもその関係は承知していたものと考えられる。一般の目からも、神上寺の門前で寺の領地内であること、また、木川家の保護を受けていることなどで、とやかくいわれることもなく、安心して出産ができる場所と考えることが自然ではなかろうか。


こうして生まれたのが平馬である。前に述べたが、木川家では、代々兵を名前に用いておられる。そこで、、。「下馬」の馬をそれぞれとって「平馬」と、木川家の当主が名前をつけたのではあるまいか、とは故人藤井先生も述べておられる面白い考えである。この「下馬」の禁札は今も山門前の石段の右側に立っている。ここでは、殿様でも馬からおりなければならなかった。


木川家に伝わった近松誕生の話をおさらいしてみよう。近松門左衛門は享保9年(1724年)11月21日72歳(一説に74歳)に大阪で死んでいるので、逆算すれば承応2年(1653年)の生まれとなる。木川家の先祖兵右衛門は、享保11年に亡くなっているので、だいたい同じころの人と考えられる。


それで、兵右衛門の父か祖父が門左衛門の出生の世話をしたことになる。兵右衛門は、自分の家の前で門左衛門が生まれたことなどは、聞いて確実に知っていたことだろう。故藤井善門氏に話して聞かせたという仁太郎翁の父幾平は、子供のころ祖父の平助からこの話を聞いていたであろうし、久右衛門は平助の曽祖父なのでこのいい伝えはあまり遠くない話である。


この近松誕生の話は、嘉永元年(1848年)生まれの木川仁太郎さんから、故藤井善門氏が昭和6年(当時仁太郎さんは84歳)に直接聞かれた。その時仁太郎さんが話されたことは前に述べた。故藤井善門先生も右の仁太郎さんから話しを聞かれたのが、30歳ごろといわれる。


この研究をおおやけにされたのが、昭和41年ごろなので、かれこれ35年くらいたってのことである。その研究論文は「近松門左衛門誕生地説の究明と近松屋敷の研究」と題する、400字詰め原稿用紙34枚にわたる長文のものである。その詳細はとても本欄で書くわけにはいかないが主な項目をあげてみると、


第一 近松の総論。

第二 木川家の伝承近松屋敷。

第三 椙杜家はどういう家か。

第四 長門出生説。

第五 京都に上ってから。


以上のような貴重な深い研究である。


(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)



河竹繁俊博士


そして、その長文の論文は、昭和39年に近松の研究の第一人者である早稲田大学名誉教授河竹繁俊博士に提示された。


余談になるが、河竹博士は演劇部門での最高の人だったのでふれておく。明治44年に早稲田大学英文科を卒業後、在学中に坪内逍遙博士の主宰で開設された文芸協会付属演劇研究所に入られ、協会第1回公演「ハムレット」に出演…。その年逍遙博士の斡旋で、歌舞伎作者の河竹黙阿弥家の養嗣子となり、大正3年「河竹黙阿弥」を出版された。


昭和3年には、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の設立に全力をつくされ、開館後副館長兼主事という重要なポストにつかれ、のちに館長となられている。以後、「坪内逍遙」、 「歌舞伎史の研究」を刊行され、早稲田大学文学部に芸術科が設置されると、演劇専攻主任になられた。


また、昭和34年に「日本演劇全史」を著し学士院賞を受賞されている。「演劇百科大辞典」全六巻も完成し、著書としてこのほか「日本演劇文化史話」、 「逍遙、抱月、須麿子の悲劇」、「黙阿弥の手紙、日記など」、「人間坪内逍遙」などがあり、その他各種の冊子などによる研究発表は、数えきれないほどである。芸術院会員にも推され、文化功労者となられている。


昭和35年に早稲田大学教授、同博物館長を退職、名誉教授となられ、昭和42年79歳で逝去された。23歳の時帝劇で文芸協会1回公演「ハムレット」にボルチモンド役で出演し、島村抱月訳松井須磨子主演の「人形の家」にも演出助手をつとめるなど、わが国の演劇、芸能方面のあらゆる重要企画に参与された業績は、とても書きあげきれない。繁俊博士の養祖父河竹黙阿弥は、明治9年の歳で逝去されている。


近松門左衛門は徳川文芸の興隆期における最初で最大の集大成者であったが、黙阿弥はその退廃期における最後で最大の集約者であった。「功妙に先人のあらゆる長所を自家薬籠中のものとした江戸演劇の集大成」といわれ、「後代を開く橋渡し役をも兼ねた作家」でもある。


この作者の10年間の作数は、360種に達し、時代物・新時代物・お家物など、これらは「黙阿弥全集」7巻におさめられている膨大なものである。江戸・明治の河竹黙阿弥、明治・昭和の大文学者坪内逍遙、大正・昭和の演劇研究者繁俊博士―こうした一連のつながりは、じつに大きなものである。


(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)



むすび


1年にわたって掲載してきた近松の話も、ここらで締めくくることにする。近松門左衛門と木川家の先祖兵右衛門は、だいたい同じころの人と考えられる。だから、兵右衛門の父か祖父が門左衛門の出生の世話をしたことになる。


兵右衛門の子久右衛門は、自分の家の前で門左衛門が生まれたことなどは、聞いて確実に知っていただろうと思われる。故藤井善門氏に話して聞かせた仁太郎翁の父幾平は、子供のころ祖父の平助からこの話を聞いていたであろうし、久右衛門は平助の曽祖父だから、このいい伝えはあまり遠くない話である。


なお、文化・文政のころ、浪華の野見梅園が、近松翁は長門地方の生まれであることをつき止めて発表し、それまで有力であった京都説が否定されて、長門出生説が学者間の定説になった。しかし、木川家ではこうした学説のことはわからず、ただ先祖からのいい伝えと、その屋敷を大切に保存してこられた事実がなによりである。そこで、故藤井善門氏は、昭和39年8月、近松研究の第一人者である河竹繁俊博士(早稲田大学名誉教授)に以上のことを報告されたのである。


そのころまで、近松出生地説には肥前説・越前・三河・出雲・近江・長門内日・同深川があったが、同博士はいずれも明白でないとして、同博士からすすめられるままに、神上寺前の「近松屋敷」についての研究論文をまとめて送られたのである。博士は巻頭に次の推薦文をそえ、雑誌「芸能」の昭和10年3月号に掲載されたのである。


推薦文 「藤井善門氏の調査による原稿は1つの資料として、識者に推薦します。近松門左衛門の伝記はかなり研究されているが、20歳以前のところはただいまのところ明白ではありません。藤井氏の研究は、その盲点をついた形です。これで全部とかじゅうぶんとかいうわけにはいきませんが、ともかくも1つの資料として尊重する価値があると思います。切に識者の参考に資したいと思います。」(河村繁俊)」


最近、近松の出生は内日である、と発表されたかたもあるが、当町江良の近松門左衛門誕生「近松屋敷」は、以上の権威ある博士の推薦を受けているところで、本町の誇りであり、文化財として大切にしたいものである。


(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)


(彦島のけしきより)