海峡の町有情 下関手さぐり日記、神社、仏閣、お祭り | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。


永福寺観音堂 今に伝わる幽霊祭り

観音崎町、海峡を眼前に見おろす小高い丘に永福寺がある。臨済宗に属するお寺で、寺伝によれば推古天皇の十九年、百済の琳聖太子が入朝の際に家を建て、その念持仏観音の像を安置したのに始まるという。

毎年七月十七日に行われる幽霊祭はおなじみだが、かつてこの寺に、国宝に指定されていた観音堂があったのを知る人は、年ごとに少なくなってきている。大同元年、藤原冬嗣の命を受けて淼の工匠·竹田希統が改築したもので、室町時代最初期に属すると伝えられ、円覚寺舎利殿と同じ唐様建築として明治三十六年、内務省特別保護建造物、つまり後の国宝に指定されたのである。

この観音堂の見事なまでの構造美に、往時の人たちは「馬関雛形の御堂」とまで呼んでいたという。古くから永福寺は九州や大陸への中継地として雲水の修行道場になり、また学僧の足だまりにもなっていたという。これに加えて民間信仰のあつい観音堂があったわけで、大内氏の加護もあって、だんだん盛大におもむいていった。朱子学の先覚者·桂庵禅師が座主として住んでいたことは、下関の文運を表すものとして特筆すべきことである。

その観音堂も昭和二十年七月の大空襲にはひとたまりもなかった。桧皮と木材だけでできていたため、その灰も雨ですっかり洗い流され、わずかに仏具の破片が残っただけだった。

さて、幽霊祭りのほうに話題を移そう。話は、今から百数十年前にさかのぼる。当時の永福寺は、現在地の山裾になる。ちょうど今の山口銀行別館あたりにあった(大正六年移転)。

…近くの海産物問屋の夫婦はどうも仲が悪く争いが絶えなかった。その二人の間に、親孝行な年ごろの娘一人。生まれながらの病弱に加え不仲の両親に気をくぱり、この心の疲れも手伝ってとうとう労咳の身となってしまった。両親の不和は相変わらず。とうとう娘の命も今日明日というところに迫ってきた。

あるむし暑い夏の夜中。カヤの中に寝苦しい体を横たえていた永福寺和尚の枕元にフワーッと海産物問屋の娘の姿。「どうしたんだ、こんな夜中に」「お願いがございます。私の両親の不仲はどうしてもなおりません。今から私はあの世にまいりますが、あとのことはどうか和尚様、よろしく…」涙を浮かべての娘の哀願。

しばらく娘を見ていた和尚、のちの証拠にもと筆墨を枕元にひき寄せ、ろうそくの光を頼りに娘の姿を描いた。ところが、絵を描き終えたその途端、娘の姿はスーッと消えてしまった。と同時にあわただしい足音でかけ込んできた娘の両親 和尚に言うには「ただ今、家の娘が亡くなりました」 和尚は、たった今描いたばかりの絵を両親に見せながら、娘とのやりとりも話した。

さすがの両親もこれには深く悔いたようすで、翌日、娘の供養を立派にすませて以来、それまでとはうって変わった円満な夫婦となり、商売も日に日に繁盛していったという。これが「耳無芳一」「引接寺口説」「つかずの灯ろう」「お亀銀杏」と並ぶ、いわゆる下関五大伝説の一つとされる「幽霊祭」の由来話である。

以来、毎年七月十七日の「十七夜の観音」御開帳の夜に、永福寺ではこの"幽霊の絵“を一般に公開するようになった。参考までに、この幽霊の絵は専門家に言わせると、だいたい今から百数年くらい前のものだという。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



彦島八幡宮 消え失せた森厳の松林

その昔といってもそう遠い昔ではないが、彦島八幡宮はまさに松林の中にあった。クスやシイ、カシの木などもあったが、松の数はざっと三千本。大人四人が両手き広げてやっと手が届くという太いものもあった。

鳥居のすぐ前には海が迫り、今の鳥居前の道路部分は波打ち際となっていた。現在、三井東庄彦島工場のあるあたりはすべて海。ここは埋立てによって誕生した土地なのである。「近年、隣接地に二、三の工場建設せられたるものから、人煙繁く原始的神境の風致を損したりといえども、なお前面に宏闊(こうかつ)たる大瀬戸の海を隔て、昼なお暗い森厳な聖域だった。鎮守の森を隔てて北の方打石の磯浪は白砂青松の西山海水浴場に不断の松風と和し、天然の楽を奏で彦島第一の神域に... (後略) 」と同八幡宮文書に紹介されている。

しかし、その松林はすべて消滅してしまった。「前に製煉所ができたでしょう。あれにすっかりやられてしまった。一つには木も古く寿命だったのかもしれませんが。戦争が激しくなったら、防空壕の材料にするからと、どんどんここの木を供出させられまして。結局、終戦までには完全になくなってしまいましたね」と柴田八十二宮司。

彦島八幡宮の祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。平治元年、彦島十二苗の総祖、河野通次が豊前国宇佐八幡宮を勧請したものといわれ、河野が彦島西山の海中から神鏡をあげたとき「さあ揚がらせ給ふ」と言ったという故事は、今日まで八百年以上にわたって「サイ上リ神事」として毎年十月二十一日に行われ続けてきている。

かつて彦島八幡宮の入口にあった大鳥居は、三井東庄の敷地内の海岸に移された。ざっと四百五十メートルほど先に移転したのである。八幡宮の前が埋立てられ、工場ができたとき、サイ上り神事の都合上、どうしても大鳥居は海岸部にないとおかしいというお宮の訴えが奏功したもので、お宮の前からこの大鳥居までの四百五十メートルはこのため、工場敷地内でありながら八幡宮の表参道でもある。

三井東庄を訪れた人なら、おや?と気づかれるかもしれないが、この中央の通路部(幅約九メートル)上を走る送管が、大きく上方に曲がっている。よく考えると、他に障害物もないし、なぜわざわざここで曲げているのかと不思議に思えるのだが、実はこの湾曲がお宮の参道である何よりの証拠となっているのである。つまり、サイ上り神事の際、みこしがひっかからないように、あえて上に曲げられているのである。

現在ある鳥居は戦後建設されたもので、鳥居付近で昔のおもかげをしぶ ものといったら、両脇の石灯ろうくらいになってしまった。昔は"灘八幡"の別名があって、風の変わらぬうちに…と漁場へ急ぐ漁船などは、船をとめて帆を半分下げてこの前を通ったものだという。これを「半帆の礼」と呼んでいた。

松林のほうも、昨年あたりから、松林を復活させよう、と氏子の間から松を二十本、三十本と寄付する人が出てきたが、往時の森に追っつくにはほど遠い。記者が境内にカメラを向けたとき「こんなストリップ同然のお宮を写されるなんて、恥しい限りですな」柴田宮司は、ポツリ、つぶやくようにそう言った。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)




厳島神社 大太鼓争奪戦

萩毛利忠正公の領土だった"新地浦”の守護神、厳島神社。かつてはその境内も松林で、お宮は大きな松の木に囲まれていたものだった。

しかし、そばを列車が走り、周辺に家が建ち並ぶなどの環境変化に対応し切れなくなったのか、終戦前後に次々に枯死、多い年には年に十本くらい切ったことがある…と有島稔久宮司。「昔は本当にいい森だったんですがね」と残念がる。

この境内に、大正末、太鼓堂が建った。つるされた太鼓は直径1.2m、重さ340kg近くと超特大。いかにも重そうにぶら下がっているが、実はこの大太鼓、海峡を隔て、小倉と長い間"争奪戦"がくり広げられてきたものでもある。

もともとは小倉城主がやぐらにつるし、近郷領土に非常を知らせるために置かれていた。これを慶応二年、下関に陣をかまえていた高杉晋作が総指揮官となって小倉城に進攻、八月一日降伏させ、戦利品として持帰り同神社に奉納した。

しかし、いつの間にやらそんな因縁は忘れられ、大正十三年までは物置きに放り込まれたままだった。物置きでごろごろしているうちに両側の皮は破れ、かなり古びていったが、摂政宮御成婚記念で堂を建て皮を張りかえ、山県伊三郎公(枢密顧問官従二位勲一等公爵)の石碑による由来記まで建てられた。以来、神社側では非常の際にはこれを打ち鳴らすようになった。

昭和二十五年四月の伊崎の大火の際には、有島宮司自らドーツ、ドーン"とすさまじいばかりの音でこの太鼓をたたき、火事を知らせた。付近住民は今でも、この太鼓が鳴れば大事と知る。何しろこの大太鼓、小倉城にあったころは門司大里の里まで響いたというからその音の大きさもうかがい知れようというもの。

もっとも、最近はこの音も昔に比ぺればかなり劣るようだが、しかしそんじょそこらの太鼓ではやはり近づきようもない。大晦日には除夜の鐘ならぬ"除夜太鼓"が、今も毎年くり返されている。

この太鼓を、小倉城が「もともとはうちのもの。返してくれ」と訴え出たことがある。神社側が突っぱねると、今度は「金ですむことなら…要求があるならいくらでも出す。もし必要なら代わりのもっと大きな太鼓もつくりますから」とさらに要求してきた。

これには神社側も頭にきた。馬鹿にするのもいい加減にしろというわけで「この太鼓は高杉を隊長とする奇兵隊が氏神の当神社に奉納したもの。高杉が許可するならお返しいたしましょう」これには、小倉も完全にあきらめた。

ところが昭和四十三年四月、突然小倉に「小倉城太鼓保存会」ができ、あれよあれよという間に小倉城天守閣にデッカイ太鼓がつるされた。小倉珹発行の機関紙いわく…「慶応二年、小倉城が自焼する直前、藩命で運びだし安全な場所に移していた小倉城中大太鼓が百二年ぶりに見つかった」(四十三年六月八日発行)。

それによると、下関の厳島神社の太鼓とばかり思っていたら、正真正銘の大太鼓が別のところから発見されたという。つまり下関のはニセ物というわけ。
伝え聞いた神社側はビックリ仰天。"別の所"という戸畑八幡神社に足を運び聞いたところ、同神社の宮司は「うちにあったというが、私は太鼓など見たこともない」と言っていたという。

「小倉の郷土史家の一部の人たちも、このやり方には憤慨しておられた。いくら何でもデッチあげがひど過ぎる。まく今のところは無視してますけどね」と有島宮司。

今年は下関の郷土史家らにも相談し、八月一日をメドに大々的に太鼓祭りを催したいと同神社は張切っている。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



桜山神社 黒橋渡って草競馬

明治二十二年の「赤間関市街旅客案内図」を開くと、桜山神社(上新地町)と鉄道を隔てた向い側に「草競馬」の文字が見える。昨年マツノ書店(徳山市)から復刻発行された大正八年四月作成の市街地図ではこの部分はさらに明瞭となり「桜山競馬場」とハッキリ記され、おまけに向いの招魂社ともども桜名所の記号まで付されている。

この招魂社が現在の桜山神社である。桜山招魂社は高杉晋作の発案で、奇兵隊士お互い国に尽す決心をしたうえは、それぞれ戦場で倒れるのは当然である、ならば今まで戦死した者はもちろん、今生きている者でも墓をつくっておこうと元治元年初めに完成した。

土地を切り開いての作業だったが、付近の人も金品をおくったり、桜を植えるなど勤労奉仕をしたという。桜山神社の祭神は吉田松陰、高杉晋作ほか三百六十七柱である。この神社の春祭りは毎年四月十六日。桜山の招魂祭といって、かつては大変な賑わいだった。

もちろん、鉄道を隔てた向いにある競馬場、愛称「桜の馬場」も大変な騒ぎだった。昔は、祭り当日は学校も休みで、今でいうチビッ子剣道大会も開かれたりしていた。とにかく、祭りには全校生徒が参加するのである。いくら松陰先生や奇兵隊長の高杉が祀られているといっても、信心うすき子どもたちには、参拝は二の次。六十歳前後の人たちに思い出話を聞いても、印象に残っているのは桜の馬場の草競馬である。

胴が太く足の短い馬がデコボコ道,を暴れまわって走る。遅咲きの桜見物をかねての競馬狂いが、柵のまわりを二重にも三重にも囲んで大歓声。どうかすると、スタート前の馬に酒をふるまったりすることもあり、そんなときには酔っぱらった馬が観衆の中に飛び込んだりしたともいう。馬場の余興のようなもので、そこでまたワーッ、ワーッとにぎやかな声。

行儀よく列をつくって参拝に向う学校の子どもたちも「何事か」と立止まってこれを見ようとするが、ただちに先生の「こらっ、前へ進め」の声。思いを残しながら渡ったのが写真に見える"黒橋"だった。
下を通っているのが山陽線。黒橋という名も、汽車の煙でいつの間にか真っ黒になってしまったことからついたものらしい。かつては鉄道飛び込みで、自殺の名所となった橋でもある。

この橋を渡って前方の石段を登りきる。そこに桜山招魂社、つまり桜山神社があった。参拝が終わり、社の後にまわって松陰以下三百六十余の神霊を改めておがむと、あとはとぶように石段をおり、目ざすは桜の馬場…。この競馬場が、ちょうど今の河野学園·下関女子短大あたりになる。

戦後、この一部を市が買上げて戦災復興の一つに市営住宅を建てたりして競馬場は姿を消し、その後、昭和二十三年河野学園がここに移転、新築されて施設を整備しながら今日に至っているのである。もちろん、黒橋も今は姿を消してしまった。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)




数方庭 しなる大竹の群舞

先端に幟のついた二十メートルはあろうかという大竹が倒れかかった勢いでぐーんとしなったそのとき、そのあまりの"湾曲率"に、境内をいっぱいに埋めつくした見物客の間から、思わず「オーッ」「キャーッ」と、どよめきが広がってゆく。しなる竹で顔をピシッと打たれはしないかという錯覚、スリル感も手伝って、長府忌宮神社の数方庭行事見物客は、年々増える一方である。

数方庭は一般には「すほうてい」と呼んでいるが、かつては「すっぽーてい」「すっぽうでん」とも呼ばれていた。その起源は古く、社伝によれば仲哀天皇の御代にまでさかのぼっていかねばならない。

「仲哀天皇の七年陰暦七月七日、新羅の凶酋塵輪(じんりん)が豊浦の浜に上陸、豊浦の宮(現·忌宮神社)に攻め寄せてきた。皇軍の力及ばす、皇室の危機は刻一刻と迫ってきたが、将卒は次々と賊刃に倒れるばかり。天皇大いに怒られ、自ら弓をとり、襲い来る塵輪を見事射とった。賊軍はこれを見てさすがに色を失いまたたく間に四散、皇軍は矛を立て、刀を振りかざして狂喜乱舞、ときの声をあげて塵輪の死体の周りを踊り狂った」

この仲哀天皇の矢に倒れた塵輪は土中に埋められ、大石で覆われたが、この大石は今、鬼石と呼ばれている。塵輪の顔がまるで鬼を彷彿させるようだったから、という。その後も神功皇后が三韓征伐に出かけるとき、凱旋してきたときにも、この鬼石を回っては質朴勇壮な舞伎を行い、出征、勝利を祝した。
これが数方庭のおおまかな起源だが、以来毎年この日(八月七日)になると、戦勝を記念するために鬼石を囲んで勇壮なる舞伎をまる一週間、毎夜八時から十時までくり返してきたのである。

最初は矛や刀を振りかざしていたが、世の中が太平になれ、殺伐き嫌う風潮が強くなってきた徳川時代、ときの長府毛利藩主綱元は矛や刀を禁じ、これに代わるものとして幟を使うよう命じた。このとき女、子どももそれまで使っていた油筒をやめ、七夕紙をつけた笹に灯ろうを吊した切籠(きりこ)を使うようになり、優美さを増した。もともと油筒は神功皇后が三韓征伐の後、浦の女童が油筒に火をともして浜辺に迎えたのが起こりだ
と伝承されている。

こうして現在行われている数方庭の幟と切籠が登場し始めたのだが、このとき横笛や太鼓、鉦もプラスされ、祭りとしての色彩がより強く打出されてきた。男が幟のついた大竹を持ち、楽器にあわせてのかけ声も勇ましく鬼石を回っていく勇壮さは、まさに奇祭と呼だふさわしく、昭和四十五年三月、下関市の無形文化財にも指定されたのである。

力強さと優しさと

「旗ささげわれも踊らん若からば神の御庭に昔偲びて」近藤芳樹

「昔に比べたら見物客が随分と多くなりましたね。初日と中日の十日、それに最終日の十三日はもう境内がいっぱいですよ。PR時代で宣伝するようになったせいもあるんでしょうがね」磯部稜威雄宮司の言葉である。神事というよりは、もうりっぱな観光行事である。

「人出だけではありません。竹をかつぐ人も年々増えとりまして、昨年は大竹を四十本近くも用意したほどですよ。竹でこれまで一番長かったのは、確か 七十五メートルのを数年前に使ったことがありました」

その竹も、竹林が近くにはなくなってしまい、最近は内日や川棚方面からとり寄せる。それにしても、二十メートル以上の長さはあるという太長の竹を一人の男が腰に乗せ右手ひとつで支えて中心をとりながらぐるぐる回っていく技巧は相当な熟練を要するもので、尋常ではできるものではない。それだけに、かつぎ手のなかに子どもの姿が多くなっているのは、お宮にとっては頼もしい限りなのである。

そんな数方庭も、どうも見送られた年があるらしい。いつ、いかなる事情によるものか、まったくわからないが、ある書に口碑として次のように紹介されている。「ある年、数方庭を営まなかったら、干珠・満珠二島が実におびただしい音響を出して海波山岳に振動した。以来、人々は恐れおののき例年のように怠りなくこの祭りを継続した」

数方庭祭で使用する楽器は横笛、太鼓、鉦であると由来碑には紹介されているが、残念ながら横笛のほう二十年くらい前から奏者がなく中断したまま。宮司が上段でときおり吹くのがやっとだというが、数方庭のリズムは、ジャズトランペッターの日野皓正氏が「ぜひジャズにアレンジしてみたい」と食指を動かしたほどのものであるだけに、笛は何としてでも復活させてほしいものである。

神事とはいっても、さながら祭りを見るような勇壮で原始的な気分だ。またこれとは対照的に、女、子どもの持つ切籠の回り持ちの絵巻物のような典雅さ…  時代の変遷の中で、部分的には形を変えてきてはいるものの、その剛と軟、動と静、力強さと優しさのコントラストの妙は、今も十分にその味を伝え、長府の夏の夜空によみがえり、響きわたっているのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



五穀祭 歌い踊った三日間

はっちゃはま
えらいやっちゃ
はっちゃはま
えらいやっちゃ

下関の街は、五穀祭の行列でわきあがっている。町民たちは、男も女も仮装して、まるで夜と昼とをとりちがえたような浮かれぶりである。大通りには幕が張られ、花飾りができ、三味と太鼓が響き花車がねり歩く。振袖を着て白粉をつけた男が三味線をひく。黒紋付に自縞のはかまをはいた女が編笠姿で尺八 吹く。街角の鏡をぬかれた酒樽のそばに、人がつぶれている。

高杉晋作、伊藤博文らを中心に維新をとりあげた林房雄の「青年」に、五穀祭のもようはこう表現されている。夜と昼をとりちがえたような…それはもう町中がひつくり返るほどの賑わいだったという。

後深草天皇のとき、新稲を神前に供え、新穀の豊穣を祝ったのがはじめといわれている。昔は八朔祭として八月一日に行われていたものだが、明治末ごろから五穀祭として五月に移され、一日から三日亀山八幡を起点に、下関の街は各町内からくり出されるシャギリ、演物、仮装などで祭り一色に塗りつぶされたという。

この五穀祭は八丁浜祭とも呼ばれている。社伝によると、もともと島だった今の社の地と丘側を埋めたその土地の広さを八丁浜といっていたらしく、この埋立て工事の完成をたたえ港の繁栄を祝す祭りばやしに「八丁浜えらいやっちゃ」が登場、そんなところから八丁浜祭の名がついたらしい。

とにかくこの三日間は年に一度のどんちゃん騒ぎ。郷土史家·佐藤治さんの話では、夜ともなると山陽の浜は、好み好みの仮装でシャモジをたたき、三味、太鼓も加わって「ぼんちかわいや寝んねしな」「もーしもーしも車屋さん」などと歌い狂い踊る団体の列が絶え間なく進み、見物人の群れはいっぱいにあふれ、浜は身動きがとれないほどだったという。

なかには良家の娘さんが、日ごろ覚えた三味などの芸事を披露しながら歩くという、いわば「お嫁入り」の顔見世的なものもあったとか。しかし、天下泰平、五穀豊穣を祈るこの亀山の五穀祭が関の街ぐるみの賑わいだったのは戦前まで。特に、市の中心部が戦災にあってからはさびれてしまい、戦後、復興の意味もあって「みなと祭り」が始まってからは、賑わいはこのつくられた祭りのほうに移っていった。

みなと祭りは昭和二十三年の「復興祭」が始まりとされるが、当時はまだ祭りどころではなく、笛吹けど踊らずといった状態。二十七年になり、主体を市から商工会議所に移してみなと祭りがスタートした。この年は四月の先帝祭と一緒にやったが、翌年からは五月三、四、五の三日間。仮装市中行進や山車コンクール、源平船合戦(三十年から十年間)など、毎年多彩をきわめたものであったという。

四月二十四日の先帝祭上臈道中、五月三日からのみなと祭りにはさまれて、さびれる一方の五穀祭に、関の氏神様の祭りじゃないかとの声もあって、四十一年からはみなと祭りと五穀祭 を合わせてやるようになった。みなと祭りはその後、源平祭と名を改め、先帝祭の前にムードづくりのために行われてきたが、とうとう五十二年は「金がかかる」といった裏の事情で見送りとなった。

逆に、戦後はすっかりさびれていた関の八丁浜五穀祭のほうは、ここ三、四年は年を追って賑やかになってきており、五十一年からは宝恵籠も復活、馬関っ子を喜ばせている。郷土意識が薄いといわれる下関にあって、郷愁を抱ける数少ない祭りだけに、この機会に、今度こそ、ぜひ強く広く根を植えつけてもらいたいものである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)

(彦島のけしきより)